夜をくるむ温度-1

2022年6月28日
おはなし

 

 

 今日は午後一番に女性死神協会の定例会の予定だった。前々回は諸事情で中止となり、前回は任務と重なってしまった為、面々と顔を合わせるのは暫くぶりである。
 会議と言ってもそう仰々しいものではない。誰かしらの持ち込み企画や季節の行事など何か議題があればよいのだが、殆どは世間話や噂話、仕事の愚痴など雑談で終える事も多い。
 前回の会議の翌日、念の為清音に議事録を見せて欲しいと頼んでみたが、勇音の手土産のあんみつを食べて終わったというのだから普段どおりであった。
 清音の語るあんみつの感想を聞きながら、どうしてそういう時に限って珍しく任務が重なったのかと悔しさが滲んだものだ。
 月末も近く、書類が溜まる一方であった今日、出来るならば欠席としたいところであったが、また勇音があんみつを持ってくる可能性を考え、業務の隙間を縫い会議室へと顔を出した。

「すみません、遅れてしまって…」

 顔を覗かせると、会長である草鹿の姿は無く、時刻をわずかに過ぎている筈だが会議が開始されている雰囲気はない。まばらに腰を掛けた面々が談笑しており、あれ、と零す。
 特に議題が無くとも定刻となれば何となしに始まっている事が多いから、珍しいと思ったのだ。あたりを見回していれば、手前の席に腰をかける松本と伊勢が千世の姿に気付き、会話を止め手招きをした。

「ああ、千世さん。丁度よいところに」
「あら、味方につけるつもり?千世はあたしと同じだと思うけど」

 座りなさいよ、と松本は椅子を引く。嫌な予感を覚えながらも、空いていた二人の間の席に腰を掛ければ肩にぽんと松本の手が乗った。

「七緒がね、結婚まで身体の関係は結ばないとか前時代的な事言うのよ」
「ぜ、前時代的ではありません!恋愛というのは精神的な結びつきが重要で…」
千世からも言ってやってよ。結婚した後に身体の相性が最悪だったらどうすんのよ、取り返しつかないのよ」

 まるで週末の居酒屋のような会話だ。何本も徳利を開けた後、呂律もあまり回らぬような状態で交わすような。平日の昼間から一体何をしているのだと、間の席に腰掛けたことを早速後悔した。
 言ってやってと言われても、咄嗟に何と返せば良いか思い浮かばず口を結んだ。二人の視線から逃れるように宙を見ながら、机の上へ置いてきた書類の事を思い浮かべる。
 どういう経緯でその話題に行き着いたのか、きっと大した切欠ではないのだろう。大した切欠であるはずがない。
 あまりそういう話題はもともと伊勢が好まないはずだが、松本が焚き付けでもしたのだろう。眼鏡の蔓を指先で軽く持ち上げた彼女は、その鋭い眼差しを千世へと向ける。答えを求められる視線が痛く、話題反らしに草鹿の行方を尋ねた。
 少し見回してみれば、勇音と清音、砕蜂が少し離れた場所で会話をしているが、そういえばネムの姿も無い。詳細はまでは知らないが、草鹿とネムからそれぞれ今日の会議は欠席との連絡が直前で入り、実質中止に近い状態になってしまったのだという。
 だがそうはいっても会議室は借りているし、面々も集まってしまったから、折角ならば時間までは各々過ごそうかという事になったようだ。

「それで千世さんはどちら側なんですか」
「えっ!?いや、ええと…というより、どうしてそんな話になったんですか…」
「えっと…何でだっけ?まあ良いのよどうだって。で、どうなのよアンタは」

 誤魔化そうとしたものの無駄だった。再び千世へと向く二人の視線を受けてそれっぽく腕組み唸ってみるが、どちらかという答えを口にする気にはなれない。
 どちらが正しいかなど、その男女の関係や互いの性分、価値観によるだろうし一概にああだこうだと議論するようなものではないというのが、今の所の答えなのだが。しかし、そう口にしたところで、この様子では二人が納得する筈もない。

「乱菊さんの発言は、あたかも性交渉が交際の目的になっているかのようなものばかりで…相手を心から大切に思うなら、婚前に性交渉が必ずしも必要とは思えません。愛情の行き着く先に婚姻があって、それを経てようやく辿り着く行為です」
「ちょっとちょっと、あたしだって愛情の結果としての行為の話をしてるわよ。その先にようやく結婚があるって事。愛を確かめ合う行為なんだから、順番が逆」
「いえ、逆なのは乱菊さんの方ですよ。婚姻関係を結ぶまでは赤の他人な訳ですから…肌を合わせるまでに至る関係性を結ぶことの方が先です。それに、大体子孫を繋げる為の行為であって、乱菊さんが言うのはただ性欲の…」
「もう七緒ったら本当にウブなのよ、本気の恋愛をしたこと無いの。心から好きな男が出来れば分かるわよ、相手の全てを手に入れて、自分だけで満たしたい気持ちが。愛を育む為の行為の一つなのよ、ねえ千世
「いや、いや…二人とも、私を見ないでください…」

 どちらが正解だという答えは無いという前提で、二人の言い分はどちらもよく分かる。突き詰めてしまえば人それぞれだという話なのだが、どうにかしてこの二人は千世を自軍へ引き入れ白黒つけたいようだった。
 しかしそう行為だとか、愛だ何だとしつこいくらい話題にされれば自然と記憶が脳裏を掠める。必死で追い払いながら、やはり此処はどうにも居心地が悪かった。
 今まで幾度となく浮竹と過ごした夜は、つまり伊勢が頑として否定する婚前交渉に違いない。互いに大切と思うなら、必ずしも必要とは思えないと彼女の言う行為を求めたことに違いないし、求められたのもまた事実である。
 よって自分の立場からしてみれば松本の意見側に違いないのだが、勿論伊勢の言い分も分かる。まだ思いを伝える前、その姿さえ見る事ができればその日一日は安易にも幸せを感じていたし、更に言葉を交わして傍に居る事など、大袈裟でもなく幸甚の至りに思っていた。
 それは恋仲となった今でも変わることはない。だが、関係が深くなりその肌の熱を知ってしまった事で、今まで触れる事のなかった暗い感情を覚えたのも違いない。それは様々な欲であったり、その欲を知った己への嫌悪感にも戸惑ったものだ。
 伊勢の言うように、互いを思い合う気持ちが強ければ肌に触れぬとも満たされ、それ以上の行為に及ぶ事を必ずしも求める必要は無いのではないか。心の底から互いを大切に思った先に婚姻があり、一生を共にすると誓った後にようやく至る、子を残すための行為なのではないか。
 何も、肌を重ねなければ良かったとまでは思っていない。それによって知る思いは、時折覚える仄暗い感情よりもずっと幸福に満ちたものが多かったと思う。
 だが彼女の凛と澄んだ声はやけに千世の胸にぐさりと刺さるようで、自然と視線を松本の方へと移動させていた。松本は松本で何か含んだような笑みを、千世へと向ける。

「この件に関しては、広く意見を集めたいので次回の議題として」
「い、いやいや、七緒さん、私もよく考えてみるから…議題にするのはちょっと…」
「考えてみなくても、答えなんて分かりきってるじゃない」

 もう、と口を尖らせる松本は千世の脇腹をつんと人差し指で突いた。伊勢もどこか不服そうに、そうですか、と眉を曲げる。次回に持ち越す流れになり、多少冷静を取り戻し始めたのかほっと胸を撫で下ろした。
 これ以上この話題を続けられるのは困る。今は二人の議論で済んでいたが、いつか自分が引き合いに出されるのではないかとびくびくしていたのだ。事情を知る松本が敢えて口にすることは無いだろうが、仔細を知らない伊勢から何の気もなく突かれたらどうしようかと思っていた。

「でもそういえば、千世さんはお付き合いされてる方が居るんでしたよね」

 すっかり忘れてた、と彼女は千世の渋い顔へ笑顔を向ける。彼女は松本と違って千世の相手が何処の誰かを知らない。だからこそ、いつ無邪気な疑問を投げかけられるかが不安だったのだが。

「初めから聞けばよかった。どうなんですか、実際のところ…そのお相手とはどのような…」
「あ…あ、そうだ!すみません、私ちょっと仕事を思い出して…」

 ガタガタと音を立てて椅子から立ち上がると、逃げるように戸のところまで移動する。あれ、と拍子抜けしたような表情の伊勢と、その奥でひらひら手を振る松本に頭を下げそそくさと部屋を出た。
 ぱたぱたと石畳の上を進みながら、嫌でも先程の会話を思い出す。互いの思いに相違がなければ、行為に至る事が間違いだとは勿論思わない。どちらが正解だという事は無いと思うのだが、しかしやけに彼女の前で気まずい思いだったのは、どこか自分の中で思い当たる節が存在したからだろう。
 彼と過ごす全ての夜で肌を合わせる訳ではない。布団に潜り込み、ぽつぽつと会話を交わしながら、知らぬうちに眠って気づけば朝の光で目を覚ます。その穏やかさだけで満たされればそれほど有り難い事は無いのだが、時折そうも行かない夜が訪れる。

千世、どうしたんだ。背が丸いよ」

 背後から掛けられた聞き覚えのある声に、千世はびくりと跳ね、振り返ろうと身体を捻った。だが、驚いて硬直していた足元が言うことを聞かず、あろうことかもつれて石畳の上へ倒れた。
 咄嗟に手をつき大惨事は免れたものの、勢いよくついた膝と手のひらがじんじんと痛い。いい年をしてまるで駆け回る子供のように見事な転倒を見せてしまった事が、ひたすら恥ずかしい。
 かといって響く痛みに起き上がることも出来ず、情けないことに暫く地面に伏せっていた。千世、と声の主は驚いたようにその傍へと駆け寄る。

「…すみません、お恥ずかしいところを…」
「いや、俺が悪かったよ。突然声を掛けて驚かせてしまったな」

 浮竹に支えられながら身体を起こした千世は、一旦石畳の上へ座り込む。痛みが徐々に強くなる膝小僧を、袴を捲くって覗いてみれば見事に赤く擦りむき血が滲んでいた。
 見せてご覧、と優しい声音に千世はその不安げな顔を見上げながらまたぎくりと固まった。彼の白く節くれた指が膝に触れ、なぞる。傷の様子を見ているのだろうが、指先がつつと肌を撫でる感覚がどうにも妙で、慌てて辺りを見回した。
 幸いにも人影は無いものの、あまりこの状況が続くと色々と困る。隊長、と思わず口にすれば、そのときじんわりと生暖かい感覚が膝を覆った。それは彼の手の平からのようで、滲んでいた血が徐々に薄く、傷が癒えてゆく。

「簡単な回道だよ。皮膚の傷は残らない筈だが、執務室に帰ったら念の為冷やした方が良い」
「…すみません、ありがとうございます」
「いや、俺が悪いんだ…隊舎まで歩けるかい」
「だ、大丈夫です!お陰で痛みは引きましたので」

 食い気味に千世はそう答え、ほら、と立ち上がって少し跳ねてみせる。不安そうに眉を曲げ、おぶろうか、とでも言い出しかねない様子だった。
 二人並び隊舎へ向かいながら聞いてみれば、どうやら偶然にも男性死神協会の会合に顔を出していたところだったようだ。しかし手元の仕事が終わらない中だった為、差し入れを手渡して帰って来たところだったという。
 状況は違うにしても、抜け出してきた点は同じだ。私も、と思わず言いかけたが、理由を聞かれるのも困るから、結局口には出さず飲み込んだ。
 四つ角を曲がり、隊舎の門戸が正面に見えた頃、ああそうだ、と小さく呟き浮竹がその足を止める。千世も数歩先でつられて止まり、急にどうしたのかと振り返った。

「隊長、どうされたんですか」

 千世が尋ねると、彼は何かを考えたように一瞬目線を横へ流したが、再び千世へと戻し、無言のまま歩を進め近づく。と、僅かに腰をかがめ千世の耳元へと顔を近づけた。突然の行動に思わず固まっていれば、その距離でしか聞こえないほどの小さな声で囁く。

「今夜、帰っておいで」

 へ、と気の抜けた声を漏らした時には既に浮竹は千世の横を過ぎ、慌てて振り返れば既に隊舎の門を潜ろうとしている。つまりそれは、今夜彼の屋敷へ来るようにと言うことなのだろうが、何も急過ぎる。
 時折そう、鍵を預かってからというものの週に何度かはふらっと顔を出しているのだが、口頭で呼ばれる事というのは珍しいと思ったのだ。
 休日が重なれば彼の屋敷で過ごすことは特に約束を取り交わさずとも普通になっていたから、わざわざ囁くように、さも意味ありげに呼び出されたことは確か今まで無い。
 耳に残る声と、膝へ触れた彼の指先の感触が蘇り、自然と心拍が上がるのが分かる。何を期待しているのだと、千世はひとけのない石畳の上で自分の頬をぱちぱちと叩き、門を潜るのだった。

2022/06/28