この夜は君にあげる

おはなし

 

 最近、千世の調子があまり芳しくないように見える。書類を届けに訪れた清音が、心配そうに眉を曲げた。
 ここ数日浮竹は特に立て込んでおり、隊舎で寝泊まりする日が続いている。彼女も彼女で普段の事務仕事に加え任務や霊術院での講義も入り、あまりまともに顔を合わせられていない。たまに隊舎ですれ違えば軽く挨拶を交わしはするが、それ以上の時間は取れず、胸の奥に何か蟠るような日が続いていた。
 時期柄しようがないとは分かっている。ただでさえ溜まりやすい書類の束が、今月を迎えてからは処理が滞り、いよいよ溢れた状況だ。新年度を迎えてひと月経ち、新入隊員らの研修を終え落ち着いたと思いきやである。
 毎年のことだが、この時期にはまだ実戦に慣れぬ者も多く任務中の負傷が格段に増える。次々と舞い込む負傷報告と救援要請について、副官も席官すらも出払っていれば、一般隊士が報告の地獄蝶を連れて半泣きで雨乾堂へ訪れる。
 誰を呼び向かわせ、その後は誰へ報告を上げるようにと、徐々に処理能力の落ちつつある頭を執拗に働かせながら、忘れぬよう指示の走り書きをした裏紙が脇に溜まった。
 そう駆け込み寺にされ続けていれば、三日後には期限の迫る書類に片付く気配が無い。堪らず千世の居場所を試しに尋ねてはみるものの、任務の救援であったり、負傷隊士の見舞いであったり、はたまた知らない分からないとか、兎も角隊舎に居る時間があまりに不定期なようだった。
 それはそうだろう。元から副官の居場所がわかっていれば、彼らが雨乾堂にまで顔を出すことはない。そうは分かっていても、彼女があと一人居てくれたならばと何度か願ったものだ。
 しかし幸いにも、ようやく負傷報告も救援要請も頻度は減りつつあった。出払っていた席官も隊舎へ戻り始め、今も丁度清音が未処理の報告書の束を回収してくれたところだった。手の空いた隙なのだと、彼女は笑う。

「隊長も休まれてください。隊は自分と小椿で見ておきますから」
「…本当に良いのか、二人も暇という訳ではないだろう」
「隊長に比べれば暇も同然です。元気だって、この通り有り余ってますし」
「なら、今日はその言葉に甘えさせて貰おうかな」

 お任せください、と大きく頷く彼女に浮竹は力なく笑って返した。どうやら、雨乾堂へ来る前には千世の居る執務室にも顔を出し同じ事を伝えてきたのだという。二人して頑張り過ぎなのだと、体調を崩す前に息抜きをするよう強く伝えられてしまった。
 清音の去った後、少しさっぱりとした机周りを見渡しながら一息つく。彼女らが目を通した後、最終的な確認が必要とはなるが、不備を事前に弾いて貰えるだけでも十分助かる。思わぬ助けに感謝しながら、一時の開放感ついでに伸びをした。
 後ろへ手をつき、さてどうしたものかと天井を見上げる。
 清音の言う通り素直に身体を休めれば良い話なのだが、頭を過るのは千世のことだ。彼女の調子が芳しくない、というのは浮竹自身も薄々勘付いていたことで、だが生憎中々まともに顔を合わせられる機会がない。
 ここ一週間ほどで時折隊舎で見かけた彼女の姿は、日に日にぐったりとした様子で心配であったのだ。眠たそうな目と、ぼんやりとした虚ろな視線が物語っていた。かと言って詳しく尋ねるような隙も、勿論二人の時間が取れる訳もなく、そのまま居場所さえ定かでないような多忙に飲み込まれてしまった。
 浮竹は思い立ったように立ち上がると、雨乾堂を出る。隊士らと軽く挨拶を交わしながら廊下をそそくさと通り抜け、真っ直ぐ向かうのは彼女の執務室であった。清音が今しがた顔を出してきたと言っていたのだから、恐らく未だ居る筈だろう。
 はい、と聞き慣れた声が返ってくる事を期待して部屋の襖を軽く叩いた。暫く襖の前で待っていたが、しかし返事がない。少し迷いながらも薄く開いて顔を覗かせたが、紙に埋もれる千世の姿は無かった。
 机上の湯呑や食べかけの茶菓子を見るに、寮へ帰ったという訳では無いだろう。部屋を一通り見回した後再び襖をぱたんと閉めると、悩んだように腕を組みながら廊下を更に進む。
 拍子抜けをした。すっかり居るものだとばかり思っていた姿が見えないだけで、こうもあからさまに落胆するとは情けない。その落胆は、仕舞い込んでいた胸の内の蟠りを勝手に肥大させるものだから何とも嘆かわしい。
 しかし姿がないのならば仕方がない、ないものはねだれない。そう彼女が執務室に居ない、という事実を一旦は受け入れはしたものの、次の瞬間には彼女の居場所として思い当たる場所を頭で探していた。
 恐らく浮竹と同じように清音に仕事を持ち去られた千世は、彼女の言葉通り少し休む選択肢を取ったのだろう。ならば、と一つ浮かんだのは隊舎裏の屋外訓練場であった。
 とは言っても、特に思い当たる理由がある訳ではない。ただ、彼女ならばこんな時、どこか風通しの良く静かな場所を選ぶだろうと思った。この時間、隊舎で人目につきにくい場所といえば限られてくるものだ。そこに姿がなければ、諦め潔く雨乾堂に戻るつもりである。
 そう小ざっぱりとした言い訳を少しでもしていれば、彼女との時間を少しでも過ごそうと焦れている年甲斐もない己の情けなさを、多少は誤魔化せているように思うのだ。
 主屋を出ると、初夏の風が心地よかった。書類や封筒の束を抱えずに外へ出るのは久方ぶりだ。軒下で歓談する休憩中の隊士達と軽く挨拶を交わしながら、やがてひと気のない屋外訓練場へと辿り着く。

「邪魔するよ」

 樹の幹の根元へ腰を下ろすその背に近づき声を掛けると、びく、と丸まっていた背筋が伸びる。振り返ったその姿に軽く手を上げ挨拶し、横へと腰を下ろした。
 予想通りであったその姿に、自然と口元が緩く弧を描く。隊長、と驚いたように一瞬は目を瞠った千世だったが、再び脚を抱え背を小さく丸めると、膝へ顎を預けながら眠そうな目をした。

「よく此処がお分かりになりましたね」
「ああ…何となくさ。だが、大当たりだった」

 千世は、口元に僅かに力を込めるようにすぼめて笑った。嬉しかったのか、照れくさかったのか。しばらくぶりにその横顔をまじまじと見つめていれば、その視線に気付いた彼女がふと顔を向け、なんですか、と眉を曲げる。
 眠たそうな目は相変わらずだったが、廊下で見かける度にぐったりとしていたほど調子が悪いようには見えなかった。

「仕事は落ち着きそうか」
「ええ、はい。清音さんが、小椿さんと捌くからと少し持っていってくれて…一寸くらい休みなさいと。隊長も、そんな所ですか」
「まさに、そんな所だよ」

 浮竹はそう答えて笑う。寸分違わず大当たりだ。
 突然現れた清音に、散らばっていた書類をかき集められて取り上げられたのだという。今直ぐ此処を離れて少しでも休みなさいとすごい剣幕で言う彼女に押し負けて、仕方なく人の居ない此処で休んでいた所、浮竹が訪ねたというわけだった。
 樹の幹に背を預けながら、彼女ののんびりとした口調にうんうんと頷く。普段も穏やかな声音だが、今日は特別呑気な調子だ。聞いている間に、つい眠たくなる。

「でも、実は仕事自体はそこまで重かった訳ではなくて…」
「…それにしては、疲れ果てていなかったか」

 ん、と浮竹は彼女の言葉に眉を上げる。相当目を回すほどの業務量を抱えているとばかり思っていた。いや、実際に浮竹が抱える書類から察するに相当量の書類と、更には現場任務等も重なっていた筈だろう。
 実際日に日に疲れ果てた様子の千世を、時々とはいえ目撃していた。だが、彼女によれば去年に比べれば今年は音を上げるようなほどでは無かったのだと言う。
 ならば何故、と思わず尋ねる。何故、と繰り返し頭に疑問符を浮かべた彼女に、とうとうその目の下のくまを指摘した。途端に、ああ、と少し気まずそうに目線を反らす。

「……あまりよく眠れていないんです」
「気が休まらないからだろうな…落ち着くような時間が無かったろう」
「ああ、いえ……原因は分かってるんです」
「原因…仕事じゃないのか」

 首を振り、ええと、と千世は口ごもる。
 成程。浮竹からすれば、明らかに業務過多による不眠に違いないように思えた。いや、誰が聞いたところでそう指摘するだろう。清音も仙太郎も実際に彼女の疲労困憊具合を見て、書類を奪い去って行ったのだ。
 いくら業務量がまだ許容範囲であったとはいえ、朝早くから、毎晩日付を跨いでも隊舎に残っていた事くらいは知っている。
 千世から続きの言葉を待っていたものの、どういうわけかその頬がほんのりと色づいている事に気付いた。何を照れる瞬間があったのか、今度は浮竹が頭に疑問符を浮かべる。

「…おやすみ、してくださいませんか」
「……おやすみ?…おやすみと、言えばいいのかい」

 千世は照れたような様子で頷く。頭へ浮かべた疑問符は、さらに数が増える。今から眠ることに許可を出して欲しいという事か。いまいち真意がわからず、浮竹はぽかんとその横顔を見る。

「この前まで、ずっと隊長のおやすみで眠っていたので…」
「…おやすみが無くなって、眠れなくなったという事か」
「…な、何と言いますか…習慣となってた事が、突然無くなってしまって…つまり、例えば…茶菓子の無いお茶の時間のような…葉の無い蓮の花のような…」

 彼女が口走る例えは良く分からなかったがつまり、毎晩のようにおやすみと言い合い迎えていた夜が無くなり、寝付きが悪くなったという事なのだろう。なるほど、と未だもごもごと口ごもる彼女の横でうんうんと頷く。
 確かに、彼女と過ごす時間は時が経つにつれ自然と増えていた。多少残業をしようが、必ず屋敷に帰り、二つ並べ敷いた布団に潜り眠る。半ば、当たり前のように過ごしていた日々が、この異常なほどの多忙にすっかり飲み込まれてしまった。
 あまりに寝付きが悪いから、いくら遅くなろうとも必ず寮へ帰り、風呂にもゆっくり浸かって、良いかおりの香も焚いたというのに、どうしてもそわそわとして落ち着かず、眠れないのだという。
 子供みたいで、お恥ずかしいのですが。消えそうな声で言う彼女に、浮竹はくすくすと笑った。

「おやすみがあるのと無いのでは、全然違うんですよ」
「それなら、寮に居る同僚に言ってもらうのはどうなんだ」
「…それは、そうなんですが…そういう事ではなくて……」

 じっとりと目線を送る彼女に、悪い悪いと謝った。
 確かに、思い出してみれば暗い部屋の中、おやすみなさいと彼女の声が返ってくると安心して目を瞑れたものだ。飲み込まれそうな夜の中、また朝が来ることを思い出させてくれる言葉だと思う。
 その隣で眠る安堵に浸かりながら、一日の終わりと明日の始まりを共に迎えられる事はきっと当たり前ではない。
 一瞬開いた口をぎゅうと閉じ、噛み殺すように欠伸をした彼女を、浮竹は目を細めて見る。

「そんなお安い御用なら、いくらでも言いなさい。何なら、これから毎晩だって構わない」
「ま、毎晩は!……だってそれでは…一緒に暮らさないと」
「ああ、俺は別に構わないよ」

 そう零した後、あ、と口を閉じる。勢いで口に出すものではない。眠たそうだった目を見開いた千世の戸惑いに、僅かな後悔が滲む。

「…い、いや…悪い、性急過ぎたな」
「いえ、す…すみません…私も、変なお願いをしてしまったので…」

 まさか。変なお願いなどとは思うわけがない。大切に思う相手の一日の終わりに挨拶を出来る事が、どれほど幸いであることかを今更噛み締めていた。

「だが約束するよ。毎晩は叶わなくとも、傍に居る夜にはこれからも必ず」

 約束、と千世は繰り返す。その言葉が気に入ったのか、口元を緩ませた彼女は頬を染めた。その柔らかな頬に思わず触れれば、彼女はようやく抱えていた膝を解き、背を倒す。
 樹の幹に二人して凭れながら、木陰の涼しい風で髪を揺らした。思わず居眠りをしたくなるような日である。夏を迎える前の、恐らく一年で最も穏やかな時の流れる。

「実は、隊長が此処に来てくれるような気がしていたんです」
「…どうして」
「何となくです。でも、大当たりでした」

 探し当てたと思っていたが、誘い出されていたのか。偶然か、はたまた以心伝心であったのか。
 笑った彼女は、瞼を閉じて身体を浮竹へと預ける。凭れる甘い重みを肩に受けながら、彼女の細い身体へ腕を回し軽く抱き寄せた。するとすぐに聞こえた穏やかな寝息に、浮竹はまさかと顔を覗くが、もう既に夢の中のようである。
 結局、おやすみを言う前に寝てしまっているではないか。その言葉にどんな意味があるのかと照れくさそうに説明をしていながら。その幸せそうな寝顔を見ながら、浮竹は一人呆れたように笑った。
 心地よい体温を感じながらおやすみ、とひとつ囁く。この初夏の風に乗せられ消えてしまいそうなほど小さく零した言葉が、夢の中へと辿り着いたのだろう。腕の中でこそばゆそうに微笑む彼女を眺めた後、少しだけと目を閉じた。
 やがて二人が行方不明だと慌ただしくなる隊舎の喧騒などいざ知らず、共に目を覚ますのはとっぷり日が暮れた頃の話である。

 

この夜は君にあげる
2022/05/18
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