上の空に消えていった

おはなし

 

 

 エイプリールフール、と初めて聞く言葉を浮竹はたどたどしく繰り返した後ぽかんと口を開いた。

「嘘をついても許される日です。正しくは、午前中のみのようですが…」
「…それまた、どうして」
「どうして、という事までは存じ上げず…とにかくそういう日だと、一護から聞いております」

 やはり現世とは興味深い。浮竹は朽木の話に頷き笑った。一年に一度、四月一日の午前中には嘘をついても許されるようで、その行事のことをエイプリールフールと呼ぶのだという。
 怒涛の三月がようやく過ぎ去り、また今年も新たな仲間を隊へ迎えた。早いものだ、この前の春をつい昨日のように思い出せるというのに。
 一通りの行事やらなにやらをようやく済ませ、隊首室で一息をついていた所へ朽木が顔を出した。
 新年度の挨拶だと、丁寧にも頭を下げる彼女にお礼の茶菓子を差し出しながら、気まぐれに現世の何か面白い話が無いかと尋ねてみたのだ。
 彼女は先日も現世の友人に会いに行っていたようだから、また興味深いことを仕入れているのでは無いかと期待した。その期待に応えてくれるように少し考えた様子の後、そういえば、とこの四月一日の事を教えてくれた。
 朝から隊士同士が軽い冗談を言い合うような姿を朽木が見かけたと言うから、この尸魂界でも自然と広まりつつあるようだ。現世の行事というものは、いつの間にか輸入されていつも自然と根付いてゆくものだ。

「浮竹隊長でしたら、どのような嘘をつかれますか?」
「俺か。そうだな……」
「しかし伺っておきながら、ですが…隊長と嘘というのは、あまり似合いませんね」
「まあ、得意でないのは確かだよ」

 嘘をつく必要に駆られた事が、今までに無いというのが正しいのだろう。茶菓子を食べ終えた朽木が、頭を下げて部屋を出る彼女の背を見送りながら、つい先程の言葉を反芻する。
 嘘をつくとしたら、など今まで過ごしてきて考えた機会が無い。通常嘘というのは、隠したい何かを誤魔化すため咄嗟に出てくるものだろう。嘘をついて良いと言われた所で、直ぐ浮かぶものでは無い。
 それに、誰につこうかというものだ。朽木に例えば、と実際の話を聞いてみたが、例えば恋人の居ない者が恋人が出来ただとか、結婚することになっただとか。偉人の末裔だったとか、実は異動になっただとか、そんなどうという事もない冗談ばかりだと教えてくれた。
 だが、聞かされた者も一瞬は信じるだろうし、しかし突拍子もないものならば初めから疑うこともあるだろうか。疑うというのも心を消耗するものだ。どちらにしても、やはり嘘はあまり好まないというのが、浮竹のぼんやりとした感想であった。
 しかし若者の間であれば、きっと軽い交流や話題の一つとして有効なのだろう。冗談を言い合い、互いにそれを冗談と理解できる柔軟さとは良いものだ。やはり、現世の感覚というものは新しく興味深い。
 さて、と浮竹は菓子盆を片付け立ち上がる。ひとつ大きく伸びをすると、それから部屋を出た。まだ多少肌寒い風が吹くが、実に良い季節となった。
 寄ってきた池の鯉のぱくぱくと口を開く様子を暫く見ていれば、何やら賑やかな声が聞こえる。誘われるように渡り廊下を進むと、ふと目に入った姿があった。
 今日入隊したばかりの新入り達を引き連れ進む千世の姿に、思わず微笑む。親鳥とそれについて歩く雛のようだと毎年思う。暫く立ち止まって様子を見ていれば、隊舎案内は一段落したのか、研修で使用している大部屋へ隊士らを入室させた後にほっとした様子で襖を閉めた。
 千世、と歩き出した彼女の背を浮竹は呼び止める。振り向いた彼女は、目を大きく見開いた。

「ああ、隊長!この後は清音さんの時間で…ご挨拶されますか?」
「良い、良い。度々顔を出されても鬱陶しいだろう」
「むしろ喜ぶと思いますよ」

 促す千世に、浮竹は首を横に振る。この後彼らは小休憩を挟んだ後、清音が代わり再び座学になるのだという。随時様子は気になるが、朝に一度と更に昼前に一度顔を出しているからこれ以上は流石に暇だとでも思われそうなものだ。
 ぎし、と踏みしめる度か細い音を立てる廊下を進みながら、研修の様子を彼女はぽつぽつ呟く。今年の子達は去年の子達に比べて静かだとか、鬼道が得意な子が多いとか。緊張している様子がなんだか可愛いのだと、頬を緩める。
 ふと、横を歩く彼女の手元を見ると、風呂敷に包まれた何かをぶら下げている。それは、と視線を向けてみれば、彼女は途端にぱっと顔を明るくさせた。

「余ったお弁当を貰ったんです」
「ああ、新しい子達用のかい」
「はい、どうしてか小椿さんが多めに注文してしまったようで…今その余りがふたつほどこの風呂敷の中にあるのですが…」

 尻すぼみに小声になった千世は、僅かに目線を横へ逸らす。つまり、一緒にどうかという事なのだろう。何か話したいことでもあるのか、それとも一人では味気ないのか。どちらにしても嬉しい誘いである。
 幸いにも急ぎの仕事があるわけでもない。浮竹は微笑み頷くと、彼女は自然と口角の上がった唇へきゅっと力を籠めた。
 彼女の執務室は何時も以上に雑然としており、足を踏み入れたと同時に思わず動きを止めた。すみません、と恥ずかしそうに肩を窄める彼女は、慌てたようにばたばたと足元に散らばる書類や帳面をまとめ、適当な場所へとさらに重ねる。
 この時期は特に仕方ない。年度末の仕事と並行して新入隊士の研修準備となるのだから、いっそ散らばっていた方がすぐに書類を手にできて都合が良いくらいだろう。しかし海燕の時はこれがまだ可愛いと思えるほどの有様だった事を思い出し、ふふと笑った。

「すみません…片付けようとは思っているのですが、なかなか…」
「風物詩みたいで、俺は好きだよ。この時期らしいんじゃないか」
「そのご感想は何と言いますか…隊長らしいですね」

 千世は縁側に風呂敷包みを置き、茶箪笥から取り出した茶筒を急須へ傾ける。未だに活躍を見せる火鉢に載っていた土瓶を手にして湯を流し込むと、良い音と共に湯気が立ち昇った。
 縁側で過ごすには実に良い時期だ。庭の桜は既に花びらがもう散ってしまった後だが、新芽が鮮やかで初々しい。
 先に縁側へ腰を下ろし、彼女が渡してくれた湯呑を手にした。ありがとう、と一言返せば彼女は少し照れくさそうに微笑み僅かに頭を下げる。湯呑の熱と、さっぱりとした茶の香りは実に穏やかであった。
 直ぐ側に腰を下ろした千世が湯呑へ口をつけたのを見て、浮竹も同じように口にする。と、ぐう、と何とも気の抜けるような音が耳に入り思わず彼女を見た。
 腹を押さえて背を丸め、恥ずかしそうな姿に浮竹は笑う。相当腹が減っているのだろう。食べようか、そう声を掛ければ待っていましたとばかりに脇に置いていた風呂敷包みに手をかけた。

「隊長も未だお昼ごはん、召し上がられて居なかったんですね」

 弁当の蓋を開きながら言う彼女の言葉に、浮竹は黙って茶を啜った。
 実を言うと、昼食は既に済ませていた。凡そ二時間ほど前、隊首会の帰りに定食屋で済ませてしまっていたのだった。彼女から弁当の誘いを受けた時に、素直に伝えていればよかったのだが、そうですか、と悲しそうに眉を曲げる姿を想像すると敢えて言う気にならなかったのだ。
 実際、浮竹が彼女の誘いに頷いた時の噛み締めるような笑みのいじらしさを見て、まさか実は満腹なのだと言えるはずが無い。その瞳を輝かせて弁当箱を見下ろす千世は、美味しそうですよ、と満面の笑みを浮竹へ向ける。
 まさか、実は焼き魚の定食を腹一杯に食べてきてしまったのだと、やはり言えそうになかった。

「少し遅いお花見ですね、葉桜ですが」
「今年の桜は短かったからな。あっという間に散ってしまったね」

 そう言って庭の木を見上げる。今年は三月の頭から気温の上昇が続き、下旬に差し掛かる前に満開を迎えてしまったのだった。まるで多忙の時期を見計らったかのような満開だったから、はらはらと風で落ちてゆく花弁を見ながら悔しい思いをしたものだ。
 冬が終わりかけの頃、春は二人で花見でもしようかと会話をしていたのだが残念ながら叶わなかった。出来ることならば、葉桜ではなく満開の桜を眺めながら過ごしたいものだったが、しかし折角偶然にも二人だけの時間を取れたのだから、贅沢は言えまい。
 千世は漬物を口に運びながら、浮竹の視線に気付いたのか首をかしげる。食べないんですか、とまだ一口も手を付けていない弁当を彼女に促され、ああ、と慌てておひたしを箸で摘んで口に運んだ。
 美味しいですね、と千世は微笑む。腹の八分目までは既に昼の定食で埋まってしまっていたが、彼女にそう同意を求められてしまえば笑顔で頷く他ない。

「もともと、一人で二箱食べるつもりだったのかい」
「ああ、いえ…勿論余っていたからというのもあるんですが、もし隊長と一緒に食べたら良いな、なんてふと考えていたら、二つ貰ってしまって…」

 思いも寄らない言葉に、へえ、と浮竹は自然と目を細めていた。不思議に思っていたのだ、食い意地を張るような性分でないだろうに、どうして二つも弁当を譲られていたのかと。まさかそんな可愛らしい思いが理由とは思わなかった。
 彼女の無意識の中に、己の存在が入り込んでいる事がどうにも浮竹の胸をざわつかせる。一つの濁りもないその澄んだ瞳を揺らすのが他でもない自分だけかと思うと、今まで知り得なかった感情が淀むのだ。
 初めは戸惑ったものだが、今では心地良いとすら思う。それは自分の無意識中にもまた、彼女の存在が入り込んでいる事を知ってからだろう。

「そうしたら、まさか本当に偶然隊長とお会いできて、お昼が未だだと仰るから…もしかして、隊長と以心伝心だったのかと思ったり…しまして……」

 そう言い終えた後急に恥ずかしくなったのか誤魔化すように笑い、すみません、と一言呟くと視線を再び弁当へと落として黙々とおかずを口へ運ぶ。その咀嚼でもごもごと動く頬を見つめていたのだが、その視線が居心地悪かったのか嚥下した後に箸が止まった。

「…隊長、私食べ終わっちゃいますよ」
千世の食べっぷりが随分良いから、つい眺めてしまった」
「だってこのお弁当、すごく美味しいんですよ。それに、私の好きなものばっかり」

 そう言われて見てみれば、確かに彼女が好きなものばかりが詰められている。特に今しがた一生懸命に食べていた小女子の佃煮を、浮竹はふと箸で掴んだ。

「食べないんですか」
千世に譲ろうかと思ってね。好きだろう」
「…え、良いんですか」

 素直なことだ。余程腹が減っているらしい。そう言って載せてくれとばかりに自分の弁当箱を差し出した千世の口元へ、箸を近づけた。どういうことかと、浮竹の行動に疑問符を浮かべたのと同時に、きっとそれは反射的に開いたであろう彼女の口へ、そのまま箸を運び込む。
 ん、と驚いたように目を見開いた千世だったが、しかし素直にそのままもごもごと佃煮を噛み締めた。飲み込んだ後、何かを言いたげに開いたその口へ、次は半分に切り分けていただし巻き卵を運ぶ。
 眉間に皺は寄ったが、やはり素直に咀嚼する姿がどうにも面白く、それから他のおかずに変えて更に二度ほど繰り返した。

「…隊長は食べないんですか」
「俺の事は良いんだ。折角千世の好物なんだから」
「そういう問題ではなくて…隊長だってお腹空いているのに、ちゃんと食べないと…」
「次はどれが良いんだ、つくねか煮豆か…」
「え、いや…じゃあ、ええと…そこの筍を…」

 好物の誘惑に耐えられないのか、何だかんだと言いながら結局噛み締めながら頬をもごもごとさせる様子に、自然と目尻が下がっていた。しかし都度、千世は盛んに浮竹の空腹を心配するから、それをやんわり躱してまた箸を差し出す。
 徐々に減ってきた弁当箱の中身を眺めながら、果たしてこれは嘘と言えるのだろうかと、つい先程の朽木との会話を思い出していた。
 実は満腹で、弁当気分ではない、などもともと大した嘘では無い。だが、嘘というのはその中身がどうであれ積み重ねるほど負い目は増すものだ。
 しかしそれにしては、罪悪感が薄かった。むしろ、彼女が困惑しながらも、好物の欲望に抗えずぱくぱくと箸を咥える様子に愛らしいとさえ思う。それこそ、穏やかに目尻を下げるほどに。
 この位の嘘ならば、たまにはつくのも悪くないか。だって彼女は喜んでおかずを食べているし、その幸せそうな姿を見ながら実に良い気分だ。彼女から誘われた時、もう昼を済ませてしまったことを正直に伝えていれば、浮竹の膝の上の弁当は今頃他の者の手に渡り、この光景も無かったのだろう。
 今度は椎茸を口に運んでやれば、彼女はやはり頬を緩ませる。案外、些細な嘘とは良いものかもしれない、など甘い光景を前に一瞬過った考えを、今日だけ、今日だけと現世の行事にかこつけ、春の風に乗せるのだった。

 

上の空に消えていった
2022/04/06
(遅いエイプリールフールネタ)