さかさゆびきり-5

おはなし

 

 

 二日ほどほぼ強制的に休養を取らされた後、隊へ復帰した。
 同行していた先輩隊士には謝り倒したが、彼は怒るどころか酷く深刻そうな顔をして、養生しろよとだけ言った。体調管理は隊士の基本だと説教されることを覚悟していたのだが、拍子抜けをした。いや、落胆をした。
 咳き込み口から血を流す様子に余程驚いたのだろう。彼の目には多少憐れみさえ感じた。
 憐れまれる機会は昔からそう少なくはない。学院時代にも、体調が優れない為に数日休んだ後など散々級友からは声を掛けられたものだ。心配と言えば聞こえは良いが、つまり不憫に思われているのだ。身体が弱くて、可哀想だと。だが勿論、そこに悪意など何ら無い。
 だから何だという訳ではない。友人たちはきっと本心で心配をしてくれていたし、それに感謝をしていた。休んでいた間の板書を見せてくれ、場合によっては授業後にわざわざ解説すらしてくれる親切な友も居た。親切で優しい友に囲まれ過ごせた事は、俺にとって宝のような時間だった。
 ただ、日南田さんだけは少し違ったのだ。と、また彼女の姿が蘇る。
 学院時代、放課後の自主練習に付き合うようになってくれた彼女は、俺の身体の弱さを知ってはいても決して手を抜くことはなかった。優しくなかった、訳ではない、決して。
 むしろ優しすぎたとすら思う。放課後、中々友人の話が途切れず、大分遅れて彼女の居る訓練場へ現れても、その手元の本を閉じて微笑み咎めることもない。良かった、とどこかほっとしたように頬を緩める姿に俺は腰が曲がるほど頭を下げたものだ。
 だが木刀を手に向き合えば途端に空気は変わった。病み上がりだと知っていても真剣な眼差しは変わらず、途中で咳き込んでも平気で喉元へその切先を突き付ける威勢の良さには、何度経験しても慣れないものだった。
 心底、本気で向き合ってくれているのだと、益々惹かれた。体調を崩し数日ぶりに会っても、じゃあ始めようかと、そう一番に笑顔を見せる。数日熱に浮かされながら布団の上で過ごしていた俺にとって、その笑顔は百薬にも勝った。
 あの感情が再び、当時ほどの鮮やかさでもって蘇るようだった。何も言わずに微笑む彼女が数年ぶり目の前に現れ、一瞬は時が止まったとすら思ったものだ。むしろ、止まって欲しかったとすら思う。
 なぜ彼女の背を追いかけなかったのかと、自宅の天井を見上げながら何度も反芻したものだ。数日経った今でも、その後悔は僅かも薄れること無く胸の奥で淀んでいた。

「四番隊から手紙だよ」
「…俺にですか?」
「ああ、ほら。お前の名前が書いてある」

 夜警の勤務を終えた朝、隊士宛の手紙の束を持った隊士から一通の封書を手渡された。四番隊から、と聞き途端に息を一瞬潜めるのだから恥ずかしいほどに素直な感情だと思う。
 確かに封書には俺の名前宛となっており、夜警後のあまり働かない頭のまま手紙を広げた。中身は先日救護棟へ運ばれた際に受けた検診の結果であった。肺機能が一時的に低下している為、経過観察となった旨が記載されている。
 経過を一度見る為、下記の日程で四番隊救護棟まで訪れるようにと、そのすぐ後に書かれていた日付は今日であった。は、とその日付を見ながら思わず一人で声を漏らす。
 まさか検診の連絡を当日に連絡を受けることになるとは思わない。突然の事に動揺したのか、途端にへばり付くような疲れはどこかへと影を潜め、自然と背筋が伸びた。単純な俺の頭には、あわよくばと、そればかりが巡った。
 あわよくば、また彼女の姿を見つけられるのではないか。数百と居る隊士の、更に特定の時間、場所で二度も偶然が起こる筈がないとは分かっているのだが。
 だが、あの姿を見てからというものの、脳裏にこびりついて離れなかった。今まで思い出の中に居た彼女が再び、鮮やかに色を持ってしまった。もともと諦めきれていない上、先日京楽から聞いた卒業の日の話が頭を巡る。
 浮竹、と背後から先輩隊士に声を掛けられ、はっと顔を上げた。何度か読み直した手紙を、ようやく懐へぐしゃりと仕舞う。風呂に行くと言うその背に、俺はまるで意思のない雛鳥のように、ぼうっと着いていくのだった。

 自らの足で四番隊へ向かうのはこれが初めてだった。何しろ、護廷隊での生活が始まって先日までは幸いにも体調を大きく崩すこと無く、休養と常備薬で持ち堪えられていた。先日此処へ運び込まれたのが、此処の生活での初めての入院という訳だった。
 救護棟へ入ると、忙しなく隊士が行き交う。何を用意してとか、何処へ向かって欲しいとか。暫くその様子を眺めていたが、埒が明かないと一人の隊士を呼び止めた。手紙を懐から出し、検診の予定がある旨を伝えると、少しばかり迷惑そうに顔を顰める。
 手紙に目を通すと、待っていてくれとその隊士は残し、踵を返して去っていった。そこからまた少し待ちぼうけを食らいながら、俺は廊下を行き交う姿を一人ひとり、自然と目で追っていた。
 我ながら見上げた執着心であった。彼女が夫人となったことを聞いてもなお、抱いた恋心を捨てきれていない。彼女が結婚をしたというのも人づてに聞いたのみで、もしかすれば単なる噂かもしれないと、内心無理のある目の背け方を試している。
 間もなく、どこからか名前を呼ばれ辺りを見回す。先程無理に呼び止めた隊士が手招きしており、俺はおとなしくその元へと向かう。

「此処でお待ち下さい。直ぐに担当隊士を向かわせますので」
「ああ、はい。すみません…お忙しい中」

 いえ、と軽く頭を下げ、彼は部屋を出る。そう広くはない部屋の畳の上に、目立ったものといえば診察用の薄い布団が敷かれているくらいで、あとは部屋の隅に文机と、薬籠らしき小箱が置かれている。先日も同じような殺風景な部屋で目が覚めた。ツンとした薬品の香りが、余計に無機質に感じさせているのかも知れない。
 布団の上で横になって待つ訳にもいかず、その脇に腰を下ろして担当とやらを待っていた。だが、一向に現れない。隊全体の多忙な様は実際にこの目で見て十分承知していた為、仕方ない事ではあるのだが。
 だが暇を潰す何かがある訳でもないこの部屋で、これ以上呆然と過ごす事にも限界を感じる。今まで忘れていた眠気が此処にきて徐々にぶり返し始め、瞼も重い。
 少しだけ、という思いが命取りであることは分かっていたものの、薄い布団の上に横たわった。戸が開いた音で目が覚める程度の仮眠ならば問題ないだろう。深く眠るようなつもりはない。だがつもりはない、と言った所で、意思でどうこう出来ることでないとは分かっているのだが。
 眠気と疲れで、まともな思考が出来ていないようだった。うつらうつらとする間もなく、瞼は重く閉じた。

 次に目を開けた時、知らぬ部屋の様子に一瞬混乱をした。だが、間もなく眠る直前の事を思い出し、此処が四番隊の救護室であることを理解した。一体どれほど眠ってしまったのかは分からないが、随分意識が明晰であるから相当深い眠りを貪っていたに違いない。
 一つ伸びをして身体をゆっくりと起こす。格子窓から見える日はまだ高く、一安心をした。これで西日でも差し込もうものならば、途方に暮れたものだった。

「お早う。お疲れみたいだね」

 突然聞こえた声に飛び上がり、態勢を崩した拍子にひっくり返るところだった。部屋の隅、文机に向かっていた人影に気付いた俺は、息を呑む。振り返り笑うその姿に、まさか夢でも見ているものかと暫く目を見開いたまま黙った。
 正しくは、言葉が出なかった。いつから、どうして。喉で言葉がつかえて、半開きの口からはただ息が漏れる。俺の情けない姿に彼女は困ったように笑い、立ち上がると俺のすぐ傍で腰を下ろす。
 久しぶり、と彼女の鈴を転がすような声が響く。何だ、何も変わっていないではないか。その微笑みも、声音も纏う空気も全て何ら変わっていない。先日見かけた時と同じく少し痩せたような印象は受けたが、だが俺が良く知る、長く憧れた姿であった。
 暫く言葉を返せずに居たが、彼女に覗き込まれるようにされ思わず仰け反る。

「…あぁ…いや、その…すみません。少しだけと思い、つい眠ってしまって…」
「気にしないで。私も、起こせばよかったんだけど…随分気持ちよさそうに眠っているから」

 すみません、ともう一度俺は頭を下げる。だらしのない、情けない姿を見せてしまった。様々な感情が入り混じり、どうにも整理がつかないでいる。申し訳ないやら、恥ずかしいやら。だが一番は、ようやく言葉を交わせた事への滲むような喜びであった。
 彼女へ向ける感情の、あまりに単純な構造を今ほど自覚したことはない。今その姿を前にして、彼女が夫人であることも、四番隊へ異動となったことも、そしてあの卒業の日の事も全てどうでも良いと思う。
 その姿が何も変わりない事に安堵し、そしてまた学院時代に抱いていたものと同じような形をした感情を、沸々と身体に感じている。ちら、とその顔を見れば彼女は目を伏せ、畳の目を数えるかのようにじっと視線を落としていた。

「十一番隊で今日大規模演習があったみたいで…負傷者だらけでね。浮竹君を診れる人が皆出払ってしまって、下っ端の私に回り回って来たの。だから、そう大したことは出来ないけど」
「ご謙遜を。日南田さんは席官とお伺いしてましたが」
「そうね、そうだったんだけど」

 そう含みを持たせるように途切れ、彼女は口を噤む。少し言葉の先を待っていたが、彼女が口を開く様子はない。俺は彼女が俺にやってくれたように、真似をして少し覗き込む。

「伺っても」
「…びっくりした」
「…気が進まないのなら、無理にとは言いませんが」

 驚くほどこの部屋は静かだった。慌ただしく廊下を隊士達は行き来していた筈だが、何か特殊な鬼道でも張られているのだろう。

「浮竹君は、変わらず優しいのね」

 日南田さんがそう細める目に、喉元を強く掴まれるようだった。彼女もまた、俺が記憶の中の彼女と重ね合わせるように、彼女は記憶の中の俺と、そして今の姿を重ねてくれたのだろう。
 彼女の中に存在していた俺は、どんな表情をしていたのだろうか。その記憶の中、どれほどの場所を占めていたのだろう。だがまさかそれを尋ねられるほど、彼女が自由で無い事をよく知っていた。

2022/03/19