さかさゆびきり-4

2022年3月11日
おはなし

 

 流魂街で行われていた任務の戦線を離脱した。というのも、負傷ではなく持病が悪化してのことだった。
 その日は朝から調子が芳しく無かったのだが、しかし決して外せない任務であった為、無理を押して出撃した。結果として同伴の先輩隊士には迷惑を掛けてしまったのだから、大事を取るべきであったと、だが今更後悔をしても遅い話だ。
 入隊してまだ一年も立たぬうちに欠勤となるような状況は避けたかった為、今まで以上に体調には気をつけていた。だが冬の近付く肌寒さに身震いするような日が続き、予感はしていたが数日前から空咳が出始め悪化し、とうとう今日は喀血した。
 木の根元でうずくまり、咳込み口から血を流す様子に先輩隊士は相当驚いた様子であった。当たり前だろう、虚の気配もしないというのにまるで何者かに胸でも突かれたかのかと、ぞっとしたに違いない。
 彼には悪いことをしたと、そう脳内では自省し詫びながらも、身体が重く言うことを利かない。身体を引きずるように何里移動したか分からないが、朦朧とする意識の中、どうにか瀞霊廷へ辿り着き間もなく記憶が途切れた。
 目を覚ますと、見知らぬ天井であった。鼻をつくツンとする香りは、幼い頃からよく知っている。発熱する度、苦くて吐き出したくなるような薬を散々喉へ流し込まれたものだ。
 恐らく此処は四番隊の救護棟だろう。一度怪我をした隊士を運び込む為に訪れたことがあった。辺りを見回せば、ここは襖で仕切られた個室のようで人の気配はない。何が起きたかは分からないが死覇装は脱がされ、下着のみ身につけた身体でこの布団へ寝かされている。
 道中、木の枝や何やらでついた腕の生傷はきれいに癒えている。瀞霊廷へ辿り着いてから意識を失った事が幸いだった。若しくは、瀞霊廷に辿り着いた安心によって、どうにか繋ぎ止めていた気力が途切れたか。
 どちらにしても、生きながらえたことには違いなかった。まだ身体は火照り、喉も胸も焼けるように痛い。だがそれは、またこの身体で息を吸い込み、そして吐き出せる幸運を噛み締めるような痛みであった。

 思い出すのは、ある秋の日のことだ。肌寒い朝が続きはじめた、今日によく似たある秋の日だったと記憶している。
 季節の節目というのはどうにも弱い。油断をしているつもりは無いのだが、朝夜の寒暖差はじわりじわりと身体をいつの間にか蝕んでいたのか、講義中に咳込み喀血した。
 度々体調不良で早退をしたり途中退出をしたりという事は少なくなったが、流石に講義室で血を吐いた事は初めてだったからか騒然としたものだ。
 隣席の生徒に助けられ、咳き込みながらもどうにか引きずられるように救護室へと連れられた。救護医から適切な応急処置を受けた俺は、暫く畳の上に敷かれた薄い布団の上へと落ち着くまでと寝かされ、薬を流し込まれると間もなく気絶するように眠った。
 目が覚めると、霞む視界に入った姿に驚き咄嗟に身体を起こしたものだ。俺の眠る姿をまるでずっと眺めていたかのような様子で、日南田千世は傍に腰を下ろしていた。おはよう、と笑う姿に返す言葉が詰まり咽た。
 いつからこの場所に居たのか、どうして居るのかと、様々な疑問が頭を駆け巡り、寝起きでまだ熱の残る頭だというのに驚くほど鋭敏に覚めていた。妙な寝言を言ってやしないか、見苦しい姿を見せてやいないか。
 大丈夫、と覗き込む彼女から少し距離を取るように身体を逸して、ああ、はい。そんな間抜けな返事をした。気の利いた返事など知り得やしないのだ。彼女に対する思いを自覚する事すら覚束ない男が、気が利くはずもない。
 だが、彼女はそんな俺の阿呆のような返事に優しく笑って、良かったと呟く。講義中に倒れたと聞いて、救護室へ顔を出したのだと彼女は続けて言った。どうやらもう放課後、道理で窓から差し込む陽が紅い。
 誰から聞いたのか、薄っすら気になりはしたがだが口には出さなかった。すみません、とせめて彼女の貴重な時間を割いた事に対して謝ると、その口元はまた上品に弧を描いた。ふふ、と小さく息の漏れる音は、この距離でなければ聞こえない。
 俺だけに向けられたその微笑みは、たったそれだけで全てを充たすようだった。彼女と出会い過ごしてからというものの、初めて知る感情に動揺するばかりであった。特に彼女の眼差しの先に自分だけが居る時は顕著で、まるで俺だけが彼女のその眼差しの心地よさを知っているかのように感じたものだ。
 学内の誰もが憧れ噂する彼女の視線の先に今は俺だけが存在し、たった今はその思考すらも独占している事に途方も無い充足感を得ていた。そんな薄汚いとすら感じてしまう感情を、彼女と出会うまでは知りもしなかった。他者と比べて、己が優位である事に満たされる事など今まで無かった。
 先生は、と俺はそういえば思い出したように部屋を見回す。処置を終えた後、俺が眠るまでは確か少し離れた場所で何か書きものをしていたようだったが、今その姿はない。さっきまで居たんだけど。彼女も少し探すように視線を移動させたが、どこだろうねと続けて笑った。
 彼女とたった二人きりであることを自覚した俺は、途端にひどく動揺したものだ。今まで何度も訓練場で過ごすことはあれど、屋内でしかも密室で、この距離で過ごす事は無かった。
 きっと俺の動揺など、彼女は与り知らぬことだろう。穏やかに微笑み、俺の話を待っている。訓練場でもいつもそうだった。空いた時間が出来ると、彼女はそうして微笑んで待つ。それにまるで誘われるように他愛のない、そしてまた俺のことばかりを話した。
 女性に対して気が利かない俺らしいことだ。うんうんと頷き笑い、相槌を打ってくれる心地良さに、何の疑いを持つことも無く懲りもせず甘えた。
 季節の変わり目が苦手だとか、母が送ってきた薬茶が苦くて仕方ないのだとか。彼女がまるでもっと聞かせて欲しいとでも言うかのように言葉を次々と返すから、それが堪らなく幸福だったのだ。
 友人と居ても自分を語ることというのはあまりなく、どちらかといえば聞き役で、だがそれを不満に思ったことは無かった。幼い頃身体が弱く床に伏しがちだった俺にとって、友に囲まれ、話に耳を傾ける時間は何より大切にしていた。
 陽が陰り始めた頃、俺は彼女の顔へ掛かった格子の影にはっとした。またやってしまったと、べらべらと己の話題ばかりを並べ立てた事を途端に後悔する。すみませんと、肩を竦めて謝れば、彼女は何のことか分からぬような顔で小首をかしげた。
 救護医の処置が余程良かったのか、若しくは眠る直前に飲まされた薬が良く効いているのか身体からは熱も引き、身軽ささえ感じるほどになっていた。時が許すのならば、もう少しでもその時間を続けたがったが、やはりそう物事は都合よく進まない。
 襖が開き、部屋へ戻ってきた救護医の姿に二人して驚き背筋を伸ばす。珍しく慌てた彼女は立ち上がると、お大事に、そう一言残して逃げるように去って行った。彼女の消えた半開きの襖を見つめたまま、暫し呆然としていたものだ。

 丁度同じ頃の時期だったと、あの懐かしい甘さを奥歯で噛み締め飲み込んだ。傍らに丁寧に畳まれていた死覇装を身に着ける。まだ体調は万全ではないが、いつまでも此処に居る訳にもいくまい。
 自宅へ戻れば常用している薬もある。多少熱の下がった今ならば、帰宅くらいならば問題ないだろう。しかしこの部屋には誰が訪れる気配もなく、待つ時間も勿体ない。軽く布団を整えると、まだ多少ふらつく足取りで部屋を出た。
 間もなく、白衣を身に着けた男性隊士を見つけ声を掛ける。

「あの突き当りの部屋で休ませて貰っていた者ですが」
「ああ、急患の…十三番隊の?」
「ええ、はい。多少良くなったので帰ろうかと。念の為お伝えした方が良いかと思いまして」

 そうですか、伝えます。そう忙しそうな様子で頷いた彼に頭を下げ、再び視線を正面へと戻した時、ふと脇を人影が通り過ぎた。まるでその人影から糸を引かれたかのように、追いかけるように振り返る。
 条件反射のようだった。学院時代、その姿を見かけた者は皆そうして自然と、目で追うように振り返っていた。
 死覇装姿であっても、その凛とした立ち姿は勿論変わらない。その佇まいは、皆の憧れであった。それは今でも、驚くほど変わらない濃度で以て俺の中には染みついていた。
 学院時代よりも少し伸びた髪を靡かせたその背を呼び止める。口に出したその名が、彼女の足を止める。当たり前である筈が、まるで奇跡的にすら今は思えた。

「お久しぶりです、きっと…いや確か、約二年半ぶりだと思いますが…四番隊にいらっしゃるとは、伺っていて…」

 呼び止めた理由を正当化するかのように、べらべらとその背に話しかける。学生時代世話になった先輩へ挨拶することに理由など要らないというのに、何に言い訳をしているというのか。
 間もなく振り返った彼女は、学院時代よりも少しだけ痩せただろうか。会えない間にも散々焦がれた姿を前にして、その先の言葉に詰まった。何度か絞り出そうと口を開いたが、結局空気が漏れるだけで言葉にはならない。
 品がありそれでいて人懐こい微笑みは、そんな俺の焦りをまるで知っているかのように待つ。

「十三番隊の急患の君…君!」
「…は、は?」
「そう、君。この後未だ診察が残っていたようだから」

 振り返れば此方へ、と先程の男性隊士に手招きされ、俺は思わず顔を顰める。よっぽど、後にしてくれとすら言いたくなるような瞬間であった。分かりましたと一言を適当に答えてから、慌てて正面へと顔を戻す。だが、先程までそこにいた彼女の姿はない。忽然とその姿は無かった。
 ああ、と天を仰ぐような気分だった。追いかけようと思えばこの廊下を辿ればよいのだろうが、まさかこの状況で、背後でじっと待つ男性隊士の無言には逆らえる訳がない。
 早く、と険しい顔で呼ぶその白衣の男性の背に、俺は無言で着いて歩く。気のせいか再び熱がぶり返したかのように、身体が重かった。

2022/03/11