はじまりの中の赤

2022年2月11日
おはなし

 

 うちにおいでよ、と声を掛けられたのは三日ほど前だった。
 なんでだよ、と聞いてみれば、今直ぐにでも理由を言いたくて堪らないように口元を緩ませる。しかし緩みきらないよう必死でこらえるように、彼女は無表情を気取って、別に、とそう答える。分かりやすい奴。普段ならば額をデコピンで弾いてやるものだが、その時ばかりは勘が悪い男のフリをして我慢した。

 副隊長への昇進となったのが、丁度一月ほど前だったのだ。内示を受けた時点で勿論千世には伝えていたが、あんまり騒ぐなと言っていた。もしかしたら副隊長になる前に任務で死ぬ事だって無くはないだろう。そう海燕が笑って言えば、縁起でもないことを言うなと腕をつねられた。
 彼女の自宅は、五番隊舎にほど近い住宅街にある。去年、席官へ昇進した際に多少背伸びをして買ったと言う、こぢんまりとした邸宅だ。今まで何度か邪魔をしたことが有る。彼女らしい、季節の花が小さな庭を彩り、無理をして造って貰ったと言う小さな池には亀が一匹住んでいた。
 もともと千世は入隊以来、十三番隊に所属していた。歳は同じほどだったが、霊術院を飛び級で卒業した海燕と比べると、学年としてはいくつか下である。出会っていたのは恐らく霊術院時代がはじめだっただろうが、正しく認識をしたのは彼女が入隊して暫くだった。
 既に席官だった海燕と、まだ名もない一般隊士であった千世と二人一組での現世での討伐任務。それが全ての切欠であった。
 どうという事のない虚一体が相手だったが、まだ実戦経験の乏しい千世が動揺し、攻撃を受け止めた反動に耐えられず、斬魄刀を取り落した。
 最悪の事態が頭を過り、咄嗟に彼女の傍へ近づく為背を向けたのは完全に不注意で、ひとつ腕にかすり傷を受けた。しくった、と痛みに表情を歪めた途端、顔の真横を横切ったのは彼女の鋭い霊圧だった。振り返れば、今まで唸り声を上げていた虚の首から上が消し飛んでいる。
 マジかよ、と予想だにしない展開に独り言を漏らしたものだ。尻もちをついたまま、盛大な赤火砲を一発放った手のひらを震わせ、呆然としている千世へ駆け寄る。状況を理解できていないのか、頭を吹き飛ばしておきながら信じられないとでも言いたげな顔があまりに深刻すぎて、思わず笑ったものだ。
 その任務以降、距離が縮まるまでそう時間は掛からなかった。鬼道の詠唱破棄で虚一体の顔面を吹き飛ばす程だ。圧倒的に鬼道向きであった彼女には、霊圧の調整と制御を教え、万が一困らない程度の剣技も叩き込んだ。
 気が弱くすぐ涙目になるし、日によっては逃亡されることもあったが、それでも最後には必ず戻ってくる姿がまるでヨーヨーみたいで面白かった。
 そんな手塩にかけて育てていた千世が異動となったのは、去年のことだ。五番隊の席官として、異動とともに昇進。良いじゃねえか、行ってこいよ。ぐちぐち渋る彼女の背を、頷くまで何度も押し続けた。
 隊長の浮竹によれば、千世の異動は現五番隊隊長である藍染直々の希望ということであったから、そりゃあ良い話だと誇らしかったものだ。だが同時に一抹の物寂しさを覚えたのは事実であり、案外自分が彼女に入れ込んでいた事を自覚した。

「あれ、早いね…聞いてたよりも…」
「仕事早く切り上げてきた」
「ええっ、良いのに!普段通りで…」

 上がるぞ、と履物を脱ぎ捨てて千世の横を通り部屋へ入る。と、思わぬ力が背後から働き、足が止まった。襟首を捕まれ力強く引っ張られたおかげで喉が詰まり、げほげほと咽ている横に千世は立ち、まるで逃げ出さないようにと腕を掴む。
 はじめから可愛らしく腕を引いてくれれば良かったというのに。海燕は涙目になりながら、恨みがましく千世を見る。

「待って待って、まだ準備出来てないんだから!」
「準備って、何の準備だよ」
「え…えっ!?…いや…良いから、ちょっと手洗いうがいして来て」

 ゆっくりね!とそう言い残し、千世は台所へと消えてゆく。家に入った途端鼻をくすぐる良い香りと、身につけていた前掛けを見れば彼女が何の為に今日海燕を此処へ呼び、何を準備しているかなど明らかだと言うのに。
 千世の言いつけ通り洗面所で手を流すが、所要時間なんてたかが知れている。ゆっくりって、どうゆっくりすりゃいいんだよ。ガラガラとうがいを長めに続けながら、顔を顰めた。
 折角仕事を早く切り上げてきたというのに、これでは意味がなかった。と、気を逸らせながら早々に散らばる書類を重ね、颯爽と退勤してきたのは自分の判断だというのに、何とも勝手なことだ。
 もういいか、と廊下に向かって呼びかけると、少し遅れてまだだと彼女の高い声が響く。洗面台へ軽く寄り掛かり、彼女が良いと言うまで待つほか無い。まるで待てをされている忠犬の気分だった。思えば、初めてこの家へ上がった時にも、此処で待たされたのだったか。
 都合がつかず、結局五番隊への異動後になってしまった、彼女の送別会の帰路でのことだ。
 千世とは自宅の方面が同じだった事もあり、途中まではその横を歩いている理由もあったのだ。だがその理由が失われそうになった時、口から出たのは、送ってやろうか、なんてあからさまな言葉だった。
 他意は無かった、少なくともその時点では。ざりざりと砂利を踏みつける音が、無言を埋めていく程に、言いようのない緊張で喉が詰まっていくようだった。結局その喉の詰まりは雰囲気に呑まれたという訳ではなかったようで、突然襲った猛烈な吐き気に道端へしゃがみ込む。
 宴会中はどうにも酔えず、珍しく酒を多めに煽ったのが祟ったのだった。どうにか込み上げたものは堪えたものの、まともに歩けるような状況ではなく、千世に引きずられるようにして程なく彼女の新居へと連れ込まれた。
 必死に励まされながら便所へ押し込まれたことは覚えているが、そこから暫くは記憶がない。覚えているのは洗面所でぐったりうがいをしているところからだ。ふらふらとしながら洗面所から出ると、間もなくばたばたと寄って来た彼女が、申し訳ないがまだ少し此処で待っていてくれと、そう言い残して忙しそうに消える。
 後々聞いた話だが、引っ越しをしたばかりで荷解きも満足にしないまま、相当散らかっていた居間を急いで掃除していたようだった。

「ごめん、お待たせ」
「お、おう…びっくりした」
「何、ぼーっとしてた?」
「ああ、そういや初めて上げてもらった時も、此処で待たされたなって思い出してた」

 ああ、そういえば。千世も思い出したように笑ったが、こっ恥ずかしくなったのか直ぐに背を向けさっさと居間の方へ向かう。
 跳ねる気持ちを抑えきれないようなその背中を見ながら、緩む口元をもはや隠しもしない。間もなく通された居間の様子を少なからず予想はしていたとはいえ、おお、と思わず声を漏らした。中央の座卓の上には、きっとそれなりの時間を掛けただろう料理の数々が可愛らしい器に盛られ載っている。
 以前、手料理を食べてみたいとぽろっと言ったことを覚えてくれていたのだろう。彼女はようやく正面を向くと嬉しそうに、そしてどこか誇らしげに微笑み、改まった様子で頭をひとつ下げた。

「散々祝われただろうけど、おめでとうございます」

 律儀なことだ。正式に昇進するまでは騒がないでくれと、そう伝えていたことを律儀に守り、多少落ち着いた今頃を見計らって祝いの席を用意してくれたのだろう。
 二人の間に妙にゆったりとした空気が流れ沈黙していれば、早く食べよう、と千世が慌てて急かすようにそそくさと自分の座布団の上へと収まる。早く早くと急かす千世に、海燕は暫く呆然と立ったまま彼女を見下ろしていたが、結局自分の座布団の上ではなく彼女の横へと腰を下ろした。
 なに、とぎょっとした顔で半身に構える千世を正面に、名前をひとつ呼ぶ。

「俺と付き合ってくれ」
「…えっ……い、今更…というか、今!?」
「そういや、ハッキリ言ってなかっただろ。だから」

 流れで、というのも良い歳をして恥ずかしい話だが、まさしく流れで恋人のような関係になっていた。彼女の送別会の日、この家に連れ込まれた日以来だ。その日の夜に何かがあったという訳ではない。あの日は眠気が酷く、敷いてもらった布団に横になった途端に意識を失い、二日酔いの中翌朝はさっさと帰宅しただけだ。
 だがその日以来、休日になればどちらともなく誘って出かけるようになった。妙なことに、顔を見たいと思うことが増えたのだ。それはただ、あれだけ飽きるほど毎日のように顔を合わせていた彼女の気配がない隊舎に、慣れていないだけだとはじめは思っていたのだが。
 どうやらそういう訳ではないと気づいたのは、彼女が楽しげに五番隊での生活を語る様子を目の当たりにしてからだ。隊長の藍染がとにかく優しいのだとまるでのろけ、口元を緩ませる度に、その柔らかい頬をつねった。
 薄っすらと感じていた好意が、逢瀬を繰り返す度に色濃くなる。己の中に生まれた感情を認めていくと同時に、彼女も近い思いを感じているのだろうと、それは確信へと変わっていった。
 幸いなことに、恐らく彼女も同じだったのだろう。睦み合う眼差しの心地よさを知り、そのうち良い空気になれば指を絡め、やがてはその唇に触れることも何度かあった。
 なあなあにしていた訳ではない、ただ、互いに感情を伝えるような機会を逃していただけだ。今更、敢えて伝え合うのも野暮ったいような気がしていたのだが。だが、実際口に出してみると案外、彼女の目を丸くし頬を染める様子というのは良いものだった。

「今日は私がびっくりさせようとしてたのに…全然驚いてないし…」
「まあ大体想像ついてたからな、仕方ねえだろ。…で」

 目線を逸していた千世は、その言葉にはっと顔を上げた。
 癖になってるのだろう。稽古で叩きのめされた彼女が、不貞腐れぐったりと地面へ転がっている傍へどっかりと座り、見下ろす。で、どうすんだよ。そう挑戦的に声をかければ、彼女ははっとした顔で見上げ、にやついた海燕の表情を確認すると途端にその瞳へ再び光を戻す。
 打たれ弱い割に、煽りに弱い。煽ってやれば、すぐ躍起になって飛びかかってくる。それが可笑しくて、涙目になりながら軟弱な打ち込みを続けてくる必死でひたむきな姿が、いつの間にやら海燕にとっても癖になっていた。

「どうすんだよ、答え」
「…どうって……はい」
「はい、じゃ分かんねえな」
「…はい付き合ってください」

 ぼそぼそ答える彼女の不貞腐れたような様子に、海燕はけらけらと笑う。恥ずかしいのか動揺か、はたまたその両方か。耳まで真っ赤に染めた彼女は口をぎゅっと結んだまま、居心地が悪そうにまた目線をさっと逸した。

「よし合格。てか、食うか。冷めたら勿体ねえ」
「合格って何様!?」
「そりゃあ副隊長様だ。今日は俺の昇進祝いだったよな」

 そうしれっと答えれば、千世は喉元まで出かかった言葉を飲み込むと、はあと一つ息を吐く。昇進祝いで尊大な態度を許可されたわけではないが、その様子を見るに、どうやら許されたらしい。
 この様子なら、昇進祝いだと理由をつけていくつかの我儘は許されるのではないか。まだ食事の前だというのに、食後へとぼんやり想像を及ばせ始めていれば、突然額に鋭い痛みを感じ目を丸くさせた。
 目の前では、見事デコピンを食らわせた千世が楽しげに微笑んでいる。やられた、と咄嗟に額を押さえた。

「何考えてるのかバレバレ」
「…な、何がだよ」

 なるべく口角が上がらぬよう、無表情を気取っていた筈なのだが。考えていることがそのまま顔に出るなど、まさか千世でもあるまいに。
 ふふと微笑む彼女のまだ赤い頬を見つめながら、そんなに愛しい赤を初めて見た。

 

はじまりの中の赤
2022/02/11
(リクエスト:海燕と恋人)