さかさゆびきり-3

おはなし

 

 ある休日、友人の京楽と食事の約束をしていた。入隊して数ヶ月が経ち、慣れないながらも護廷隊としての暮らし方を覚えつつある夏頃だった。
 院生時代には寝食を共に過ごした仲で、顔を見ない日は無かったほどであったが、入隊以降瀞霊廷でその姿を偶然見かけたことは一度も無い。当たり前だろう、これだけ広い敷地の中で数千もの死神が過ごすのだ。
 京楽から食事の誘いを受けたのは、先日届いた一通の手紙からだった。簡単一言、月末の休日に夕食でもどうかと。積もる話が無かった訳でも無い俺は、同じようにそっけない返事をし、今日を迎えた。
 指定されていた店は、瀞霊廷でも名の知れた料亭だった。まだ入隊して一年にも満たない下流貴族の俺が敷居を跨げる店ではないが、京楽家の名があれば週末の席の一つや二つ押さえる事など造作もないのだろう。
 店の者に案内された個室には、既に少なからず酒を楽しんでいたであろう姿が出迎える。その顔を見るのはしばらくぶりであったが、そういう気もしない。座卓を挟んで向かいに腰を下ろすと、早速空いたお猪口へ徳利の中身を注ぐ。

「俺はその辺りの居酒屋で良かった」
「言うと思ったよ」

 相変わらず飄々とした京楽は、笑って酒を一口含んだ。それにつられるように俺も喉へと流し、焼けるような苦味の後息を吐く。酒の味の違いは分からない。先輩隊士に連れて行かれる立呑の安い酒でも、高級料亭で出される一点物の器に注がれたものであっても。
 順々に運ばれてくるのはどれも洒落た皿に小さじくらいの料理が載り、それを箸でそっとつまみ口へと運ぶ。上品な味付を舌で楽しみながら交わすのは、互いのどうということもない近況だった。
 隊の様子であったり、直近で向かった任務の話、同期の誰がどうだとか。話し始めれば自然と話題が途切れること無く紡がれ、気づけば空いた徳利も二本、三本と増えていった。

日南田さんとお会いしたよ、この前。偶然」

 唐突に飛び出したその名前に、思わず口に運びかけていた箸を再び皿へと戻す。そういえば、と京楽は何ということも無い様子で、しかし俺の様子を伺うような声音で。京楽の意図を瞬間に感じながらも、しかし取り繕うまでの器用さがない俺は黙って視線を逸した。
 意識が時折飛びかけるような多忙な日々を過ごしているにも関わらず、彼女の存在が頭から薄れることは無かった。むしろ日を追うごとに靄は濃く広がるようで、それを自覚するほどに彼女への思慕の念の強さを浮き彫りにした。
 おかしな感情だと思った。言葉を交わさなければ、顔を姿を見ずにいれば、やがて雲散霧消するとばかり思っていた。しかし蓋を開けてみればその真逆だった。
 彼女の気配すら感じない十三番隊舎で過ごし続ける時間が長くなるほど、まだ胸の奥で残る思いが肥大する。不毛であると、そう分かって居てもしかし、とどめる術を知らなかった。
  京楽の口から出た彼女の名前に、揺らいだのは紛れもない事実だ。自分の中ばかりで増していた存在が、この瀞霊廷に実在していることに動揺をした。
 ご結婚されたんだろう。次に京楽の口から出た言葉に俺は頷く。京楽は早耳であったから、先日俺が耳にした事などとっくに知ってのことだろう。本人の意志を無視した政略結婚。しかし血族を重んじる貴族間ではそう珍しいことではない。
 勿体ないねと、京楽はそう独り言のように呟き遠くを見た。

「お前、彼女に惚れてたろ」

 さらに唐突な京楽の言葉に、俺は一瞬息を止める。何の前触れも無く彼女の話題が出たものだったから、薄々気づかれていたのだろうと感じていたが、いざそうして何の飾り気もない言葉をぶつけられるとどう答えれば良いものか分からない。

「…何を根拠に」
「根拠も何も。まあ、ボクの勘違いだったなら悪いね」

 否定が出来ないのは、図星であった事実に他ならない。自覚はしていたものの、一度として口に出したことがなかった彼女への好意を言葉にされ、思っていた以上に苦々しい後味はじわりと喉の奥に広がる。
 受け入れられる可能性が万が一に無いとしても、彼女の卒業の折に伝えるべきだっただろうかと思う事がある。きっと彼女ならば、出来る限り俺が傷つかぬような言葉を選び、悲しく笑って拒絶したのだろう。ごめんねと、首を横に振るその姿を目に焼き付けていれば、俺はこの息苦しさを知らずに居たに違いない。
 身勝手な話だと分かっている。だが、秘めていた思いの行方に戸惑っていた。彼女はとっくに他の男のものとなり、俺は思いに始末をつけられぬまま燻っている。
 ならば最後に、一方的にでも思いを伝えておけば良かったと、それは後悔にも及ばぬ後悔だった。出来るはずのなかった事を今悔やむとは、後悔と言うことすら烏滸がましいというものだ。

「四番隊舎付近でお会いしたけど、少し痩せたかな」
「痩せた?……それまたどうして」
「知らないよそこまでは。気になるなら聞きに行けばいいじゃない」

 嫌だよと、そう反射的に言葉を返した俺に、京楽は呆れたように顔を顰める。
 良くも簡単に言えたものだ。だが京楽が、俺の彼女への好意に気づきながらも、まさかこの拗らせた思いまで知るはずはない。淡い思いが今は濁り、淀んでいる。
 大体、今彼女と顔を合わせた所で、交わす言葉が見当たらない。お元気ですか、今日は暑いですね。そんなどうでも良いくだらない言葉を冷や汗を垂らしながら、呆然と零すだけだろう。

「でも浮竹、どうして日南田さんのこと振ったの」
「…振った?」
「今だから聞くけど。彼女の卒業の日、呼び出し無視したんだろ」

 は、ともう一度京楽の言葉に返す。身に覚えのない話に、まさに思考が停止するとはこのことだった。まさに走馬灯とも言えるような速度で、彼女の卒業の日を思い返す。
 天気の良い、しかし肌寒い春の日だったか。桜が緩むにはまだ早い時期だった。式を終えそぞろに教室へと戻る生徒の波に身を任せるように進む中、中庭に佇む彼女の姿が見えたことを覚えている。
 友人でも待っているのだろうと、まだ蕾の開かぬ桜の樹の下でぼうっとしている彼女の横顔に数秒、視線を奪われた。しかし間もなく、背後から級友に声を掛けられ、その行方は見届けられぬままだった。

「行ってあげても良かったんじゃないの、今更だけど」
「…いや、待ってくれ、知らないよ。…呼び出しなんて、覚えがない。お前は誰から聞いたんだ、その話」
「誰だったかなあ…忘れちゃったけど、彼女が卒業した後だったと思うよ。女の子たちの話に混ぜてもらった時だったかな」

 へえ、と一言だけ返したのは、口にした言葉が震えかねなかったからだ。記憶を何度さらっても、彼女から呼び出された覚えはない。しかしあの日中庭で佇む彼女の姿を思い出すと、まさか中庭でぼうっと待っていたのは、彼女の友人ではなかったというのだろうか。
 だが今更遅い。今頃思い返した所で、あの日の彼女の元に駆け寄れるわけではない。話の出どころを思い出そうと腕を組み唸る京楽を、俺は背筋を伸ばして見つめながら、上がる脈拍を落ち着けようと必死に正しい呼吸を繰り返していた。
 京楽の聞いた話が事実だったとするならば、俺は非情な男として彼女の記憶に残ったことだろう。だが、彼女から呼び出されていた事が事実だったとして、用件が何であったかは定かではない。何故なら俺が彼女から想いを寄せられる道理が無いからだ。
 そう、俺が彼女に惚れる理由はあっても、彼女が俺に惚れる理由など無い。だから京楽が聞いたという女性同士の噂は、噂だということだ。俺はただ彼女にただ一方的な、そして無謀な片思いをしていただけだ。
 やがて腕組みのまま俯いた京楽が立て始めた寝息を耳にして、溜息を吐く。出処不明の噂など酔っ払いの戯言だったのだと、一瞬は揺らいだ感情を立て直すように頬を叩く。だが結局、俺は半分ほど残っていた徳利の中身を喉へ流し込むように傾けると、間もなく机へ勢い良く突っ伏すのだった。

 

2022/01/31