期待

おはなし

 

 今季初の雪が降った。例年に比べて今年はあまり冷え込まない冬だったから、雪は降らず春を迎えてしまうのだろうかと思ったものだが、それを裏切るほどの冷え込みが突如として訪れた。
 休日の朝、千世はまだ薄暗い部屋の中火鉢の炭を熾す。折角体温で一晩中温めた布団の中から抜け出すことにこれほどの勇気が要るものかと、半泣きになりながらどうにか立ち上がったものだ。
 ひやりとする畳の上に足を載せ、悲鳴を飲み込む。足の先、指の先からまるでぱりぱりと凍っていくようである。体重をかければ、まるでぱきりと折れるかのようにつま先は冷たい。
 隣で背を向けすうすうとした寝息に合わせゆっくりと上下に動く布団の様子を恨めしく思いながら、ようやく赤く熱を持った炭に手をかざすが、もちろんまだ満足するほどの熱は感じられない。普段ならば朝の準備をしながらさして気にしないのだが、今朝はその熱が特別待ち遠しくて仕方なかった。
 こんなことならば昨日の夜、普段のように炭を消さずに埋けておくべきだったかとも思うが、しかし今更である。はあ、と吐き出した息が部屋の中だというのに白い。
 昨日の夜から降り出した雪は、この底冷えならば雨戸の向こうで積もっているのだろうか。それとも、みぞれか雨にでも変わって冷たく土を濡らしただけだろうか。しかし外の様子を確認するまでの度胸はなく、千世は羽織っていたはんてんの中に手を仕舞った。
 灰から顔を出す炭がやがてこの部屋の温度をほんの僅かでも上げるまで、布団へ避難しようと千世はそそくさと立ち上がる。自らの巣へさて戻ろうと、ふと隣の浮竹の姿を見遣れば、いつの間に寝返りを打ったのか身体が千世へと向いていた。あれ、とその寝顔をじっと見つめていると、ぱちりと開いた目が千世の視線を捉える。

「火、つけてしまったのか」
「え?…ええ、はい、寒いのでとりあえず…」

 そう浮竹はやけにがっかりとしたような口ぶりで言うから、千世は思わず彼を見下ろしたまま眉をひそめて押し黙る。朝起きて既に火鉢が点いていたら何より嬉しい千世としては、彼のその反応の理由が分からない。
 そんなことよりも。いつから目を覚ましていたというのか。つい今ほど起きたばかりというわけでは無いだろう。千世が火鉢に向かうため半べそで布団から抜け出した頃には既に目を覚ましていそうなほど、はっきりとした意識、口調である。
 いつから起きてたんですか、と尋ねてみれば、彼は少し考えるように目線を上げて、一時間くらい前かな、と何ともないように答えた。千世が目覚めるよりも随分前ではないか。それならば、先に炭を熾してくれていても良かったというのに。

「どうして残念そうなんですか」
千世をこっちに呼ぶ言い訳が出来なくなると思ってね」

  浮竹の言葉に、千世はまた黙る。そういう事だったかと納得すると同時に、しれっとした表情で一体何を言っているのだと、一瞬息を止めた。もぞもぞとまた口元まで布団に潜ったその姿を追いかけるように、えっ、と千世は声を漏らす。

「まだ、暖まるには時間が掛かりますよ…すごくお部屋寒いですし、火鉢くらいじゃ今朝は全然……」

 咄嗟に出た言葉がまるで言い訳がましく聞こえ、我ながら何を必死になっているのだろうかとそう呆れながら、頬が染まってゆくのを感じる。この寒い部屋の中で、足と指先は痺れるほど冷たいのに。
 千世の反応は想定の範囲であったのか、彼は特に表情を変えぬまま、ならおいで、と笑い僅かに掛け布団を持ち上げた。寒いから早くと急かす言葉に、千世はひとつ頭を下げ潜り込む。
 彼が一晩掛けて蓄えたであろう体温へ身体を浸しながら、途端に顔を出した眠気を追い払うかのようにぱちぱちと瞬きをする。借りてきた猫のようにおとなしく布団の中に収まっていれば、浮竹は千世が手持ち無沙汰に腹の上で重ねていた手を取った。

「こんなに冷たくして…はじめからこうしていれば良かったんだ。火鉢よりもすぐ暖まる」
「…だってそれは、隊長がまだ寝てると思って…でも、狸寝入りだったんですよね」
「言わせてくれるなよ、期待したんだ」

 期待、と千世は頭の中で繰り返しながら、彼の微笑みを見上げる。千世にとって思いもよらぬ彼の期待を、知らぬうちに裏切ってしまった訳だということか。だが結果的に彼の期待通りの状況に収まっているのだから、それならばはじめから彼の方が身体を起こして呼びつけてくれでもすれば良かったというのに。
 彼の勝手な期待に腑に落ちないような気がしながらも、身体へするりと巻きついた彼の腕とその満足気な様子で、まあいいかと半分開いていた口を閉じた。

「今日は一日こうして過ごしても良いな」
「えっ駄目ですよ、今日はお掃除をする予定で…」
「掃除なんて、また次の休みで良いよ。何時でも出来るんだ」
「でも……」

 そう千世がまた返そうとした言葉を、唇で軽く啄み遮る。不意を突かれた千世はむっとして咄嗟に身体を押し返そうとするが、いたずらっぽく笑う彼が再び落とした唇に自然と力が抜けた。
 ぬるく混じり合う感覚に、驚くほど素直になってゆく腑抜けた身体の上へとずるずる被さるように移動する彼の身体の重みを感じながら、これも彼の期待の範囲内であったのだろうかと、直ぐに消えてなくなるであろう疑問を頭にぼんやりと浮かべるのだった。

 

2022/01/23