さかさゆびきり-1

2022年1月5日
おはなし

 

 「浮竹君」と呼ぶそのひとは、真央霊術院で学年が二つ上の先輩だった。上級貴族である日南田家の一人娘であった彼女は、その家の名に恥じない気品と知性、そして実力を持ち合わせたひとだった。
 学業優秀、成熟した霊力を持ち勘も良かった。しかしそれを気取らぬような溌剌とした性格に、生徒のみならず教師までもが皆彼女を好いていた。勿論、自分もそのうちの一人に違いなかった。
 彼女と初めて会話を交わしたのは、二回生となったある年のことだった。学舎には広い訓練場が無数に存在し、放課後にはその全てが自主訓練などの為開放されている。
 もともと自分は身体が丈夫では無い。特に最近は休みがちとなっていた授業の遅れを取り戻す為、その日は同期の京楽に約束を取り付け、自主的な補修を行うつもりだった。しかし待てど暮らせど彼の姿は現れない。
 急遽取り付けた予定だった為、気ままな京楽の性格を考えれば仕方無しかと、今までに学んだ鬼道をさらっていた時に、ふらっと彼女は現れた。浮竹君、と俺を呼ぶ彼女の透き通るような声に手元が狂った。何しろそれが初めてだったからだ、彼女と目が合ったことも、自身が彼女に認識されている事実を知ったことも。
 彼女はまるで随分前から俺のことを知っていたように、ごく自然に、当たり前のように会話を続ける。浮竹君、とそう呼ばれ目線が合う度に、驚くほどに動揺した。一度も話したことの無い、ただ俺が一方的に眺めているとばかり思っていた彼女が、今だけとしても俺だけを見ていることが信じられなかった。
 何をしているのかと尋ねる彼女に、簡単にあらましを伝えた。まるで言葉を覚えたての子供のように辿たどしく、何度もつかえながら、頭の中で言葉を吟味しながら。
 付き合うよと彼女は言った。暇だから、と彼女は嬉しそうに笑って、それを見て断る選択肢など勿論俺には生まれる余地もなかった。
 それから、月に何度か彼女とは放課後の自主練習で顔を合わせるようになっていた。遠巻きに眺めていても魅力的だった彼女の、傍で、その濃い霊圧が練り上げられてゆく様というものは、言葉には出来ない、恍惚とすらするような時間だった。
 俺は彼女を日南田さんと呼んだ。敬意を持って、そしてそれはやがて思慕を持って。憧れた。その傍で過ごすほど、彼女の上品で聡明な横顔、しかしそれを飾らない、無邪気な笑顔に感じる胸のゆらぎは、それまで恋を知らぬ己でも、紛れもなく恋だと言い切ることが出来た。
 それは実に自然なものだった。恋を知らなかった自分が、その優しい笑みとしかし力強さを持つ眼差しに当てられて、戸惑わない筈がなかった。
 彼女が口に出した一言一句が頭を巡り、夜布団に潜れば必ず彼女の小さく開く唇や細い指先を思い出す。浮竹君、と自分だけを呼ぶ声は耳の奥でこだまのように反響し、灯りを消した部屋の中で息苦しさを覚えた。
 様々な会話をした。身体が弱い理由、妹弟の話、友人たちの話。だが思い返せば、それは彼女がもっと聞かせてと言うから話した、他愛もない、俺のことばかりだった。彼女の話をその倍は聞きたかった俺は会話を切返したが、しかし言葉少なに、あまり多くは語らない。
 それを不思議に思わなかったのは、彼女が明るく優しく微笑むからだったのだろう。そしてその微笑みを知るほどに、恋心はさらに根深くなっていった。いや、それともしつこく巻き付く蔓のようであるのかも知れない。日を追う毎に、顔を合わせない日であってもそれは、止めようのないものだった。
 しかし、彼女は皆のものだった。誰のものでもない、だが強いて言うならば、日南田家のものであった。

 四回生となった春、六回生となった彼女が、卒業後は護廷十三隊の席官として迎えられる予定と知った。当然だろうと、何故か俺が誇らしげな思いであったのは、多少、彼女と近い関係である自負があったからだろう。
 しかしそれは誰も知らない。誰にも放課後の話をしていなかったからだった。たとえ京楽であっても。最も学舎からは遠い訓練場を選んでいた為か、彼女との補修は二年目を迎えてもまるで噂になることは無かった。
 彼女も誰かに言うような事は無かったようだった。相まって、二人で過ごす時間がこの世界から隔絶された二人だけの秘密のように感じ、それがたまらなく心地よかった。優越感というものであった。
 相変わらず彼女は自身の事を語らなかったが、それをもはや不思議にすら思わないほど、自然に言葉を交わしていた。甘えていたのだと思う。何かを話す度に、彼女がうんうんと頷き笑い、相槌を打つ心地良さに甘えていた。
 四回生となった頃には、自覚するほどに俺自身も力をつけ始め、学内でも一目を置かれるようになっていた。もともと霊力には自負があったが、その扱いを知り、応用を得たのは四年間の学習と、そして彼女との補修の賜物であった。
 とうとう期末の成績が秀であった事を貴女のおかげだと、そう彼女に伝えれば、彼女はいつもの通りに眩しいくらいの笑顔を見せてくれるかと思いきや、悲しげに眉を曲げて笑う。
 動揺したのは言うまでもない。何か間違った事を言ったかと記憶をさらったが、そんな覚えも無く焦った。焦ったついでに勝手に口が空回った。貴女を追いかけますと、それは彼女の卒業後の進路に言及したつもりであったが、しかし同時に自身の精一杯の思いの丈であった。
 憧れであった彼女を、たとい卒業した後であっても追いかけていたいという、切なる思いであった。
 だがそれ以上を伝えられるまでの度胸も勇気も、そして言葉を知らない。情けないと、体躯ばかりが立派になり、骨ばった指先を手のひらで握りながら、しかし図々しくも彼女の言葉を待った。

 ただ暫く空白の後、ありがとう、といつものように明るく笑いそれから、お願いねと、まるで花瓶の縁から水がつつと一筋溢れるような、細々とした言葉を落とした。
 察しの悪い俺には、彼女の答えた言葉の意味を真に理解することは出来なかった。せめてもと伝えた言葉の意図が伝わるはずなど無いと分かっていたからだ。こんなにも辿々しい、まるで音を覚えたての幼子のような言葉を。

 彼女と二人で訓練場で過ごすのは、その日が最後となった。それ以降、彼女を学舎で見かけることも擦れ違うこともあったが、まるであの二人で過ごした時間は夢だったかのように、目線すらも合わなくなった。
 訓練場には変わらず毎週通っていたが、そこには自分だけが一人居るのみだった。日が落ちゆく中、浅打を振る音が響くのは、どうしようもなく虚しかった。その音が響くほどに、此処には一人だけなのだと、彼女がいつも腰を下ろす木陰を視界の隅に置きながら。
 やがてそのまま言葉を交わすことなく、春を迎え二つ上の彼女は卒業となった。彼女は噂通り十三番隊の十八席として迎えられ、俺は真央霊術院の五回生となっていた。

 

2022/01/06