無防備な幸福論-3

おはなし

 

 ほぼそれは衝動的に隊舎へと戻ったものの、向かったのは彼の居る雨乾堂ではなく自身の執務室であった。檜佐木とまともに挨拶もしないままあの喫茶店を飛び出たが、しかし隊舎までの道中の風を浴びていれば徐々に頭が冷えてくる。
 部屋の中央に置いてある長椅子に腰を下ろし、ほぼ無音の、しかし時々風で雨戸がかたかたと揺れる中、じっと指先を見つめていた。
 話さなければ、とその一心だったものの、しかし何を話すというのだ。雨乾堂へ伸びる廊下を進みながら、二人だけで過ごす時間が想像できず、足が止まった。衝動に理性が打ち勝つ瞬間というものを目の当たりにしたようで、ぎしぎしと廊下を踏みしめ戻りながら自分の間の悪さにはほとほと嫌気が差す。
 焦りに似た感覚が身体の深い場所 へ沈殿しているようだった。本心では今直ぐにでも顔を見て声を聞くことが出来れば、それは異物を飲み下すかのように、どれほど楽になるのだろうかと思う。
 目を見て、微笑まれた時に胸が詰まるあの心地よさを味わいたいというのに、だがその足が止まってしまうのは紛れもなく捻れた感情であった。
 愛情の傾け方をよく知らないのだと思う。と同時に、受け取り方にも疎いことは違いなかった。今まで内へ内へと抑え込む事に必死だった思いの行方に戸惑っている。戸惑っているだけでは、何も得られるものはないというのに。
 しかし、今日は縁が無かったのだと諦める思い切りの良さがある訳でもない。折角ある程度の衝動でもって隊舎へと戻り、限りなく近い場所に居ながらすごすごと退散することには勿体無いと思うのだから、果てしなく身勝手だった。
 願わくば、気まぐれか偶然か何かによって彼が顔を覗かせに来てはくれないだろうかと、そんな都合の良い事を思い浮かべる。
 遅くまで執務室へ残っていると、その気配を感じてか彼が時折顔を覗かせることがある。襖を軽く叩かれるあの乾いた音がこの時間になって聞こえると、どうしようもなく胸が跳ねた。
 だが、今日は何か残務に手を付けている訳でも無く、じっと指先を見つめながら不毛な問答を続けている。諦めもつかなければ、立ち上がる気力もない。恋人となったところで、こうも引き続き感情とは面倒なものか。
 そううんざりしてぐったり長椅子の背へもたれかかった時、襖がかたかたと揺れた音が聞こえ思わず動きを止める。暫くじっとしていたが、その後何も聞こえず、風だろうかとまた力を抜いた時、再び同じ乾いた音に飛び起きた。
 はい、と裏返った声を上げると、横へ引かれた隙間から彼の顔が覗く。いや、まさか。なんで、と思わず声を漏らせば、それはこっちの台詞だとでも言いたげに眉を上げ、呆れたように笑った。

「帰ったんじゃなかったのか」
「あぁ、…はい、一度は帰ったのですが、その…やり残したことを思い出して…」

 やり残したこと、と言う割には机に何も広げず、長椅子でぼうっとしていた事に彼は気付いているのかは分からない。そうか、と頷いた後に少しだけ部屋を見回す。それからそっと千世の傍へ近づくと、そのままその隣へと腰を下ろした。
 馬鹿みたいだと、そう溜め息を付きたくなるほどに心臓が脈打っている。難なく触れられる距離に彼が居て、その息遣いが分かるだけで潰れそうになるのだ。それが緊張であるのかそれとも期待であるのか、その傍に居ることは何より幸福であるというのに、消えたくなる意味が自分でも分からなかった。
 今彼が何を考え思っているのかを知りたい。その横顔すら見れず、勿論言葉を自ら紡ぐこともなく、まだ指先へ視線を落としている。つい最近切ったばかりの爪が少しだけ伸びている事を気にしながら、しかしさてどうしようかと先を考える余裕は無く、ただ流れる時間に身を任せていた。
 千世、とすぐ隣から呼ばれて、咄嗟にびくりと跳ねる。はい、と消えるような声で答えたが、しかし目線は指先から離れなかった。この異様な空気に、流石に彼も何も感じていないという訳ではないのだろう。
 窺うような、優しい声音は右の耳から流れ込み、脳を揺らす。この身で支えきれないほどの緊張を味わったのは、いつぶりだろうか。
 先日、唇に初めて触れた時にも勿論緊張はしたものだ。だが、何かを考えるより前に、あの柔らかな感触が訪れたものだったから、そればかりに夢中になってとても他の事を考える余裕など無かった。

「悪かった」
「……は、はい?」
「この前のこと…いや、謝るのもどうかとは思うんだが…、驚かせただろう」

 この前のこと、が初めて触れた日のことであるとは分かった。だがまさか、謝られる理由は何一つとしてない。驚いたのは確かであったが、それは拒絶から来るものではない。あの状況を理解して納得して受け入れたのは他でもない自分自身である。
 慌てて彼に違いますとその目を真剣に見返せば、少しその眉を曲げて、困ったように笑う。その表情を見ながら、自らの、恐らくあからさまであっただろう態度を思い返し落胆した。
 自分では精一杯、普段通りに過ごしていたつもりではあったのだが、しかしもともと取り繕うのは上手い方ではない。上の空だったり、目を逸らしたり、逃げるように背を向けたりと、彼が謝るに至った事を思うとただひたすらに申し訳なくて頭をぐったりと垂れた。
 逃げるほど、隠すほど真逆の結果をもたらすことを知っていながら、過去に経験しながら、同じことを繰り返すのだから愚かだと思う。

「…怖がらせてしまったかと思ってね」
「ち、違います」
「だが…気まずそうにしていたのは、あれが原因かと思った」
「違います、そうではなくて…気まずいのではなくて…」

 うまく言葉が出ないのは、うまく思考が行われていないからだろう。この複雑な感情を言い表すに妥当な言葉が見当たらない。
 本当はもっと触れたいと、彼の纏う熱に触れたいと思うもののしかし経験も何もない千世には触れ方が分からない。どう伝えればよいのか、あの時のような甘い雰囲気をどう作り出すのかなんて知ったことではない。
 そう焦るほどに、きっと彼には気まずく俯く姿に見えたのだろう。実際、彼が想像する感情とはまるで真逆であった。あの口付けを思い出す度に、同じように触れてほしいと、あわよくばその先へと勝手に広がる妄想を追い出していたくらいであったのに、不安に思わせて居たならば心苦しい。
 もごもごと言葉を詰まらせる千世を急かすことも促すこともなく、浮竹は隣で静かに呼吸を繰り返す。その息遣いを聞きながら、未だなお思いが募り続けている事を自覚する。

「とても、その…私が我儘だという事は、承知の上なのですが、ええと…」
「そう畏まらなくて良い。今は、勤務中という訳でも無いだろう」

 千世の見るに堪えないほど緊張した様子に、浮竹はそう言って笑う。何とも情けない姿だろう。万が一彼が首を横に振る可能性を想定して、如何に自分がその時傷つかずに居られる言葉を探している。
 予防線を二重にも三重にもしながら、しかし、結局その予防線など何の意味もない事に気づいたのはいざ口を開いた時なのだからやはり情けない。目を伏せ、言葉の代わりに先に、細く長く息を吐き出した。

「その…もっと、私は…この前みたいな事を、その…」
「この前、みたいな事…」
「い、いや、つまり…もっと、何と言いますか…恋人ぽいことを…したいなと…思って……」

 そう尻すぼみにもごもごと伝えたところで彼がどう思うか分からなかった。未熟な小娘が、まるで猫のように発情し始めたとでも思われるだろうかと、そう思うとまさか口に出す事など出来なかったのだが。
 だが、勢いで口から零してみれば、まるで飲みすぎて全て吐き戻した時のような気分の悪い爽快感が広がる。口に出してしまったからには、もう撤回は効かないのだと思うと、後悔より安堵のほうが大きかった。
 自然とぎゅうと握っていた拳の上に、彼の手のひらが乗る。撫でるように手の甲を滑ると、解いた拳の指先へ、絡めるように彼の細く節くれた指が回り込む。
 指先を絡め取られ、手のひら同士が触れ合うと、ようやく彼の体温を感じた。しかし温かいとも言えない、仄かな熱だ。だがこの柔らかで微かな熱に触れる事をどれほど待ち望んでいたか、それは早く打つ脈を感じながら嫌というほど自覚する。
 彼はそれを知ってか知らずか、何も言わずにただ手を握るだけであった。千世の言葉を待っているのか、それとも、ただこの無言の時を楽しんでいるのかは知らない。
 ただ、千世が引き続き押し黙っていれば、やがて彼はふっと息を漏らして笑い、そうか、と頷いた。

「…怖がられたかと思ったよ。そんな事、我儘でも何でも無い」
「…すみません、私…あまり慣れていなくて、…だから、その…色々、教えてください」

 その言い方では語弊があるかと、言い終えた後にはっとして口を噤むと、彼は笑う。その笑みが困ったような、しかし包み込むように柔らかいものだったから、ついまじまじと見つめていれば、やがて、自然と引き合うように近づいた。
 距離を失い触れ合った唇に、千世は身体を固くして息を止める。優しく頬に触れた手のひらが、するりと滑るように撫でられると、力がふっと抜けた。
 あの時と同じ熱、感触は何度も記憶が擦り切れるほど反芻したものだった。だというのに、うるさく脈は打ち、体内を勢いよく駆け巡る血液の流れをどくどくと感じる。
 生ぬるく柔らかい、濡れた唇と舌が交わる。僅かに開いた唇を割るように舌が伸び、口内を舐め取る。千世も応えるように、ぎこちなく舌を伸ばせば直ぐ絡め取られ、それが溶けるように心地よく、しかし同時にずっと腹の底に潜んでいた感情を引きずり出すようだった。
 それは、先日初めて口付けを交わした時にも薄っすら感じていたものだった。唇と舌が、滑らかに混じり合う粘膜の官能的な感触に、身体の奥がぎゅっとする。彼の羽織を自然と掴みながら、気づけば夢中になって居た。
 優しく、静かな交わりの中に熱を感じる。綿をほぐすような柔らかさの中に交じり流れ込むそれは、今まで知っていた彼の別け隔てのない愛情とは似て非なるものだった。
 頬に触れていた彼の手が、首へ、そして体の線をなぞるように背へ回り腰へと移動する。求められていると感じるほどに胸は詰まり、腹の奥の異質な感情は肥大していくようだった。

「った、隊長…私……」
「…どうした、苦しかったか」
「あぁ、…いえ…違うのですが…」

 苦しいには違いなかったが、しかし彼の指す苦しさと違うことは分かった。千世が首を横に振ると、再び唇が触れ舌が割り入り込む。合間で必死に呼吸をしながら、しかしどれほど繰り返しても全てが満たされないような感覚が異様だった。
 間違いなくこの行為は千世の望むものを満たしているはずだというのに、しかしそれ以上に満たせないものを明らかにしてゆくようでもあった。それが何であるのかは、未熟な千世であっても分かった。
 再び唇が離れ、愛しそうに見下されるその目をぼんやり見返しながら、彼を呼ぶ。隊長、とそう掠れた声で口に出せば、彼の口元は緩やかに弧を描いた。

「さ、千世も明日は仕事だろう。そろそろ帰らないと」

 浮竹の言葉に、千世は相当ぽかんとした表情をしていたのだろう。彼は笑って、それから額へ軽く唇を落とす。
 その先を期待していなかったと言えば嘘になる。この前、彼の執務室で交わした口付けと、今日のそれはまるで違った。じわじわと湧き出す衝動を、身体の中にまざまざ感じている。
 彼が同じであるかは知らないが、だが、何度も繰り返される口付けと、熱の籠もった眼差しは明らかに普段の様子とは違うように見えた。腰へと回った手付きも、頬や首を撫でる指先も。
 まさかこの場でどうなろうとまでは思っていなかったが、離れた体温がひどく寂しかったから狼狽えた。だがそれを精一杯隠すように、縋るように掴んでいた羽織から手を離し、姿勢を正す。

「少し、部屋を整理してから帰ります」
「それなら、あまり遅くならないように」

 立ち上がった彼の言葉に、千世は頷く。やはりずるい。つい今の今まで感じていたあの熱が嘘のように、その笑みは柔らかい。
 まだ余韻の抜けないまま、一人になった部屋の中、長椅子にぐったり身体を倒す。と、彼が居た場所にまだ体温が残り仄かに温かい。何をしているのかとそう諭す理性が訪れる前に、その暖かな場所へ頬を寄せ、そっと目を瞑った。

2022/01/02