私たち

2021年12月22日
おはなし

私たち

 

 そうか、と返した声が意に反して落胆しきったものだったから、いってらっしゃいと、そう慌てて付け加えた。
 彼女が三日ほど前の夜、申し訳無さそうにおずおずと口に出したのは、二十一日の未明から行われる三番隊との合同演習に参加したいという事だった。数カ月間予定が合わず先延ばしになっていたのだが、急遽決まったのだという。
 良いことだ。ここ数年三番隊とは定期的に合同演習が行われており、それは彼女が三番隊副隊長である吉良へ持ちかけ始まった事だった。彼女が参加する事に何らおかしなことはない。
 何より、素晴らしい事である。彼女が自ら広げた輪で、他隊と切磋琢磨し合う事は個人の成長のみならず護廷の力ともなる。だというのに。口から出たのは、そうか、と実に落胆した、情けのない声音だった。
 彼女が申し訳無さそうに話を切り出した理由は知っていた。彼女が言う十二月二十一日は、十四郎にとって何度目か分からぬほど重ねた誕生日だ。幾つになったところで、しかし誕生日というものは特別な日であった。一年をまた生きながらえ、仲間と共に過ごせたことを感謝する大切な日でもあった。
 何より今年は、彼女と共に暮らしはじめてから初めての誕生日という訳であったから、それは多少気恥ずかしくなるほどに、意識をしてしまっていた。
 しかしそう悟られぬよう、ひと月前からそわそわとし始めていたにも関わらず、十四郎は自ら言い出す事はせずに居た。むずむずとする口元を噤んでいたある日、とうとう彼女から当日は外でお食事でもどうですかと、そう尋ねられた時には、手にしていた本を思わず取り落しかけたたものだ。
 しかし仕方ない。何が悪い、誰が悪いという事など何もないのだ。強いて言うならば、口には出さぬものの、年甲斐もなく心待ちにしてしまっていた自分が悪い。いや、悪いことでもない、とは思うのだが、しかしそうとでも決めつけないと、折り合いがつかぬような居心地の悪さだった。
 一向に頁の進まぬ本をぱたりと閉じる。ここ一週間ほど、同じ頁ばかりを繰り返し読んでいた。
 一人で過ごす寝室というものは、不思議とやけに広く感じる。彼女の居ないまま零時を過ぎた時計の針の音を耳にしながら、枕元の灯りをそっと消した。

 二十一日の未明から西流魂街で始まる演習準備のため、前日に陽が落ちた頃から千世は出立していた。技術開発局の疑似虚を無数に森へ放ち、三名一組の班での討伐を目指す。実践に乏しい一般隊士を中心とし、三番隊と十三番隊からは副隊長の吉良と千世、席官が数名参加しているようだ。
 広大な森を利用した演習ともなれば、数時間で終わるようなものではない。各班の判断で休息を取りつつ、半日以上の時間を掛けて行うものであった。さらに演習が済み解散となった後にも、席官以上には事後処理も残されている。
 つまり、彼女が帰宅するのは早くとも陽が落ちた後、下手をすれば日付が変わる頃になるだろう。
 今頃どうしているだろうかと、雨乾堂で書類へ目を落としながら何度か思いを巡らせた。今生の別れをした訳でもないというのに、昨日の夕方に、あの寂しそうな顔で行ってきますと頭を下げた彼女のつむじが忘れられないのだ。

 勿論、千世には気にしないで良いのだと伝えた。また命ある限り、何度でもこの日は巡ってくるのだからと。気持ちが嬉しいのだから、怪我なく帰ってきてくれさえすれば良いと、そう心からの思いを伝えはしたのだが、やはり彼女の中でも折り合いがつかぬようだった。
 別に気を遣った訳でなく、その通りなのだ。その日ばかりが大切なのではなく、その日を迎えられたことが大事であるのだから、当日に拘る必要はない。そう思ってはいたものの、しかし一周また一周と時計の針が進んでゆく中、今か今かと彼女を待ち逸る気が色濃くなるのを感じる。
 やはりこの部屋は、一人で過ごすには少し広い。腰紐を解きながら畳の数を数えてみるものの、まあ当たり前のことだが突然畳が増えた訳は無い。何を馬鹿な事をしたのかと溜め息を一つ吐いて袴を落とした。
 別に今日で無くても良い書類の整理を遅くまでしていたのは、彼女が先ず帰るのは隊舎だろうと思っていたからだ。大抵任務から瀞霊廷へ戻ればまず隊舎に帰り、血や汚れを落とすために風呂を浴びる。書類の整理を口実に、それを待っていたのだが一向に気配はなく、結局諦め帰路についた。
 良い一日ではあった。隊の者達からは口々に祝われ、隊士一同からと清音と仙太郎から代表して渡された誕生祝いは新品の座椅子であった。良い座り心地で早速今日から使っている。毎年の事ながら有り難いことであった。この世界に生を受けた事を認められたのだと思う。
 ふっと光景を思い出し微笑んだその時、がたがたと襖が揺れたかと思いきや、勢いよく開け放たれた。前触れのない突然の帰宅に驚いて目を丸くすれば、彼女は肩で息をしながら間に合った、と掠れた声を漏らす。

千世……取り敢えず、おかえり」
「あぁ、はい…す、…すみません…ただいま戻りました」

 風呂を浴びて間もないのかまだ髪は濡れていて、この寒空の中帰ってきたのだとすれば風邪の一つでも引きそうなものだが、しかし余程急いで走ってきたようで頬は紅潮している。その様子ならば、心配する必要も無いだろう。
 ぜえぜえと息を繰り返す必死な様子が嬉しかった十四郎は思わず呆れたように笑うと、彼女は中々息が整わないまま釣られるように笑った。そしてようやく落ち着き始めた時、畏まったように背を伸ばして目線が交わる。

「おめでとうございます、お誕生日」
「…ありがとう。その為に、そんなに急いで?」
「当たり前ですよ、絶対今日伝えて、お祝いをお渡ししないと死んでも死にきれないですから」

 お祝い、という言葉と共に千世は彼女の足元を指差す。その先には何やら千世の腰ほどまで伸びるか細い枝があり、よく見れば根が麻布に包まれた苗木であった。はじめから彼女が足元に置いていたのだろうが、言われるまで気付かなかったほど、その表情ばかり見ていたのだろう。
 細い枝を見つめていれば、彼女は腰を落としてその苗木を持ち上げ十四郎へ近づき目の前に下ろした。

「桜の苗木を買いました。本当は今日の暖かい時間に、一緒に植えたかったんですが…」

 そう言って彼女は申し訳無さそうに眉を曲げる。気にするなと何度も言ったというのに。この苗木をまさか今日用意したわけではないだろう。少し前からきっと今日のためにと手に入れて、渡す日のことを楽しみにしていたに違いない。
 現に、花が綻ぶようなその優しい笑みは糸が解けたように柔らかだった。隠しもしない剥き出しの好意というものは、触れるとそのあまりの無防備さに思わず息を潜めたくなるほどであった。まだ湿った彼女の頭に手を置き撫でると、ふっと照れたように目を伏せる。

「盆栽は時折譲られた事もあるが…苗木を貰ったのは、初めてだな。だが、どうして苗木を」
「それは、ええと…その…一緒に過ごし始めて、十四郎さんの…初めての誕生日ですから、何というか…」

 千世は徐々に尻すぼみになって、もごもごとする。続きを促すように少し覗き込めば、はっとしたように顔を上げて、それからまたその小さな口を開いた。

「だから、つまり……ずっと残り続けるものが…良いかなと思ったんですが…すみません、恥ずかしくなってきました」

 肩を竦めた彼女に、十四郎は笑う。恥ずかしいなどとんでもないことだ。そうかい、と噛みしめるように返す。二人で植えた桜の苗木が伸び、芽をつけ花を開く様子を思うと自然と目元が緩む。しっかり面倒を見てやれば、早くも来年の春には初めての花が見れるらしいのだと、彼女は言う。
 彼女らしい、などと、たかだか数ヶ月を同じ名字で過ごした間柄でまるで彼女の全てを知った気になって言うなど、きっと烏滸がましい。だが、まだ細い桜の幼い枝を見おろし微笑む彼女を見ると、そう思わずには居られなかった。
 これから、どれほどの時を共に過ごすことになるのだろうか。十年、二十年、互いの寿命がやがて訪れるまで、それとも、戦いの中どちらかが命を落とすことだって有り得る。きっと、後者となる可能性のほうが、職業柄高いには違いない。
 だが少なくとも、彼女と過ごす間だけはまるでこの時が恒久かのように思う。それが幸福であるのか、はたまたその逆であるのか、その判断はどちらかが、いずれかするものであって今は触れるべきではない、知らなくて良い。
 何より幸いに思うべきは、今見える現実ばかりが全てでないと、そう知れた事なのだろう。それはつまり、夢を見る事が必ずしも馬鹿馬鹿しい事ではないという事だ。

「どれくらいに伸びるかな」
「それはもう、夏には大きな木陰が出来て、この屋敷で涼しく過ごせるくらいに」

 当たり前のように先のことを思い浮かべ、恥ずかしげもなく口に出す。それはこの場所でだけ許される、密やかな平穏であった。

 

(2021.12.21)