檸檬

2021年12月20日
おはなし

檸檬

 

 気付いたのは朝だった。寝間着から死覇装へと着替える為、肩から着物を落とし顕になった右の二の腕だ。何か薄ら赤い、紅でもついたのかと思うくらいの鮮やかな色で、思わず左の指先で擦った。
 それが肌につけられた痕だと気付いたのは指で擦って直ぐのことだ。蘇るのは昨晩の光景である。昨夜は行為に及ぶというような程ではなかったのだが、妙に十四郎がじゃれるように身体へ触れてくるから、千世もその真似をして手を握って引いてみたり、首元へ唇を寄せたりとしていた。
 それ以上になる事も以下にもならない、何とも終わりの見えないじゃれ合いなのだが、だが互いの肌に触れていたいという無意識下の欲は満たされていく。
 そんな折、彼がふと顔を近づけ唇でも落とされるかと思いきや、袖が捲れ上がり顕になっていた二の腕へと寄せた。二の腕の肌触りが心地良いことは自分でも知っていて、時折彼もそれを求めてか触れたり、唇を寄せたりする事が無くはない。
 今もそんな事だろうと思っていたのだが、感じたのは思わず色気のない声を上げてしまうような痛みだった。まさかそんな鋭い痛みが襲うとは思わず、声を上げた後は目を丸くして十四郎を見る。彼は彼で千世の大きな声に驚いたようで、目を丸くしているから、何なんですか、と思わず呟いた。
 噛まれた事は間違いなかった。二の腕の柔らかな肉をその白い歯でもってしっかりと噛まれた。今まで舐められることや甘噛されることはあれど、いだっ、と声を上げるほどの痛みを感じたのは初めてだった。
 十四郎は千世の驚いた表情など気にも留めない様子でふっと微笑み、誤魔化す意味合いかは知らないが、頭を優しく撫でる。あまりに突拍子もない行動に千世はぎょっとしていたが、しかし何とも単純なものでそのまま頬に唇を寄せられ彼の匂いを吸い込めば、有耶無耶になっていた。

千世、時間は平気なのか」
「ああ…はい、着替えてるところなんですけど…」

 今日は休日であった十四郎は、襖を開き顔を覗かせる。千世が二の腕の痕をじっと見つめていることに気付いたのか、十四郎はすたすたと近づくと正面に立ち、千世が二の腕観察のため上へ上げていた手首を支えるよう軽く掴んだ。

「結構、痕になってしまったのですが」
「本当だな」

 成程、とでも言うかのようにまじまじとその赤い痕を十四郎は興味深そうに見る。今まで皮膚の薄い場所へ接吻の痕を残されることは時折あれど、しかし噛み痕をつけられたというのは初めてであった。
 歯型の曲線に沿い、点線のように歯列によって赤みを帯びている。痛々しいという程でも無いのだが、まあ人に噛まれたのだろうと分かる程度には目立つ。二の腕を他人に見せることなど無いが、だがだからといってどうでも良いという事ではない。
 もう噛まないで下さい、と、一言くらい伝えようかと彼を見上げると、入れ違うように彼が腰を屈めた。えっ、と声を上げた時にはもう彼の唇はその噛み痕へと近づき、ぬるく柔らかい感覚が走る。
 舌のその独特な濡れた肉感が、歯型をなぞるかのように這い、思わず息を止める。途端に脈拍が早くなり、全身に血の巡ったと同時に耳の先まで赤くなる。叱ろうかという気分も、一瞬にして萎えた。

「も…もう、行かないと…」

 千世が辛うじて漏らした言葉に、十四郎は顔を上げ、そうだったねと笑う。それが案外さっぱりとしたもので、彼の指先もあっけなく掴んでいた千世の手首を開放させた。

「…何で噛んだんですか」
「怒ってるのかい?」
「え、え…?いや、何と言うか、その…珍しかったので…気になったというか…」

 千世は、そうぼそぼそと呟く。人が痛いと感じていることを知っているだろうに、やけに悪びれない様子に調子を崩された。返事を予想していたわけではないが、痛かったかい、とか、悪かったね、とか気にかけるような言葉が返ってくるだろうと、少しは頭の隅で思っていたのだろう。
 彼はそれから少し微笑みを残して、半開きになっていた襖の隙間へ何も言わずに消えてゆく。千世の疑問に答えるきなどさらさら無かったのか、それともまさか、噛んだことに特別理由なんて無かったというのが答えなのか。
 ぱたんと閉まった襖を暫く見ていたが、間もなくひとつ溜め息を吐き出した。箪笥の引き出しに引っ掛けていた死覇装を手に取る。
 朝から乱された調子このまま出勤とはどうにも気が向かない。腕を通しながら、もう痛みは感じないはずの彼の痕がついたその場所が、やけにじんじんと脈打つようだった。

 

(2021.12.19)