六月

おはなし

六月

 

 土に染み込んだ雨が乾くこと無く、また雨が降る。よく飽きないものだと呆れたくなるような、このじめじめとした不快な日々だが、千世が唯一楽しみにしている事があった。
 副隊長執務室には猫の額ほどの庭がある。松や花水木、椿などの背丈の高い木々と、低い場所にはつつじや沈丁花が植わっている。これは海燕が副隊長になるよりずっと前から綺麗に手入れされ残っていたもののようで、彼の執務室は実に書類で荒れていたが、庭だけは雑草もなく、草木の葉も整えられていた。
 その低木に混じって、一画に紫陽花が植わっている。小ぢんまりとした庭であるからそう数は無いのだが、梅雨が近づくと鮮やかな青色を見せる紫陽花が他と比べても実に見事なのだ。栄養が良いのか、そういう品種かは知らないが、丸々とした玉のような青が大きく鮮やかで、つい眺めてしまう。
 その紫陽花を初めて見たのは、海燕に書類を手渡しに訪れたある六月の日だった。雨がしとしとと降る中、縁側で寝転がる海燕に声を掛け近づいた時、庭のその鮮やかな紫陽花を見つけた。
 それ以来、六月になると時折この執務室に訪れて紫陽花を楽しんでいた。ある時、それは海燕が不在の時にこっそりと執務室に入り込み、縁側で庭を眺めながら昼食の握り飯を口に運んでいた時のことだ。
 襖の開く音に海燕が帰ってきたかと何気なく振り返れば、それは十四郎の姿であった。思っても居ない姿に飛び上がりそうな心臓を落ち着けながら頭を下げれば、彼が千世の隣へと腰を下ろした。
 紫陽花を見に来たのだという。この庭は彼が副隊長の時には既に今の状態へと完成していて、狭いながらも四季を感じる美しさが愛しくて大好きだったのだと笑う。特にこの季節は紫陽花が美しいだろう、と目を細める彼に、上がる脈拍の中、千世は何度も頷いたのだった。

「今年も見事だな」
「はい、少し開くのが遅かったような気もするんですが…綺麗に咲いて良かったです」

 縁側の彼に茶を差し出しながら、千世は微笑む。あの日この縁側で出会ってから、鬱屈とするような六月の訪れが、密かに楽しみになっていた。この縁側で二人で、時折海燕を交えながら庭を眺める間は、いくら雨がしつこく地面を濡らそうとも構わなかった。
 それから時は流れたものの、今もその様相は変わらない。春には花水木が咲き、つつじが紫の花を見せる。その後夏の訪れの前に、紫陽花の鮮やかな青が庭を彩る。その花の前で、目を細め眺める彼の横顔を、千世は思わずぼんやりと眺めた。
 その視線に気づいたのか、彼は顔を千世に向け首をかしげる。どうした、とその薄い唇が紡いだ言葉に、いいえ、と目を伏せ答えた。
 昨晩から降り続く雨に、雨樋を伝う水の音が今日はひときわ激しい。何か話そうにも声を少しばかり張らなくては伝わらないだろうから、会話が億劫になる程だ。
 だからといって、敢えて何を話そうと必死になるほどこの無言の時間は苦でなかった。昔ならば、無言になるとどうにも気まずい気がして、何か話し掛けなければと必死になっていたように思う。
 しとしと、ぽたぽたと、雨音だけに包まれながら、一人の時は飽き飽きした時間も、今は穏やかで心地の良い時が流れていた。
 そういえば、と突然彼が口を開く。

「丁度この時期だったか。千世が海燕の留守中に此処へ忍び込んで、昼飯を食ってた時があったな」
「…私も、今丁度思い出していたんです」

 千世の言葉に、そうかい、と彼は笑った。紫陽花が咲く度に思い出している。雨の庭に咲く紫陽花を眺めながら、具のない握り飯を頬張っている時に現れたあの姿が目に入った時の動揺と、緊張しながらも彼の纏う包み込むような優しさの隣で過ごす穏やかな時を、驚くほど鮮やかに思い出す。
 彼にとってはどうだったのだろうか。あの時はまだ、きっと彼にとって自分は新米席官であって、部下の一人でしか無かった。蘇る当時のときめきと、今彼の横顔を眺めながら溢れる愛しさに揺れながら、なんと贅沢な時間だろうかと思う。
 そしてその時間とは、限りあるからこそいつまでも胸に留まり続ける。厚い雲が僅かに割れたその隙間が空の遠い所で見えた。間もなく、その隙間は広がり青い空が覗き、雲は風に流される事だろう。
 あれほど朝は恋しかった晴天が、今は少しだけ恨めしく思えるのだった。

 

(2021.12.20)