ルージュ

2021年12月18日
おはなし

ルージュ

 

 まだ昇りかけの日差しが、障子を通して畳の上へと柔らかく差し込む。朝から実に過ごしやすい陽気で、祝いの日に相応しい、爽やかさを纏った日であった。
 昨日の夜から落ち着かず、久しぶりに帰った寮の自室の、何よりも落ち着くはずの布団で横になったのだが、うとうとと眠っては目が覚めを繰り返していた。寝不足の気はあるものの、しかし緊張からか眠気は感じず、むしろ冴えて仕方が無かった。
 寮で軽く身支度を済ませ、それから祝言を行う屋敷へと向かった。料亭を借りるような席も考えたが、招待をしているのは親しい知人だけな上、ひっそりと穏やかに過ごしたいという互いの願いで、二人でよく過ごしたこの彼の屋敷で行うと決めた。
 居間と寝室の襖を取り払い、広くした部屋にはずらりとお膳が並んでいる。婚礼の面倒な準備といえば、京楽から紹介のあった仲人が細かく取り仕切ってくれていた。割烹着姿の女性たちが忙しそうに台所と広間とを行き来し、祝宴の準備が着々と整う中、控室となっていた書斎に足を踏み入れる。
 黄金色の豊かな髪を柔らかく結い上げた彼女は、既に前掛けを身につけ、千世の顔を見るなり遅いじゃない、と笑った。

「ごめん、色々忘れ物ないか確認してたらぎりぎりになっちゃって…」
「もう隊長、とっくに着付けて隣の部屋で待ってるわよ」
「それは早すぎるよ、私まだこれから化粧して貰って、着付けてもらって…」
「だってずっとそわそわして、千世の事見ようとしてこの部屋覗きに来るのよ。だからもう落ち着いてほしくて、着付けの方にお願いしちゃった」

 松本が呆れたようにそう言うと、千世は笑った。彼女の前へ腰を下ろすと、早速胸元へ布を巻かれる。髪を結ばれ前髪を上げられ、着々と準備は始まった。

「でも、本当にあたしで良かったの?晴れ日のお化粧」

 白粉を叩きながら、松本は千世にだけ聞こえるくらいの声で呟く。目を瞑ったまま、うん、と返すと、少ししてからふふと笑んだように漏れる息が聞こえた。
 籍を入れることになったのだと、真っ先に伝えたのは彼女だった。いつか、いずれそうなるのだろうかと感じるような事があってからそれ以来、実際にその瞬間が訪れるとなると想像にしない緊張が襲う。彼女へ伝える時にも中々口が開かず、わざわざ呼び出しておきながら結局松本に促されるように伝えたのだった。
 祝言を挙げるとを伝えた時、彼女が何を思ったか、当日の化粧をしてあげようかと言い出した。特に当日の化粧の事などその時点で何も考えていなかった千世は、二つ返事で頷いた。彼女が美容に詳しい安心感と、何より、きっとこの先何度も反芻する一日の自分を彩るのが彼女であることが嬉しく思った。
 千世が頷いた後、本当にいいの、と驚いたように目を丸くしていたものだ。どうして、自分から言い出しておきながら。
 着々と肌へ乗せられてゆく粉と、瞼や眉に触れる筆の柔らかさを感じながら、自然と無言で過ごしていた。廊下の前を行き来する賑やかな足音に耳を澄ませていると、この部屋の静けさの中で彼女と自分の呼吸が音の隙間に入り込み、それがやけに心地よかった。

「どう?あんまり人にお化粧ってしたこと無かったけど」
「すごい、乱菊さんやっぱり上手だね。お願いして良かった」

 ありがとうと、鏡越しに彼女に伝えれば、どうも、とそれはきっと照れ隠しなのだろうが、素っ気なく返す。鏡に視線を戻して整えられた自分の表情を見つめながら、あれ、と声を漏らした。

「乱菊さん、口紅は?」
「紅は最後。この後着付けて貰ったら、最後の最後、送り出す直前にさすのよ」

 彼女の言葉に、千世はそういうものなのかと頷く。頷きながら、何となくどうして、と尋ねてみれば、手元の化粧品たちを纏めながら、ふと顔を上げて笑う。

「花嫁が完成した姿は一番に旦那様に見せてあげないと、嫉妬されちゃうじゃない」
「…いっ、いや、そんな事は…そんな事は無いと思うけど…」
「そんなものなのよ」

 妙にこっ恥ずかしくなった千世は肩をすくめると、けらけら笑う彼女の楽しげな声が屋敷に響いた。

 

(2021.12.18)