約束

2021年12月13日
おはなし

約束

 

 結婚に際する手続きがひどく面倒であることを知ったのは、実際に当事者となった数ヶ月前のことである。互いの名前を書面上に並べ、細々と書き込みながら、こうしてこの紙一枚で夫婦になるのかと感慨深く思ったものだった。
 それまではただ、交際と言っても口約束に近いものであった。何か誓約書を書いたわけでもない、ただ互いに好きあっているという事実と共に時を重ねていただけであった。きっとさようならとどちらかが言い出せば、それまで積み上げた時間は何事もなかったかのように、雲散霧消するのだろうと、儚ささえ感じたものだ。
 しかしお互いに愛しく思い合って共に過ごすだけなのならば、敢えて書面で煩わしい契約を交わす必要も無い。思い合う気持ちというものは目に見えないものに決まっているのだから。だが、だとしても結婚という契を交わしたのは、形としてその証を残したかったからという、我儘染みた思いに他ならない。
 洗剤の泡がついた茶碗を洗い流し、ざるの上へと重ねる。二人分の食器が積み重なったざるからは、ぽたぽたと水滴が流しへと落ちた。水分を手ぬぐいで取ると、すっかり冷えた指先に息を当てる。冬ともなれば食器を洗うのでも一苦労であった。
 手のひらを擦り合わせて摩擦で温めるような仕草をしながら、寝室へと顔を覗かせる。ちょうど隊長羽織に腕を通した十四郎の姿が在って、自然と微笑んだ。

「今日は早く帰れますか」
「努力はしたいんだが、生憎難しそうだ」

 そうですよね、と千世は残念そうに笑って頷く。今週は総隊長直々の案件を抱えていると聞いていた。昨日も随分遅くに帰って来ていたし、今朝もまだ始業よりずっと早いが既に出発の準備を整えている。
 襟元を整える姿を正面で眺めていると、千世の赤い指先に気付いたのかそっと手のひらが伸び千世の手を包んだ。いつもはひやりとする彼の手のひらだが、今はほんのりと暖かく思える。優しく包まれる感覚が実に心地よくて、ついその指先を逃すまいと掴んだのだが、やがてするりと抜け出されてしまった。
 じゃあ行ってくるよと、そう一つ笑って千世の頭に大きな手のひらが載る。寝室を出た彼の後ろにひな鳥のようについて歩きながら、これから今日は遅くまでこの家でひとりかと思うと、自然と眉尻が下がってゆく。
 彼が仕事の日など今までも何度もあって、一人で留守番をすることだって珍しい話ではないというのに、どうにも今日は寂しく思えた。
 包まれていた手のひらの熱を忘れないようにぎゅっと拳を作って握りしめるが、冬の冷たさにまた失われてゆく。
 玄関で草鞋の紐を結ぶその丸い背を見つめながら、何か急なことがあって休日にでもなりやしないかと思う。まさかこんな事口に出せはしないから、そっと頭の片隅で思うだけなのだが。
 準備を終えた十四郎が立ち上がり、玄関で棒立ちになる千世へと振り返る。いってらっしゃい、と平静を装ってそう口にしてみると、彼は困ったように微笑んだ。

「そんな寂しそうな顔をしてくれるなよ」
「そ、そんな顔、してましたか」

 慌てて千世は頬をぱちぱちと叩くと、また先程と同じように、千世の頭に手のひらを乗せてわしわしと撫でる。子供ではないのだと言いたいくらいに強くごしごし撫でるものだから、千世は頭をぶんぶんと横に振って振り払った。

「いってらっしゃい」

 戸を開くその背に向かってもう一度言うと、彼は振り返って頷く。それは実に不思議な言葉で、いってらっしゃいと、そう彼に伝えれば、必ずまたこの場所へ帰って来ると思えるのだ。勿論普通ならば、何事もなければ自宅に帰る事など当たり前のことなのだろうが、職業柄、時折やけに不安で仕方が無い時がある。
 だからこうして見送る時の、まるでおまじないなのだと思う。いってらっしゃいと見送られた家に必ず帰らねばならない。そう笑顔で呟けば、彼は必ず行ってきますと優しく返す。ぱたんと閉まった扉が、日の落ちた後再び開く時、ただいまとそう返ってくるまでがこのまじないの効力に違いないのだ。

 

(2021.12.13)