夕焼け

おはなし

夕焼け

 

 積み上げた書類を彼の言う通り適当な場所に置きながら、千世は思わず辺りを見回す。書類や何やらが積み上がったり散らばったりと、雑然とした執務室の中心でぐったりとする姿に思わず大丈夫ですか、と声を掛けた。

「大丈夫じゃねえ」
「何か出来ることがお手伝いしますが…」
「…良いのか」

 やけにしおらしい様子に千世が戸惑いながら頷くと、海燕はのそりと顔を上げる。そのげっそりとしていた表情から、途端ににっこりと満面の笑みへと変わると途端に嫌な予感が走るが、しかし手伝うと言ってしまった手前、さらにこの笑顔を前に撤回は出来ない。
 さっきまでああもぐったりと、具合でも悪いのかと思うほどの様子であった事がまるで嘘のように飛び起きると、床に散らばっていた紙を拾い集め、長椅子前の机の上に既に積み上がっていた帳面の上へ重ねてゆく。まさかと思いその様子を眺めていれば、頼んだ、と笑顔で締めくくられた。

「助かるぜ日南田…清音にも仙太郎にも朽木にも都にも断られて、明日の提出期限に間に合わねえからどうしようかと思ってたんだよ」
「明日なんですか…?まさかこれ全部…」

 そう、と笑顔で頷く海燕に、副隊長相手とは分かっているもののげんこつをしてやりたい思いをぐっと堪えながら静かに頷く。どうして今まで何もしなかったのかとせめて聞いてみれば、やる気にならなかったからなのだとぼそぼそ気まずそうに答えられた。
 やる気にならなかったというのなら仕方ない、という訳にはならない。話を聞いてみれば、明日提出となっているのは溜まりに溜まった一ヶ月分の任務報告書の確認と押印、隊長印が必要となる重症報告書の取りまとめである。
 もっと早くから手を付けていればそう手のかかるものではないというのに、これだけ溜まってしまえばどうしようもない。千世は一つ深溜め息を吐き出した後、彼から渡された確認印を朱肉へつけた。

「先月はちゃんと間に合わせたんだ。でも今月はどうもやる気が出なくてなー」
「言い訳はもう良いですから、手を動かして下さい…」
「……日南田お前、そんな冷たかったっけか」

 彼の寂しげな言葉を無視したまま報告書へ目を落とす。もう日も沈みかけているというのに、何という絶望的な状況だろうか。今までも何度か彼の必死な頼みで手伝った事があった。副隊長ともなれば机仕事が必然的に増えてゆくものだが、積極的に任務へばかり向かってしまうものだから後回しにされることが多く、月末はよく泣いている姿を見る。
 暫く集中して無言の時間を過ごしていたのだが、ふと目に入った志波都という名前に反応し、あの、と声を上げた。

「志波副隊長はどうしてご結婚されたんですか」
「…どうしてって、何だ急に…理由なんて要るのか」
「いえ、理由というか何というか…どういう切欠だったのかなと気になったもので」

 執務机の彼へと顔を向けると、筆をくるくると回しながら姿勢を直していた。

「好き合ってる時から、急に気持ちが変わる瞬間がある。明らかに質の違う思いになる瞬間が」
「何だか感覚的過ぎます…」
「まあ、何だ。お前にもそういう相手が出来たら分かる」

 そういうものなのか、と千世は頷く。いつか自分にもそういう相手が現れるのだろうか、などと夢見心地になりかけた。そんな事を夢見られるほど恋愛の経験が無い。ただ執着に似たような強い憧れを抱いている相手は居たが、それを例え恋と名付けられようが、実に一方的で立派な片思いである。
 思わずぽかんとしていれば、おい、と海燕は千世のぼやけた視界の中でぶんぶんと手を降った。途端に、我に返る。

「ほらさっさと手動かせ」
「…志波副隊長に言われたくないんですけど…」

 千世がそう呟くと、彼は楽しげにけらけらと笑った。

 

(2021.12.14)