昔話

おはなし

昔話

 

 寮から引き上げてきた荷物の一部をまだ部屋の隅に重ねたままにしていた。もともと荷物は多い方で無かったが、長年生活をしていれば思い出の品というものは意識せずとも増えていくというものだ。そろそろ片付けなければ、と部屋の隅に重ねていた帳面の前に腰を下ろし、その一冊をふと手に取った。
 日に焼けて埃っぽいその中を開くと、千世の字で何やら綴られている。軽く目を通せば、日記である事が分かった。日付を見れば今から数十年前、まだ席官に上る前のものである。
 思わずうわあ、と声を漏らす。そういえば昔は毎日夜部屋で文机に向かい、その日の出来事などをこの帳面に書き留めていた。席官へ上がってからは暇がなくなり、日記の習慣も気付けば無くなってしまったのだが。
 ぱらぱらと捲くりながら、遠い昔の記憶を辿る。思っていたよりも過去の自分は筆まめであったようだ。日によって記された内容にばらつきはあるものの、その日の食事や鍛錬の内容など簡単ではあるが綴られている。
 案外、人に見られてもあまり問題がないような内容ばかりであった。任務での反省点や読んだ本の事だとか、まさか当時から一途に慕っていた十四郎への思い出も綴ろうものならどうしようかと思った。いや、しかし。それにしても、驚くほどに十四郎についての記述がない。
 清音や仙太郎、海燕の名前は頻出するものの、いくらその思いを胸の奥へ仕舞っていようと、ここまでその影も形もないというのは不自然であった。どうしたものかと千世はもう一冊を手に取りぱらぱらと眺める。

 十月十五日 雨
 浮竹隊長より剣技のご指導

 思わず、あ、と声を上げる。その二冊を流し見ただけだが、十四郎について記しているのはこの一日だけであった。しかもこの十月十五日については、他に何も書かれていない。彼から剣術指導を受けたと、その一行だけである。
 他に日についても、簡単とはいえ最低でも三行は記されているというのに。分かりやすいことだ。いくら昔のこととはいえ、己の性格は己が一番分かっている。思いが強すぎるあまりに、文字にすることさえ避けていたに違いなかった。
 剣術指導の事は覚えている。元々外で予定されていた訓練が雨で中止となったのだが、特に予定もなかった千世は一人稽古場へ向かったのだった。そこで隊舎を見回っていた十四郎と偶々出会い、何の気まぐれか、一時間ほど剣技の指導を受けることになった。
 今思い出しても、当時の緊張と唐突に訪れた幸運への喜びが蘇る。当時は療養も多く姿を見ることもあまり叶わなず、会えば挨拶することだけで精一杯だ。そんな状況で、当時一般隊士であった千世が指導を受けることなど、万が一にも有り得ない事だった。
 感想など何もない、ただ一行だけで記された事実が、当時どんな思いであったかを如実に知らしめる。懐かしい思いが胸の奥から引きずり出され、なんとも酸っぱい気分に満たされた千世は、その日記をぱたんと閉じ、また重ねた。
 一瞬は捨てようかとも思っていたくらいであったのだが、気の迷いでやはり目を通すべきではなかった。当時の自分の抱えていた思いがたったその一行から流れ込むようで、紐でひとくくりにしてごみに出す気にはなれなかった。
 重ねた日記を再び部屋の隅へ追いやったその時、玄関からただいま、と声がする。優しい声音に千世は思わず口元を緩ませると急いで立ち上がり、その声の元へと駆け寄るのだった。

 

(2021.12.10)