北極星

おはなし

北極星

 

 まだ入隊をして間もない頃だった。夢にまで見た護廷十三隊、十三番隊での毎日は決して甘いものではなかった。分かっては居た。いつ命を落としてもおかしくはない死神という職業が、楽しく充実した毎日を送れると思うはずも無い。
 日々掃除洗濯といった隊の雑務や、誰が行った所で問題ないような任務の連続は、消費する体力に対して得る経験値がひどく不釣り合いに思えた。飛び抜けた実力が無い限りは、はじめは誰しも経験をする意味のある時間なのだと、古株の隊士は落ち込む千世を励ますように笑った。
 十三番隊への入隊は、強い希望であった。配属希望が果たして通ったのかどうかは分からないが、結果、強い憧憬を抱く隊長のもとで命を賭すことが出来るというのは、何より幸福に他ならない。
 目まぐるしく過ぎてゆく日々の中で、焦りと苛立ちを覚える事も少なくは無かった。それを誤魔化すように、暇さえあれば修練場へ向かい、一人素振りや先輩隊士を相手取り模擬刀を交えていたものだ。今思えば、何かに取り憑かれたようだった。
 日毎に増してゆく焦燥感は視界を狭小にする。しかし当時の未熟で傲慢な千世は気付くはずもなく、時間と身を削る事こそ最も意味のあることなのだと、今の自分に出来る唯一のことなのだと、誇ってさえ居た。今思えば向こう見ずの自己満足であったと思う。

千世。居ないと思ったら此処かい」
「週に一度の、斬魄刀のご機嫌取りです」
「…そろそろ機嫌を取るより、取らせるようにするべきじゃないのかい」

 修練場の引き戸の音で振り返ると、廊下からの明るい光が差し込む。斬魄刀を鞘へと戻しながら、彼の言葉にそうですねと何とも言えぬ表情で、誤魔化すように頷いた。
 今日はおよそ一時間ほどだろうか。週に一度ほど、拗ねる斬魄刀の機嫌取りの為に修練場を訪れている。普段は数十分ほどで切り上げるのだが、今日はやけに過去の記憶が蘇りつい長くなった。まだ入隊して数年の、思い出す事も恥ずかしいような日々の事だ。
 募ってゆく焦りと自分自身への怒りに似た感情を発散するように、この修練場へ通って居た。

「少し思い出していた事がありました」
「昔の事かい」
「はい、私が昔…取り憑かれたように此処へ通っていた事があったのですが…」
「覚えてるよ。噂を聞いていてね、つい様子が気になって一度見に来たんだったな」

 思い出したように笑い出す十四郎に、千世は口をへの字に曲げる。今となれば笑い事なのだろうが、当時の自分を思い出すと居た堪れない。
 普段の通り、空いた時間に修練場へ訪れたある日の事だった。普段は昼間の時間帯ともなれば賑わうはずが、人っ子一人姿が見えなかった。それは近頃感じていたことだった。通い始めた当初は人も多く、練習試合を申し込む事も容易だったのだが、それは日を追う毎に徐々に減り、やがて見かけなくなった。
 つまらないと、そう思いながらも一人模擬刀を握り締めた時、また今日と同じように背後で戸を引く音が聞こえる。戸の隙間から覗くその姿に、腰を抜かしたものだ。
 当時は彼の体調が優れない時期が多く、その姿を見ることなど珍しいものだったから、たった一人きりで居た修練場へ彼が現れたことが衝撃だったのだ。気まぐれに覗いただけかと思いきや、彼はそのまますたすたと、腰を抜かしてへたり込む千世の前へとあぐらをかいた。

「その時に隊長が教えてくださったこと、今でも覚えているんです」
「俺が…?全く覚えてないな…千世の姿を覗いた事は覚えているんだが」

 腰を下ろした十四郎は、千世が手にしていた模擬刀を取り上げると手が届かない彼の後ろへと隠された。何をしたいのか分からず、目をぱちぱちと瞬きながら、彼の穏やかな微笑みを穴が空くほど見つめたものだ。
 一度刀から手を離してみなさいと、彼は笑う。どうしてですかと、反射的に答えていたのだと思う。咄嗟にその言葉が零れたのは、きっと、心の何処かで良かれと思っていたからに違いなかった。それを彼は見透かしていたのだろう。

「お恥ずかしい思い出です」
「皆誰でも恥ずかしい思い出の一つや二つ持つものさ。それを受け入れられるかどうかだよ」
「受け入れ…られてるんでしょうか」

 千世がおずおずと言ってみれば、彼は一つにこりと笑む。
 彼は模擬刀を取り上げられてぽかんとする千世の目を見つめていた。しばらくして、死に急いでいるのかい、と彼は不思議そうに千世へ尋ねた。まさか、と彼の口から出るとは思っても居なかった言葉に裏返った声で答える。
 千世の答えに彼は安心したように頷くと、模擬刀の柄を握り千世へと差し出した。生きるために握りなさい、と、穏やかながら重みを伴った言葉と共に手渡されたそれを強く握りながら、立ち上がる彼を見上げる。
 まだ右も左も分からないほどであった千世にとってそれは、事ある毎に頭の中で繰り返す言葉となっていた。それを反芻する度に、今自分がこの場所にいる意味だと思うことが出来た。
 それは今でも変わっていない。彼は覚えていないと笑うが、千世の中であの光景と言葉は焼き付いている。いくら時が巡ろうと、それは変わることの無い場所に在り続けるものだった。

 

(2021.12.07)