野ばら

2021年12月2日
おはなし

野ばら

 

 隊舎の中庭を通りかかった時、ふっと良い香りがした。出処はどこかと辺りを見回すと、もう花の終わってしまったつつじの横で見慣れない真っ白で小ぶりな花弁が満開となっている様子を見つけたのだった。近くに寄ると、さらに匂いが強くなる。
 誰かが植えたのか、それともどこからか種が飛んで自生したのか。去年まではこんな姿見かけなかったはずなのだが。思わず腰を屈めてその花に顔を近づけていると、ふと背後に気配を感じた。

「野薔薇です。私も先程良い香りで気付きました」
「そうか、薔薇か。道理で良い香りだよ」

 近づく千世は僅かに湿った髪を後ろで結っている。確か彼女は明け方出発した任務に、小隊長として向かっていたはずだ。予定より随分と早く討伐を終えたのか、未だ昼過ぎではあるが風呂で汗を流してきたところであったのだろう。野薔薇に一瞬混じった石鹸の香りが鼻をくすぐり、僅かに動揺した。
 彼女が五席へと上がって少し経つ。以前まではまだどこかあどけない表情をしていた彼女も、気付けば、凛とした立ち姿を身に着けていた。席官入りしてからの彼女の成長は目覚ましかったが、特にここ数年においては目を瞠る。
 ひとりでに着実に実力を身につけてゆく彼女のたくましさや力強さは、その華奢な体からは想像も及ばないが、しかし確かに浮竹はその変化を感じていた。
 海燕から回ってくる日誌や報告書の束から、無意識に彼女の名を探していたことに気付いたのは、いつからだろうか。彼女が綴る文字を目で追う毎に、その成長が微笑ましくそして楽しみに思っていた。それはまるで、庭に埋めた花の種から伸びた新芽を見守るような感覚であったのだと思う。
 千世はふと野薔薇へと手をのばす。茎には鋭い棘が無数にあるから思わず危ないよと警告したものの、ぷちりと花を一つもぎって手のひらへ載せた。案外大胆なことをするものだと、その手のひらの花をまじまじと見る。

「野薔薇は生命力が強いですから、多少はお花をいただいても大丈夫なんですよ」
「そうなのか?可憐な見た目によらないな」
「はい、だから剪定をしっかりしてあげないと、中庭が野薔薇だらけになってしまうかも…」

 花の時期は良いだろうが、その他の時期で鬱蒼と生い茂られるのは困る。その見た目に反して棘は鋭いし、誤って足か腕でも突っ込めば擦り傷だらけになるに違いない。
 剪定は植木屋へ依頼するとして、しかしそれほどまでに生命力が強いようにはやはり見えない、千世の手のひらの上に乗ったその可愛らしい白い花弁と黄色の葯が実に鮮やかだ。見た目によらない点で、どこか彼女に似たように思えてしまい、ぼうっと花を見ていれば隊長、と不思議そうに声を掛けられた。

「この花、気に入られましたか」
「あ、ああ…そうだな。気に入ったよ」

 君に似ていると思ったんだよ、などとまさか言えるはずは無かった。だって、女性を花に重ねて例えるなどまるで、と、そこまで思考を巡らせた後、ぱたりと考えるのを止めた。これ以上、この事について考えるべきではないと本能的に察する。
 力の抜けるような会話を、このまま楽しんでいたいものだったが、しかしそういう訳にも行くまい。さて、と屈めていた腰を戻し背筋を伸ばす。そろそろ立ち去ろうかと口を開いた時、慌てたように千世があの、とそれを遮った。

「そ…そうしたら、少しばかり摘んで、後ほど雨乾堂へお届けに上がります」
「良いのか、わざわざ悪いじゃないか」
「いえ、その…私も家に飾りたいと思っていて…折角なので、一緒に」

 彼女はこころなしか僅かに頬を染め、そう微笑む。じゃあ頼むよ。そう彼女に返せば、こちらが照れくさくなるほどの綻ぶような笑みを見せ頭を下げた。鋏を何処からか取ってくるつもりなのだろう。ぱたぱたと下駄の足音を響かせながら小走りで去ってゆく彼女の背を見送る。
 後に残った野薔薇の甘い芳香を吸い込みながら、自然とその中に石鹸の香りを探していた。

 

(2021.12.02)