盗む

2021年11月30日
おはなし

盗む

 

 寒いながらも、よく晴れた日の早朝のことだった。
 隊内の掃除は平隊士の日課となっており、場所ごとに当番制で回している。今週は千世が隊舎入り口である門戸周辺の担当となっており、冬のまだ真っ暗な早朝から出勤し竹箒で掃いていた。暫くするとやや空が白んできて、それと共に夜警の者が帰隊し始める。
 疲れ果てた表情の彼らが門戸を通った後は、ばらばらと昨晩から流魂街や現世での任務へ出ていた者たちが帰り、未だ入隊して数年の千世は深々と頭を下げるのであった。まだ満足に任務も与えられない中、彼らの土や血で薄汚れた肌や、くたびれた様子というのは、何処か羨ましく感じる。
 今の仕事といえば腹を減らした隊士達の為、台所で大量の握り飯や大鍋で味噌汁を作る食事当番、隊舎や周辺の掃除ばかりだ。任務など週に一度要請が出れば良いもので、雑用ばかりの毎日である。致し方ないことだとは分かっている。余程の実力がない限りは、数年は見習いのような日々を耐え忍ばねばならない。
 同期の檜佐木は、期待されていた通り入隊し間もなく席官となったと聞く。まだ席官入りなど果てしなく遠い未来の話としか感じない千世にとって、その噂を耳にした時は大きな焦りを感じたものだ。
 だがそう直ぐに実力が認められるという事は無い。余程の事が無い限りは、与えられた任務を速やかに確実に、そして地道にこなし続けるしか無い。空いた時間には稽古場へ向かい、ひたすらに鍛錬に明け暮れるばかりである。
 そうしていれば、胸の奥に常に居座り続ける焦燥感を誤魔化せるような気がしていたのだ。いち早く始解までを会得し、せめて席官に手を伸ばすことができれば、そうしたならば。

「精が出るな」
「た、隊長…おはようございます」

 隊舎から現れた人影にはっと顔を上げれば、寝間着に隊長羽織を羽織った姿の浮竹が門戸からひょいと顔を覗かせていた。慌てて深く頭を下げれば、その足音は近づき、千世の傍で立ち止まる。
 準備も何も出来ていなかった心臓は、彼が現れた途端大きく飛び跳ねどくどくと脈打つ。一般隊士では普段滅多に見ることさえ叶わない姿を拝めるだけでも幸運だというのに、会話を交わし、更にはその視線が自らにだけ向いている状況が信じられないほどであった。
 緊張のあまりまともに顔を見れず、竹箒を抱えたまま俯き、まだ枯れ葉の散らばる地面を見つめる。

「どうしてわざわざ早朝に掃除をしているんだ」
「あ、いや…ええと……どうしてと言いますと…」
「他の子は大体午後から始めるだろう。日南田だけ、どうしてかと思ってね」

 ちら、とその表情を見上げれば、彼はその優しい笑みをただ千世にだけ向けている。緊張と、喜びとが入り混じった異様な感情を抱えながら、僅かに震える手は寒さが理由か分からない。
 千世が早朝に清掃を終わらせてしまうのは、朝の出勤が皆少しでも心地良いようにと、そんな程度の事であった。そんなに深い意味はない。自分自身が、隊舎前に枯れ葉などが散らばっている様子があまり好きではなく、せめて自分が当番の時は出勤時間帯までに整えておこうと思っているだけだ。
 掃除当番として場所と期間は決められているものの、特に時間帯については個人の都合に合わせ自由となっている。だから多くのものは、特に冬などはせめて昼過ぎの最も暖かな時間帯を狙って外の清掃に手を付ける者も多い。
 であるから、つまるところ千世自身の都合であった。自分自身が綺麗に整った隊舎の門戸をくぐり出勤したいからなのだと、そう答えると浮竹は成程、と笑った。

「早朝に、箒で掃く音が薄っすら雨乾堂まで聞こえるんだよ。特に冬の朝は、空気が澄んでいるだろう。月曜にそれが聞こえてくると、今週は日南田が当番かと思ってね」
「それは…お休みの邪魔になっておりませんか」
「邪魔なわけがない、むしろ箒で掃く乾いた音が好きでね。…ただ、いつも随分早いから、疲れやしないかと、それだけが心配だな」

 強いて言うならば。浮竹はそう言って微笑んだ。とんでもないことだった。心配など恐れ多い。自分が勝手にしている事に対して、心配をかけるなど。何と返せばよいか分からず、気の利いた一言も思い浮かばないから、すみません、と返す。
 身体を小さくしてその恐縮しきった千世の様子が可笑しかったのか、しかしその反応は彼の予想通りであったのか、何とも呆れたように浮竹は眉を曲げた。

「いつも有難う。助かってるよ」
「…と、とんでもないことです」

 千世が必死に絞り出した声でそう答えれば、彼はまるで綻ぶような優しい笑みを見せる。目尻が下がり、頬は緩み、口元は緩やかに弧を描く。その笑みが、たった自分だけに向けられている事がまるで夢のような心地であった。
 去ってゆく彼がその白い長髪を揺らす後ろ姿を見送りながら、落ち着く素振りをみせない心拍のため、冷たい冬の空気をゆっくりと肺へ吸い込む。まだあの眼差しの名残が胸に残る中、しかし同時に、何かぽっかりと穴ぼこの空いたようなこの物足りない感覚は一体何なのかと、まだ知らぬ感情の存在を千世は徐々に、意識しつつあったのだった。

 

(2021.11.30)