匂い

おはなし

匂い

 

 玄関を開けると、暗い廊下に書斎から漏れる光が一本伸びていた。あまり気配がしないからもう眠ってしまったかと思っていたのだが、今日も起きて待っていてくれたようだ。
 今夜は会食があり、遅くなると事前に千世に伝えていた。普段のこの時間ともなればとうに食事も風呂も済ませ、もうあとは眠るだけといった様子だろう。しかし、書斎に居るとは珍しい。いつもならば寝室に敷いた布団の上で寝転びながら本を読んでいたり、文机で書き物をしているものだが。
 おかえりなさい、といつもは声が返ってくるはずが今日はしんとしているし、どうしたのかと妙に不安になり灯りの灯る書斎へと急ぎその襖を開いた。

「び、びっくりした…おかえりなさい…すみません、気付かなくて」
「いや、それは良いんだが…まだそんな格好をしていたのか」

 驚いたように振り返った彼女はまだ死覇装のままで、何やら周りには紙が散らばっている。どうしたのかと聞けば、急ぎ終わらせなくてはいけない仕事を帰宅してから思い出したのだという。たまたま資料を持ち帰っていたから、隊舎に戻るのも面倒だと、十四郎の書斎を借りていたのだと答えた。
 もうこんな時間か、と千世は壁の時計を見上げ目を丸くする。その様子では夕飯すら取っていないことだろう。筆を置いた千世の傍に十四郎は寄ると、そのすぐ背後へと腰を下ろす。
 彼女を抱え込むように手をその腹のあたりに回し柔く抱きしめると、くすぐったそうに身を捩った。

「何だ、その資料かい。今日で無くとも良かったんじゃないか」
「いえ、駄目なんです。明日は一日研修の予定が入っていて隊舎に居られないので…今日やらないと」

 そう言って、一旦は置いた筆を千世は再び手に取る。彼女がそう言うのならば止めるような事は出来ないが、だが今からまたその驚くべき集中力で机に向かい続ければ眠ることさえ忘れそうなものだ。今日は良いとしても、明日に響くに違いない。
 取り敢えず今からでも夕飯を食べたらどうかと言ってはみるが、お腹空いていないので、とにべもない。背後から抱き締め、はじめは照れくさそうにしていたものの今はまた手元の資料に意識が行っているのか、少し邪魔だとでも言いたげな様子に見えた。
 それがどうにも気に食わず、少しくすぐるように腹をごそごそとしてみるが、あの、と困ったような声を出され、それが地味ながらも衝撃であった。
 その鬱陶しそうな様子に小さく溜息を吐き、十四郎はぐったり彼女の肩に顔をのせるように頭を垂れる。と、ふと彼女の耳がひやりと頬に触れた。

「っう、うわっ、やめて下さい…!」
「こんなに冷えてるじゃないか」
「耳は冷たいものな、っ…や、や、めて下さい…」

 火鉢があるから部屋は暖かいものの、耳たぶのひやりとした感覚が心地よくつい唇で喰んだ。柔らかな軟骨を覆う薄い皮膚を甘噛し、舌で撫でる。分かりやすく飛び跳ねた千世の身体が逃げぬよう、身に巻きつけた腕をさらにきつく締める。と、再び千世は筆を転がし十四郎の腕に手を掛けた。
 耳たぶから唇を離すと、彼女は浅く呼吸を繰り返す。その顔を背後から覗き込めば、むっとした表情を装いながらもその口元に堪えきれない緩みが生まれているのを隠しきれていない。ふっと笑い、彼女を抱え上げ、とうとう胡座をかく腿の上へと乗せた。
 十四郎は、膝の上へと乗せた彼女の首元へと顔を寄せる。途端に香る彼女の匂いに、思わず吐く息が震えた。

「や、やめて下さい、っだ、だめ!だめだめ!」
「何が駄目なんだ」
「においですよ、まだ私…その…お風呂入ってないから…嗅がないで下さい…」

 そんな事かと笑えば、そんな事とは何だと抗議するようにまた嫌だとじたばたする。そんな彼女を押さえつけながら、嫌がるその首筋へ舌を伸ばした。先程まで暖簾に腕押しのような態度であった彼女が、大きく跳ねるように敏感な反応を見せたのが実に心地よかったのだ。

「だ、だめって言ってるのに…お風呂、お風呂だけ入らせて下さい…」
「そんな事したら勿体ないじゃないか」
「勿体ない…!?」

 素っ頓狂な声を上げた彼女はぴたりとその身体の動きを止める。勿体ない、の意味を必死に理解しようとしているのだろうが、追いつかないらしい。これ幸いと、十四郎はその首元でまた大きく息を吸い込みながら、彼女の滲んだ汗を舐め取るように舌を伸ばした。

 

(2021.11.29)