透明

2021年11月27日
おはなし

透明

 

 十四郎は洗面所で呆然としていた。おかしな夢かとも思ったが、そういう訳では無い事を知っている。
 ことの始まりはつい数時間前に参加していた男性死神協会の会合だった。会合と言っても集会所が使用不可であったため、例の如く男子便所だった訳だが。本来ならば今日は休日だから申し訳ないが欠席としたかったのだが、何やら四番隊の伊江村による持ち込み案件があるからと、会長である射場が出席を乞うてきたのだ。それならば致し方無いと、千世を一人家に残し参加をした訳であった。
 彼が持ち込んだのは男性死神協会の資金難を打開する策であった。それが実際何かと言えば、技術開発局の阿近が開発したという透明薬の販売なのだという。透明薬と聞き、なんと技術とは素晴らしいものかと一瞬は感心したが、男性死神向けへの販売を検討していると聞き青ざめた。
 幸いにも未だ試験薬の一瓶が完成した段階で、これから増産体制に入るのだと言う。透明化して一体どうするのだと尋ねてみれば、どの者も押し黙り、檜佐木など僅かに耳を染めて顔を逸らすほどであった。これはまずいと十四郎は咄嗟にその試験薬を伊江村の手から掠め取り、そのまま一息に飲み干した。
 阿鼻叫喚となったのは言うまでもない。貴重な休日の時間を惜しみようやく完成させた試験薬はこのたった一瓶だと言っていた。つまり十四郎が全て飲み下した事により透明薬はこの瀞霊廷から無事失われたのである。
 この危険な欲望を満たす為でしかない薬を販売し資金源とするなど、言語道断だ。希望が失われぐったりとする会員達を前に、瀞霊廷の平和を守れた事への安心で、その瞬間は満たされたのであったが。
 失意のうちに会合は解散され、十四郎もそのまま自宅へと帰った。しかし千世の姿は家になく、台所を覗けば何やら鍋やら野菜やらが転がっていたから、恐らく買い出しに出かけているのだろう。碁盤にでも向かいながら帰りを待とうかと、手洗いのため洗面所へ訪れた時に異変に気づいた。
 洗面所にある鏡に、何も映らない事に気付いたのだった。男子便所で解散した後阿近に呼び止められ、彼によると効果は数十分で現れ、効力は一時間ほどを想定しているとの事であった。目的はともあれ、折角の試作を飲み干し彼には悪いことをしたと頭を下げれば、勉強も兼ねての試作だったから別に良いのだと言う。だが透明薬に関してはこれ限りにしてほしいと伝えれば、彼は不敵に笑うだけだった。
 いやはや、しかしこうも見事に透明になるとは思わなかった。生身だけならまだしも、身につけている衣服までもが共に透過している。自分自身の身体自体も目に見えないから、まるで空中に目玉だけが浮いているかのような実に奇妙な気分だ。
 今からおよそ一時間ほどはこの状況が続くということなのだろう。千世もその間に帰宅するに違いないが、果たしてどうしようかと悩む。声を掛けた所で、飛び上がるに違いない。幽霊か何かとでも思われそうなものだ。事情を説明するのも手間がかかるし、それならばやはりじっと効果が切れるまで待つ他ないだろう。
 とその時、噂をすれば玄関から彼女の気配が流れ込んだ。十四郎の履物に気付いたのか、ただいま、と嬉しそうに声を上げる。足音が立たぬように移動して玄関を恐る恐る覗き込むと、返事が無い事に不思議そうに眉を曲げている千世が目に入った。

「あれ…?…ただいま帰りました…」

 きょろきょろと部屋を覗きながら、ゆっくりと進む彼女のすぐ近くに居るというのに、しかしまるで気づかない。霊圧も閉じているし、今十四郎を認識しているのは自分自身だけだろう。
 あれ、とはじめは不思議そうに見回していた彼女も、全ての部屋と洗面所、風呂場まで確認した後に不安そうな表情へと変わる。あれ、とか、えーとか、ぶつぶつと呟きながら部屋をうろうろするその後ろを追ったり、眺めながら、どうにもそれが愛らしくて仕方がない。
 まるでそれが親鳥を探す雛のようで、ふふ、と思わず漏れそうになる笑みを必死に押し殺す。一通り確認を終えた千世は諦めたように居間へ辿り着くと買い物袋を畳の上に置き座り込んだ。

「気配はするんだけどな……意地悪してますか?…おーい」

 気配、と聞き、思わずどきりとする。いや、霊圧という訳ではないだろう。僅かに発せられている体温だろうか。体温までは透明に出来る訳ではない。移動すれば空気も動くし、足音などを気をつけているとはいえ、服の布の擦れる音や息遣いは微かに漏れる。それとも視線か。恐らくそういうものを含めて気配というのだろう。
 とうとう気のせいか、と一つ諦めたように言葉を漏らした千世は、そのまま畳の上へ転がる。襖の傍で立ち尽くしたまま、天井を見上げる彼女を眺める。彼女が普段一人の時に何をして過ごしているのかと、こんな機会でないと知ることは叶わないだろう。だが、いかん。これではまるで、こうしたいが為にあの試験薬を飲み干したようではないか。
 そんなつもりは無かったのだ。ただ、疚しい目的で薬が氾濫する事を避けたかったというだけだ。途端に、この部屋で息を潜め彼女を見守っている今、悪いことをしているような気になり落ち着かない。だからといって、今声を上げ、彼女に存在を認識してもらうなどという事は出来ない。
 畳に仰向けになる彼女はどこか寂しそうな表情を天井に向け、時折風でかたかたと襖が揺れれば、恐らく十四郎の帰宅の物音と勘違いしているのかぱっと目を見開き身体をわずかに起こした。勘違いだと気付けば、不貞腐れたようにまた、畳に倒れる。うーん、と唸ったり、深い溜め息を吐いたり、一人きりだと言うのに一喜一憂するその様子が、堪らず愛しかった。
 こんなにも近くにいるというのに、声もかけられず触れられもしない。自分は一体何をしているのかとこの生殺しのような状況に内心、溜め息を吐く。自分で蒔いた種でしかない。
 そのうち、うとうとと彼女は瞼を重そうに、やがて目を瞑りぐうと寝息を立て始めた。狸寝入りという訳でも無いようだと、そろりそろりその傍に十四郎は寄り、そっと腰を下ろす。僅かに口を開けて昼寝に勤しみはじめた千世の様子を、まじまじと覗き込んだ。

「…此処に居るよ」

 思わずそう呟き、身体の脇で寂しそうにしている手を握る。びく、と身体が動いた瞬間、さすがに調子に乗ったかと冷や汗が出たが、その目は開くこと無く更に深い寝息を立てた。
 いくら傍にいようと、こうして触れ、体温を感じる以上の幸福はない。彼女の存在を感じると共に、自分の存在も形作られるように思う。一瞬でも、姿を隠して彼女を見守る事に楽しみを見出していたが、これ以上に満たされることはないのだと、姿のない自分の手を握り返す彼女の手のひらを見る。
 とその時、彼女の唇から、十四郎を呼ぶ声が零れた。思わずぎくりとしたが、寝言か知らないがまたすぐに寝息に飲み込まれる。その呑気な様子に、十四郎は笑いが漏れた。夫を家で探し疲れて眠る、あまりに穏やかな昼下がりが可笑しかったのだ。
 幸せそうに眠る彼女を見下ろしながら、この先決してひとりにはさせまいと思う。おとぎ話のような願いだとは思うが、だが許される限り、その傍で穏やかな時を重ねたいと思う。そう思い願うだけならば自由だろう。その願いを閉じ込めるように、そっと腰を屈め柔らかな頬へ唇を寄せた。

 

(2021.11.27)