好き

おはなし

好き

 

 休日の遅い朝、目を覚ますと隣の布団はすっかり綺麗に畳まれていた。よく寝た、と千世はひとつ大きな伸びと共に大きな口を開き欠伸をする。ぐっすりと泥のように眠っていた。夢をいくつか見た気がするが、どれも覚えていない。しかしこの寝起きの良さを見るに、きっと良い夢だったに違いなかった。
 昨日はやたらと疲れていて、風呂から上がった後髪を適当に乾かしたか乾かしていないか記憶がない。いつ眠ったかも覚えていない。
 髪に触れてみると湿っているわけでもないから、乾かす所までは無事済ませていたらしい。まだぼうっとする頭を覚ますように目をぱちぱちと瞬き、直射日光求めて立ち上がった。障子から柔らかく部屋に差し込む光程度では完全に目は開くまい。
 僅かに隙間の空いていた障子を大きく開くと縁側に出る。すうっと涼しい空気が漂う冬も近い空気であったが、まだ布団のぬくもりが残る体温には丁度よいように感じた。ふう、と深呼吸を一つして改めて庭を見回すと、塀に沿って置かれた盆栽棚に向かう背が見える。
 千世はその背に声を掛けると、鋏を片手に振り返りおはよう、と答える。寝間着の合わせ整えながら、千世は縁側から降りて下駄を引っ掛け、ぱたぱたと彼の元へと近づいた。

「どうされたんですか、朝から」

 珍しいと思ったのだ。休日の午後にはっと思い立ったように盆栽の手入れをすることはあれど、朝から寝間着のままというのは見たことのない光景であった。それに、鋏を手にしている割に目の前の松のどこかを剪定したような気配はなく、もちろん落ちた枝や葉が見当たらない。
 それに千世の問いに十四郎は誤魔化すように硬く微笑むだけで、口を開かない。ますます妙だと思ってどうしたんですかともう一度尋ねて顔を覗いた。

「何かありましたか」
「何もないよ、どうして」
「何もない訳がないような雰囲気だからです」

 さっと目線をそらされたが、千世はじっと見つめる。つくづく誤魔化す事が下手だと思う。十四郎さん、と千世は低く彼を呼ぶと、ううんと悩んだように腕組みをした彼は困ったように眉を曲げた。

「…タロウとは誰だ」
「……タロウ?」

 千世がそう答えてぽかんと見つめ返すと、十四郎は口をへの字にしたまま小さく頷いた。気まずそうに、そしてどこか不安げに見える目線を浴びながら、千世はタロウという名前を記憶の中照らし合わせてみるが、そのような人物は知らない。

「……明け方目が覚めた時に、そう…千世が寝言で呟いているのを聞いてしまったんだよ」
「えっ、そ…その、タロウ…ですか?…な…なんて言ってましたか…?」
「…タロウすき、と…聞こえたような気がするが、もごもごしていて良く分からなかった」

 は、と千世は十四郎の言葉に情けなく口を開いたまま固まる。夢の中で記憶にないタロウという男への好意を口にしていたというのか。全く身に覚えのない言葉と、彼の悲しげ表情を見つめていたが、突如蘇った記憶にああっと千世は声を上げた。
 
「タロウって、大きな犬ですよ。私が流魂街にまだ住んでた頃、大きな犬と一時期一緒に過ごしていたことがあったんです」
「い、犬…?」
「はい、大きな犬で…今の私くらいの大きさはあったと思うんですが…その犬をタロウと名付けて暫く一緒に暮らしてたんです。一年くらい経って、急に居なくなっちゃったんですが」

 どうりでやけに夢見が良かったのだ。暖かくて幸せな夢を見ていたという名残だけは身体にあったが、しかし肝心な夢にはしっかり蓋が締まっていた。タロウという名を聞き蘇った過去の記憶と、夢の中で感じた体温を思い返し表情を緩める。
 犬か、ともう一度繰り返した十四郎のつい先程までの険しい表情は解け、そうかい、と笑う。知らぬタロウという男のような名が、まさか犬のものだとは思わなかっただろう。白くふわふわの体毛が心地よくて、寒い日はタロウに身を寄せて過ごしたのだった。懐かしい、と遠い昔を思い出し千世は微笑む。

「良い友だちだったんだな」
「はい、お世辞にも良い暮らしでは無かったですが…あの時は楽しかったですよ」

 また会いたいとそう思いはするが、しかし叶わぬことだろう。タロウが消えてからというもののあの広い流魂街を、三日三晩探したがその足跡さえも見つかる事はなかった。
 出会った理由も、暫く共に過ごした理由も分からないのだから、別れだって理由が分からなくても不思議ではない。理由などなくて良いのだと、幼いながらにもそう納得しようとしていた。
 今となってみれば、もしかしたらタロウは犬の形をした虚だったのかも知れないとも思う。当時はまるでそんな認識も知識も無く、だがある意味それは幸せだったのだろう。

「そういえば夢の中でタロウに頬ずりされて、すごく暖かくて気持ちが良かったんです」

 夢の中だけとは思えないくらい、やけにその感覚が今でも頬に残っているような気がするのだ。千世の言葉に、十四郎は眉を上げ少し目を見開く。そのはっとした表情に千世はどうしたんですか、と思わず聞いてみれば、彼は答える代わりに少し腰を屈めた。
 目の前まで近づいた彼の唇が、額に軽く触れる。その柔らかくほのかに暖かいその一瞬の感覚に、千世はぼうっと彼の満足げな笑みを見上げた。その額に感じた柔らかさが、頬に残る感触と同じくらいに身に覚えのあるものだったから、ああそういう事かと合点したのだ。
 あの頬ずりの暖かさも、この額に残る唇の感触も、夢の中で感じたものだ。夢の中であって、夢の中で無かった。そうじわりと認識した事実に、自然と口元が緩む。
 千世が勘付いたことを十四郎も察したのか、さっと彼は離れ、手にしていた鋏をまた盆栽へと向ける。ぱちん、と伸びた松の枝を裁ち切った音と共に、ようやくひとつの枝が地面へと落ちた。

 

(2021.11.20)