酔ひ痴る

2021年11月11日
おはなし

酔ひ痴る

 

 千世、と十四郎は掛け布団の具合を直している横顔に呼びかける。互いに半身を起こしてはいるが、もう灯りを消し布団へ潜り込もうかという、夜も更けた時分だった。

「どうしました、隊長」

 掛布団の皺を伸ばすようにぽんぽんと軽く叩いた千世は、十四郎へと顔を向ける。枕元のぼんやりとした灯りが彼女の瞳に鈍く映り込む。その揺れる橙色を見ると、夜が来たと思う。
 その眼差しを受けながら、十四郎は開いた口をどうしてか噤んだ。何と伝えるべきか思案したのだ。彼女は言葉を待つように背筋を伸ばし、押し黙って居る。待たせてしまっている事に十四郎ははっとすると、ようやくその唇を微かに開いた。

「…そろそろ、呼び名を」
「あ……はい、そうですよね…」

 心当たりはあったのか、千世は照れたように笑って頷く。どうにもそのはにかむ表情を見ると、こちらも照れ臭くなるというものだ。別に付き合いはじめたばかりの男女でもないというのに、どうにも慣れない。
 慣れないといえば、呼び名だ。彼女は今でも十四郎を隊長、と呼ぶ。下手すれば、浮竹隊長とも呼ぶ。同じ戸籍に入った今、彼女は同様の名字を持つ身であるというのに、やはり長年慣れ親しんだ呼び名をそう簡単に変えることは難しい。
 一時期は、二人で過ごす時間に限っては下の名で呼んでくれている事もあった。だが彼女が他人の前で誤ってその名で呼ぶ失態を犯して以来、たとえ二人で過ごす時間であっても隊長と、そう呼ぶように自然と戻してしまったのだった。
 折角互いに慣れてきた所であったが、しかし致し方ない。またいずれ、とは思っていたものの、結局隊長と彼女が呼ぶのも、そして呼ばれる事にも慣れてしまっていた二人は、祝言を挙げてひと月ほど経った今になり、ようやくその件に関して触れた。

「改めて、何とお呼びしたらいいかなと…考えては居たんですよ」
「そんなに色々案があるのかい?」
「はい、例えば…十四郎さん、十四郎さまとか…、旦那さま…あとは、あなたとか…」

 目線を上げ、指折り思い出すようにぽつぽつと挙げる千世の様子を見て、感心するように十四郎は頷く。確かにそう挙げられてみると、色々とあるものだ。どれが良いでしょうか、と窺う千世は、特にどれというこだわりがある訳では無いらしい。

千世が呼びやすいようで良いよ」
「呼びやすい…それだと、隊長になっちゃいます」

 違いないと十四郎は笑う。極論を言えば、呼び名など気にすることではないのだ。彼女が呼びやすいように、十四郎自身も、彼女から呼ばれていると分かれば良い。だが、やはり名字を同じくした今、やはりそればかりでは寂しいと思う。
 隊長、と、他の者と同じものではなく、彼女だけから聞こえる響きを知りたい。互いにとって唯一となった今、そう思うのは何らおかしくはない感情だろう。

「それなら、一つずつ試してみようか」
「試す?」
「そう、千世が思いついた呼び名を一つずつ。そのうち、互いにしっくり来るものが見つかるかもしれない」

 つまり、そう強制でもしなければ、たとえ子が生まれてもこのまま一生隊長と呼ばれかねない。納得するように二度頷いた彼女は、どこか緊張した面持ちで少し俯いた。一時期は十四郎さん、と名前で呼んでくれていたというのに、何を今更緊張など。
 思わずどうしたのかと声を掛ければ、枕元の灯りを映した瞳が僅かに揺れる。

「隊長のお嫁さんにしていただいたんだと…なんだか今更、実感してしまって」

 緊張しました、と零した横顔が、ちらとその目線だけを十四郎へ向ける。一瞬かち合った視線は直ぐに彼女が手元へと落としたから離れた。名残をまばたきで十四郎は感じながら、その息を潜めた面持ちにどうして今更、とは言えなかった。
 隊長、と呼ばれ慣れた彼女の声は耳の奥で柔らかく残る。妙なものだ、何千何万と呼ばれたはずの言葉に今でも、まるで水面へ水滴が落ち、波紋が広がるかのような微かで確実な波立ちを感じてしまうとは。

 

(2021.11.11)