移ろい

おはなし

移ろい

 

「おめでとう」

 目の前の男へ、手にした猪口を差し出すようにすれば、僅かに目線を下げ、こつんと器同士がぶつかった。軽い音を立てた後に一息に飲み干し喉越しを楽しみながら、いやあ、と息を吐き出す。
 目出度いね、と心からの言葉を口にすると浮竹はきまりが悪そうに、やはり目線を合わせないまま頷きもせずに器の中身をまた口にした。
 どうにもこの男、ひと月前に祝言を挙げてから、彼女の話となるとこの調子だ。良い歳をした男が、そう恥じらった所でなんら可愛らしさなど無いというのに。新婚とはいえ同居の期間は暫く長かったし、京楽からして見れば事実婚状態のようだったのだが。
 しかし二人だけでこうして酒を呑む機会はしばらくぶりだった。最後に酌み交わしたのは祝言の日で、親しい知人を招いた実に彼ららしい穏やかで和やかな席だった。白無垢を纏った千世の横で、頬の緩みきった紋付袴の旧友というのは、微笑ましいとともに、小指の爪先程の寂しさを覚えたものだ。

「どうだい、新婚生活は」
「…まあ、あまり変わらないよ」
「それだけかい?感想は」

 京楽が促すと、いや、と浮竹は曖昧な様子で口ごもる。折角二人きりの酒の席で、色々と深掘りしてやろうと意気揚々と雨乾堂へ訪れたというのに、何とも拍子抜けだ。もう少し酒でも呑ませてやれば、うっかり惚気の二つや三つ、口を滑らせやしないだろうか。
 結婚をしてひと月、一番楽しい時期に違いない。普通の男ならば、惚気が意図せず口をついて出そうなものだが、目の前の男からは頑として漏らすまいという意思を感じる。

「お前に祝われると、どうにも小っ恥ずかしくてな」
「ええ?なんでよ。瀞霊廷見回しても、ボクほど祝ってる男居ないと思うけど」
「…だからだよ。お前が一番俺を知ってるから、どうにもバツが悪い」

 ようやくまともに口を開いた浮竹は、そう言って頬を掻く。
 何を今更。京楽は笑うと、手元の器を再び酒で満たした。何とも中年男性の心理というのは時に難解だ。積み上がった感情の澱が、過ごした時の長さだけ複雑に色を重ねる。それは、妙齢の女性の奥ゆかしさよりも難儀に感じることがある。
 勿論それは彼だけではない、長く時を過ごすほど、出会いと別れを繰り返す程に、知らず識らず心奥に僅かずつ澱みは溜まる。それを老いというのだろう。歳を取ったと、その伏した目を見ながら思う。しかしお互い様か。節くれた指先へと、ふと目線を落とした。

「まあ、浮竹のあんな事もこんな事も知ってるからねえ」
千世に妙な事を吹き込んでくれるなよ」
「別に知られて困るような過去は無いじゃない」
「…いや…色々、聞かせてただろう、千世との事を」

 ああ、と京楽は笑った。はじめは彼女から純粋に向けられる憧憬、やがて超えた思慕の感情に彼が揺さぶられるとは思いもよらなかった。この歳を迎え、まだずっと若い彼女からの純一無雑な慕情を受けて、浮竹は戸惑いながらも、しかし徐々に確実に感情が形を変えてゆく様というのは、男女の妙を実によく感じたものだ。
 そうして惹かれ想いを擦り合わせ、唯一の人生の伴侶として彼女を迎え入れる決断と覚悟は、そう易いもので無かったはずだった。それは彼の境遇をもっても、彼女のその先の長い未来を思っても。
 彼がどう彼女の未来を思い、二人の時を重ねる事にしたかは知らない。京楽も知らぬ紆余曲折があったには違いないが、浮竹は多くを語らないから、敢えて深く尋ねることはない。二人を良く知る他人としては、移ろう時が許す限り、その歩幅を合わせ歩めることをただ願うだけだ。

「照れくささにも早く慣れて、じゃあ今度は新婚の惚気の一つや二つ聞かせなさいよ」
「…どうして聞かせなきゃならん」
「結婚するまで散々色々面倒見てあげたんだから、結果報告をしなさいって事。子供の予定は?」
「そ…それはそれ、これはこれだ。惚気なんて、聞かせるわけ無い」

 間髪をいれず答えた彼の眉間にはわざとらしく皺が寄っているが、残念ながら口元の緩みは抑えきれていない。口は目ほどにものを言うのだ。そうかい、と眉をハの字にさせて笑って頷けば、浮竹は誤魔化すように徳利を手にして酒を注いだ。

 

(2021.11.10)