曖昧

おはなし

曖昧

 

 何が変わった、という事は無かった。手間のかかる一通りの手続きを終え承認を得て、祝言を挙げた。戸籍上では確かに彼の妻となったはずだった。今まで名乗っていた日南田の姓を浮竹へと改め、本来であれば浮竹副隊長と、そう呼ばれても可笑しくはない。
 だが、それではややこしい事この上ないし、何よりそう呼ばれる事には一生掛かっても慣れそうにはないから、今まで通り隊の者達には日南田副隊長と呼ばれている。だから、何が変わったという事は無いのだ。
 しかし正式な書類上では、千世の名前の前には浮竹とそう表記されていて、その文字の並びを見るとどうにも未だ慣れず、心臓が跳ねる。ようやく目に見えた彼との繋がりを得た事が嬉しいのと、そして足の裏をくすぐられるようにこそばゆかった。

千世、おはよう」
「は、はい。おはようございます」

 洗面所で鏡を眺めながらぼうっとしていれば、ひょいと顔を覗かせた十四郎に千世ははっとその表情を向けた。
 寮の自分の部屋を引き払い、彼の屋敷へと越して数日経つ。まだ籍を入れる前であっても、ひと月の半分ほどは滞在していたほどであったから、特別新鮮な何かがあるわけではない。
 勿論、紙面上の手続きを終えただけで突如として何かが変わるとは分かっていたが、だが、案外結婚とはそういうものなのだろうかと思ったのだ。漠然とした夢を見ていたといえば、そうかもしれない。
 まさか期待はずれ、と思っている訳でもないのだ。ただ、自分の人生において大きな転機であったに違いないのに、それにしては案外ひっそりとしていると思った。

「朝から浮かない顔じゃないか?」
「え!?い、いえ……そんな事は」
「俺が暫く戸の隙間から見ていた事、気づかなかっただろう」

 えっ、と千世は彼の言葉にひゅっと息を止めた。そこそこ長い間ぼうっとしていた自覚はあったから、何か妙な独り言でも言っていないかと不安になったのだ。
 それにしても、その存在と視線にすっかり気づかないで居たというのは我ながら珍しい。彼の気配には人一倍敏感に出来ているはずだと言うのに。ただぼうっとしていただけで、まさか自分の顔に見惚れていたとか、そういう訳ではないのだともごもご言い訳をすると、十四郎は笑った。

「分かってるよ。…だが慣れない生活になって、疲れが溜まっているんじゃないかと心配でね」
「いえ、そんな事は…今までだって、このお屋敷にはよく寝泊まりさせていただいてましたし」

 慣れないなんて事は、と千世は独り納得するように何度か頷いた。そう、慣れないなんて事は何も無い。殆どは今まで通りで、特に変わった事といえば苗字くらいなものだ。それ以外は、今までと特に変わらない。皮膚も肉も、心も。
 たが、彼からしてみれば慣れない生活のように見えるのだろうか。彼からしてみれば、大きく何かが変わったように見えるのだろうか。
 結婚とは、その言葉ばかり重いというのに、実体がまるでない。当たり前だ、いわば書類上の手続きだけで繋がった他人同士であって、親子や兄弟のように血を分けた間柄ではない。分かっている。
 だから妙で仕方がないのだ。どうして今、同じ家で過ごしているのか。誰よりも愛しい相手である事には違いないが、しかし今当たり前のように共に食事をして、寝て起きて、歯を磨く。それが妙だった。籍を入れる前と同じ生活だというのに、何も変わらないというのに、だからこそ妙だった。変わっていないのに、変わっていた。
 何か千世の中で、綿菓子のような柔らかい靄のようなものに、初めて出会う感情が包まれている。だがいくら指を伸ばしても、その中心のしこりに触れることは叶わない。いつか瓦解するのだろうか。その胸の内側で崩れ、流れ出すのだろうか。
 だがそれはきっと、いつの間にかに訪れているのだろう。気づかぬうちに、ばらばらと古い家の外壁が剥がれ落ちるように細やかに。そして当たり前のようにまっさらとなった後に知るのだ。

千世?やっぱり、疲れているんじゃないか」

 よく眠れて居ないんじゃないか、枕を変えようか。不安気な彼の眼差しに、千世は慌てて大丈夫ですと首を横に振って答えた。
 そうかい、と少し微笑み歯を磨き始めた彼を見上げる。少し眠そうな目をした彼のその顎には、ちくちくとした髭が僅かに頭を出していた。

 

(2021.11.08)