無防備な幸福論-2

2021年10月31日
おはなし

 

 終業の鐘が鳴って暫く、手元の書類をばらばらと確認する。昨日はまるで逃げ帰るように早々に上がってしまった分、今日に皺寄せされていたのだが、思っていたよりも早めに済ます事が出来た。
 紙の端に印を押し、ふうと軽く息を掛けて乾かすと、纏めた紙を机の中央へ置き文鎮代わりに帳面を載せる。隊舎に残りたければいくらでも掘り出せる仕事はあるが、無理に残業をしたいという訳でもない。
 昨日に引き続いて、というよりかこの所暫く、兎に角ぼうっとして仕方がない。仕事が疎かになるほどまででは無いが、効率に関しては著しく落ちているに違い無かった。原因は我ながら呆れたくなるほど個人的な雑念だという事は明らかで、はっと我に返る度に呆れていた。
 時間が解決してくれるのを待つ他ないのだろうと思う。いや解決というよりも、この感情の鮮度が落ちるのを待つと言う方が正しいような気もする。何れにしろ今日は早めに帰ろうと、手荷物を軽く纏め立ち上がりそのまま部屋の灯りを消した。
 今日浮竹とは書類を昼間に届けた際に顔を合わせたくらいで、あまり大した会話を交わしていない。昨日の誘いを断ってしまった事を改めて謝ろうかとも思ったが、蒸し返すのもどこか憚られた。
 また誘われたらどうしようかと思ったのだが、しかし何故そう逃げようとしているのか自分でも良く分からない。彼と過ごす時間は自分にとって何よりも大切な筈が、居た堪れない気になってしまうのは、やはり自分の幼さ故なのだろうと項垂れたくなるというものだ。
 今日は気が紛れるかと、書店へ向かおうかと思っていた。一人で過ごしていても雑念で頭が埋め尽くされるばかりで、たまったものではない。何か小説にでも目を通していれば多少は紛れるだろうと思ったのだ。
 金曜日という事もあり賑やかになってゆく通りを、人の影を避けながら進む。縫うように暫く自然と足を早めていれば、突然その背から声を掛けられ立ち止まった。振り返れば、よ、と手を上げたその姿は僅かに口角を上げる。

日南田も帰りか」
「うん。檜佐木君珍しいね、こんな所で」
「これから呑みに誘われてんだよ。暇ならお前もどうだ。斑目と、綾瀬川と…」

 良い、良いと千世は首を横に振る。その面々の中、まともに言葉を発せる気もしなければこのどんよりとしたまま気乗りしない。
 まあそうだよな、と察して頷く檜佐木は千世の歩幅に合わせるようにその隣で歩を進め始めた。

「なんか用事あんのか」
「いや、特に無いんだけど…本屋に行こうかなと思って」

 本屋?と檜佐木は眉を上げる。金曜の夜に一人寂しく何をしてるのかとでも言いたげだが、放っておいてくれとでも返したい。だが、週末の夜に一人恋愛の指南書を探しに向かっている姿というのは、実に物悲しいものがある。
 共に過ごす相手が居ない訳では無いというのに、彼との過ごし方が分からなくなって居るのだから情けない。

「檜佐木君って、女の子と付き合ったことあるよね?」
「……は…何でそんな事聞くんだよ。急に」
「いや……世間話。話題提供」

 少し眉をひそめた彼に、千世は適当に付け加えた。そういえば彼はどうだっただろうかと、あまり深く考えて発した言葉では無かったのだが、彼からしてみれば唐突だったに違いない。誤魔化しきれるかと思い黙っていれば、何でだよ、と彼はもう一度繰り返す。
 妙なことを口走らなければ良かったと、今更後悔した所で遅い。じっと疑うような視線を向ける彼からわざとらしく顔を逸していたものの、その気まずさに耐えかねた千世は、俯いたまま口を開く。

「いや、ええっと…最近、…知り合いに恋人が出来たみたいで…」
「…知り合い?隊の奴か?」
「まあ、それは何でも良いんだけど…」
「それがどうしたんだよ。別に良いんじゃねえか、隊内恋愛は禁止じゃねえし」

 適当に理由を答えれば引き下がるかと思ったのだが、妙に食いつきが良い事に焦った。話の続きを促すような彼の視線を感じるが、これ以上適当な事を返して誤魔化し続けることにも限界がある。もとより、嘘を吐くのはあまり得意ではない。
 気づかないふりをして視線は正面を向けたまま僅かに歩を進める速度を上げれば、間もなく目当ての書店が目に入りほっと一息ついた。じゃあ私は此処で、と手をひらひらと振りそそくさ逃げるように背を向けたが、まさか腕をがっしりと掴まれ思わずぎょっとして振り返る。

「待てよ日南田、その話気になるじゃねえか」
「な、なに!?気になる要素あった!?」
「お前からそういう話聞くの、珍しいし。なんか、興味ある」
「檜佐木君も、何というか…珍しいね…」

 妙な話題を振ってしまったものだと反省する。まさか興味を持たれるとも思っていなかった。何時ものように、へえ、と一言低く呟いて終わるものだとばかり思っていたから動揺した。
 彼は少し辺りを見回すと、近くの喫茶店を顎で指す。どうやら話を聞かせろという事らしい。そこまで興味を持つ事かと千世はまたぎょっとしながら、知り合いの話だと念を押した。まさか千世の話だと勘違いをしているのではないかと思ったが、そういう訳では無いらしい。
 先約である筈の呑み会ならば、もうとっくに出来上がってるだろうからいつ顔を出した所で変わらないと言う彼は、一人つかつかと店の方へ向かい、暇なんだろと振り返って無愛想に言う。確かに暇には違いないが、指摘されるというのは中々に癪であった。

「呑み会めんどくさいだけじゃないの」
「そ…ういう訳じゃねえけど、良い気分になったくらいの時間に顔出すのが丁度いいんだよ」
「そっちの方が大変そうに思えるけど…」

 これ以上渋るのも面倒になり、結局千世は彼に先導され喫茶店の扉をくぐった。そう長くなる話ではあるまい。カラカラと鈴が鳴り中へ入ると、木目調の落ち着いた雰囲気の店内が迎える。
 数十年前に気づいたら出来ていた現世風の喫茶店だ。千世は和風の茶屋の方が好みだったから足を運んだことは無かったが、彼は現世にやけに造詣が深いからきっとよく訪れているのだろう。
 席につくやいなや、で、と話を早速促す。月一度の瀞霊廷通信の発行の為によく駆け回っている姿を見るが、記者精神のようなものが彼の身に染みてしまっているのか分からない。珍しく目を輝かせる彼に、千世は気まずく目を逸した。

「で、と言われてもな…」
「何か聞きたい事でもあんのか」

 聞きたいこと、と千世は頭の中で繰り返す。確かに唐突な話題ともなればそう感じるのも当たり前だろう。
 机上へ運ばれた器に注がれた深紅色の紅茶が、ゆらりと立ち昇る湯気と共に良い香りを漂わせた。

「その子、あんまりその…男の人と付き合った経験が、無いみたいで…」
「へえ。で、日南田がそいつの相談聞いてるって訳か」
「まあ…うーん…そうなのかな…」

 珍しいな、と檜佐木はまた感心したように頷く。千世が恋愛相談を受けることが珍しいと、そう言いたいのだろう。実際、今まで男性との交際経験は無かったのだから、彼の感じている感覚は間違いではない。
 でまかせで見え見えの嘘に流石に気付くのではないかと内心びくびくとしていたが、檜佐木は特に疑う素振りも見せず、なるほどなあ、と呑気に頷く。彼はその鋭い顔に似合わず案外素直なところがあったのだと、不思議と懐かしい気になっていた。
 この様子ならば、もう少しばかり探っても問題は無いだろうかと、紅茶を口に運びながら彼の顔を窺う。

「例えば、何をして二人で過ごすとかが分からないみたいなんだよね…緊張…するみたいで…」
「相手の男は?相手も初めての彼女なのか?」
「え?あー…どうだろ…多分、違うと思うけど…」

 そう答えながら、ぎくりとする。飛び跳ねる心拍に気づかれないよう、細く息を吐き出した。

「でも、何にそんな緊張してんだ、そいつ」
「えーっと…何だったかな、確か…初めての恋人だから、つまり男の人からしたら…そういう女の子って、どうなのかなって気にしてるんだよね…その子が」

 口に出しながら、自らの胸の中で煙のように漂っていたぼんやりとした不安が徐々に形作るようだった。自分の恋愛経験の未熟さについては己が一番理解している。自分にとっては初めての相手だが、彼にとってはきっとそうではないのだろうと、そう彼の過去にちらと想像を及ばせかけては掻き消した。
 恥ずかしいのだ、未熟さ故に失態を犯すのではないかと、そう思うとひとつ歩み寄る事が億劫になる。彼から幻滅されやしないかとそればかりを恐ろしく思っては、勝手に息をつまらせていた。
 何とも身勝手な、自分本意な悩みだろう。彼に思いを告げるまではただ、不毛な片恋と分かりながら、しかしそれですら楽しいと思っていたというのに。だがあの口付け以来、生々しく熱を持ってしまった。

「別に気にしねえよ、そんな事。本当に好きな奴なら尚更どうでもいい」
「…そうなんでしょうか」
「まあ、俺はって話だけど…大体そんなもんだろ」

 彼はあっけらかんと、さも下らないとでも言うかのように答えた。拍子抜けしたとともに、案外その程度なものかと、今まで蓄積させていた暈けた感情を思い返して千世は唸る。
 本人が吐き気を覚えるほど悩んでいる事であっても、当の本人にはそよ風の一つも吹いていない事がある。春の突風の後でも、存外桜の花びらが散らずしぶとく残っているように、その不安が取り越し苦労である事は少なくない。

「悩んで無駄な時間使ってんなら、その分を二人で過ごす時間に回せば良いのにな」
「…それは仰る通りなんですが…」
「男女っていうか、人間関係がまずそういうもんだろ。面と向かって話さねえと」

 ぐうの音も出ない程の正論に、千世は渋い顔をして頷いた。男女どころか通常の関係さえ結べていないとでも指摘されているようで、だが彼と二人きりの空間に耐えられない今の状況では仰る通りだと頷くしか無い。
 檜佐木の言葉を思い返せば、至ってごく当たり前のことでしかない。どうすれば良いかと頭を悩ませた所で、恋愛経験が皆無に等しい千世に正解が出る訳はないのだ。分かっていたのだが、どうしてもこういう話になると頭でっかちになってしまう。考えるより身体を動かす方が早いというのは、これまでの死神人生で散々味わって来た事だというのに。
 ありがとう、と固まった表情の誤魔化しついでに呟くと、彼は眉間に皺を寄せた。

「おう、ってか、礼は良いからちゃんとそいつに伝えろよ」
「…え?そいつって?」
「え?お前に相談してるってやつ…そういう話だっただろ」

 ああ、と千世は目を見開き慌てて頷く。すっかり最後にはそういう設定であった事が頭から抜け落ちていた。一瞬彼は違和感に疑問符を浮かべたように見えたが、彼の肝心な部分での鈍感さに感謝するべきか、大してそれ以上深堀りされることもなかった。
 器の下で薄く溜まった紅茶見下ろしながら、今頃浮竹は何をして過ごしているのかとふとその姿を思い浮かべる。水辺にひっそり佇む雨乾堂は、夜の闇の中ぼんやりと淡い灯りをいつも漏らしている。彼は今その静けさに包まれながら、何を思い過ごしているのだろうか。
 その優しく、熱を持った眼差しを思い返しながら、会いたいと、沸々と胸に湧き出した思いは気付けば手に余る程に肥大していた。
 あんまりにぼうっとしていたように見えたのか、おい、と声を掛けられ、びくりと思わず飛び跳ね膝を机の裏に打ち付ける。ガタン、と大きな音を立てた途端に千世はそのまま勢いづけて立ち上がった。

「ごめん、私ちょっと用事思い出したから隊舎に帰る」
「ああ、そうなのか?大変だな…」

 胸元から取り出した財布の小銭を適当に机に置くと、そのまま不思議そうな顔をした彼を残して店を出た。店に入った時よりも数倍は賑わっている繁華街の、人の波に逆らい進むほどに、胸が痛いほど心臓は脈打ち鼓動を打ち鳴らす。
 逃げ出すことは何より容易いことだ。詰まるほどの息苦しさよりも、今はただ会いたいのだとその思いだけを掬い上げ、すっと小さく空気を吸い込んだ。

 

2021/10/31