無防備な幸福論-1

2021年10月26日
おはなし

 

 愛しいと思うものに触れたいと思うのは、ごくごく自然な感情なのだろうと思う。例えば美しくその花弁を綻ばせる花だったり、隊舎に時折現れる愛らしい猫であったり、心が穏やかに凪ぐような感覚を覚えるものに触れたいと思うのは、きっと感情を持った生物として当たり前なのだと思う。
 もちろんそれは人に対しても同じなのだろう。瀞霊廷内で見かける仲睦まじい男女や、それこそ夫婦などはよく肩の触れ合うほどの距離で歩き、その手を握り合っている姿もある。愛しく思う男女同士が自然と触れ合うのは、きっと当たり前の事なのだろう。
 千世は恥ずかしながら、いや、それが恥ずかしいことなのかは個々の価値観によるものであるが、男女の経験というものがない。何しろ恋という感情を覚えたのも最近のことだった。
 いや、恋と認識した事が最近なのであって、それまでは憧れとか、敬愛とかそういう言葉を頭で並べ立て納得をしていたのだ。きっと恋の感情自体はそれより前から、つまり、浮竹と初めて出会ったあの日から始まっていたのだろうと思う。今思えばの話だ。
 初めて恋という感情を意識してしまったのは、席官へ上がって間もない頃だっただろうか。あの瞬間の、心臓が縮み上がるような感覚を今でも覚えている。認めたくないとも思ったものだ。それまで彼に感じていたものは彼へ対しての尊敬、彼の為、彼が束ねるこの隊のためならば命など惜しくないと、それは何の混じり気も無い決意だと思っていた。
 まさかその決意が下らない、と言えばそれまでだが、邪で浮ついた感情であったことに気付いた時、千世は動揺したものだった。
 それまで恋とは千世にとって縁遠い感情ではあったが、回りにはありふれたものだった。院生時代はよく学級内で誰が誰と恋人同士だの、先輩に告白しただのと、そういう浮ついた話を聞く機会は多かった。それは護廷十三隊の一員となってもあまり変わらず、隊内恋愛だったり、隊を超えての宴会などは少なくはなかったから、その中で良い仲となる様子を見たりした。
 千世も、今まで何度か異性に言い寄られた事は少なからずある。きっと好意をもって近づいてくれているのだろうと、そう明らかに分かる相手だ。熱心に休日の外出に誘われたり、食事に誘われる事もあったがそのどれも乗り気になれずやんわりと断っていた。
 友人としての付き合いならばまだしも、異性として意識をされながら誘い出される状況がどうにも苦手だったのだ。それに、自分はいくらその感情を向けられた所で、応えられないのだと分かっていたからだ。

「どうした、千世
「あ…す、…すみません」

 はっと千世は顔を上げ、彼の向ける心配そうな表情に慌てて謝った。浮竹から隊首会の報告を聞いていたのだが、途中からすっかり記憶が無い。確かに彼の声を耳に入れていた筈だったが、ついぼうっと他の事を考えていた。
 すみません、ともう一度頭を下げ、手元の資料へ再び目を通す。必死に頭を業務へと切り替えながら、再び彼の言葉に耳を傾ける。仕事中に何を考えているのだと、自分自身を頭の中叱りつけた。
 ここ数日、著しく集中力に欠けていると感じている。それは恐らく、彼から見ても明らかに違いない。執務室で紙の山と睨み合いながら、ある程度までは普段通りに集中できるのだが、ふとした時にあの光景が蘇る。
 彼の唇が触れたあの光景である。まともな恋愛経験が無い千世は手を繋ぐことは勿論、口づけの経験などまさか有る訳がない。あの出来事はいわば事故であった。心の準備などまるで出来ていないまま、場の空気に流された。
 それを望まなかったわけではない、勿論。彼に思いが通じてしまったあの日以来、きっといつかは肌に触れたり、触れられたりという事が起こるのだろうとは思っていた。だが、ふと想像に及ぼうとするとそこでぷつりと途切れるのだ。まるで通信が切断された伝令神機のように、何の音沙汰もなく。
 だから初めて唇へ触れられた時、まるで夢が現となったような異様な感覚に時が止まったようだった。今まで想像を及ばせようとしても、ぷつりと途切れていたその先に、手を伸ばしてしまった感覚だ。あの独特の甘ったるい空気に浸りながら、引き合うように重なった唇の触感を受け止めた。
 男女が何をして愛を育むとか、どう愛しさを伝え合うかということは知っている。勿論、今まで生きながらえてそこまで世間知らずの無垢な処女という訳では無い。それは物語や雑誌であったり、松本や友人との会話が知識の大元だ。どこを触れるとどうなるとか、どうすれば気持ちが良いのだとか、そんな赤裸々な話を酒の席で聞かされながら、一人赤面していたものだった。
 いつか自分にも訪れるのだろうかと、そうぼんやり考えていたものの、しかしその相手が彼になろうとはまさか思っていなかった。何より近いのに誰よりも遠い彼に対して、思えるはずが無かったのだった。この恋は一人で飲み込んで、消えて終わるものだと思っていた。

「具合でも悪いのか」
「えっ!?い、いえ…そんな事は」
「そうかい?ここ数日、顔色が優れないように見えたから心配をしていたんだよ」

 大丈夫です、と千世は軽く頭を下げる。ようやく彼からの報告が終わり、内心ほっとしていたところだというのに、痛いところを突かれている。具合が悪いのではない、集中力が続かない頭を憂いているのだ。そしてその原因は紛れもなく目の前の浮竹である。
 初めて経験した口づけは、想像通りの感触だった。唇同士が触れ合う、柔らかいとも生温いとも言える感触。とうとう触れてしまったのだと、唐突に訪れたその瞬間に千世はただ呆然と受け止めていた。
 彼の顔が間近に迫り、そして触れ、唇の柔らかな肉感を味わいながら途端に全身に力がまるで入らず、液体にでもなったかのようにぐったりとする他無かった事には驚いた。
 溶かされる、とでも言ったほうが良いのだろう。塞がれた唇は柔らかく交わり、やがて甘く噛み付くように触れた。どう返せば良いのか分からず身を任せていれば、彼が促すように舌を伸ばす。あのぬるりと絡みつくような官能を今でも鮮明に思い出す。
 あの日は互いに夢中で唇を重ねていた。呼吸も満足にしないまま、互いの口内を舌で弄り合い、蕩けた視線を交わらせた。彼のその柔和な笑みの下に存在する熱情を感じて、強く打ち鳴らされる心拍は収まらず、最後の方には息が足らず頭痛がした。
 今目の前で、出会った頃と変わらない優しい笑みを浮かべる彼の舌が、この唇を舐め取ったのだと、思い出したくなくとも勝手に蘇り頭の中で糸がぐしゃりとこんがらがる。あの熱量を秘めているようには思えないほど柔らかく微笑むその口元が、少しだけ千世は憎かった。

「隊長、ありがとうございました。ご指示の書類は今週中に纏めます」
「ありがとう。悪いな、忙しい中」

 このまま、この場所に居た所で余計に記憶が蘇るだけだ。千世は手元の資料を軽く纏め、封筒へと収める。座布団から立ち上がったその時、千世、と彼に呼び止められて咄嗟に動きを止めた。
 何ということ無い、ただ名前を呼ばれただけだというのに、みだりに心拍が上がりため息を吐きたくなる。今までだって何度も呼ばれた自分の名前だというのに、これほどまでに異様な感情を覚えたことは無い。
 はい、と一拍置いて答えると、彼はその唇を小さく開く。

「今日の終業後なんだが、空いていないか」
「今日ですか」
「ああ…予定があるなら、構わないんだ」

 ぎくりと、途端に心臓が凝り固まるような感覚だ。彼の考えている事が一体何であるか、千世には分からない。ただ、少しだけ緊張したぴりりとした空気が漂い、千世もついそれにつられた。一瞬息を止め、必死で頭を回転させる。
 ただ会話をしたいだけか。それとも、夕飯でもどうかと誘われるのだろうか。どうしてですか、とその誘いの理由を尋ねたいが、聞いてしまえば後戻り出来ない。いや、まさか取って食われる訳では無いだろう。しかし今の千世にとって、二人きりで過ごす時間というのは水の中で過ごすくらい息苦しい。
 今だって、必死で息を吸っている。業務中だからと何度も言い聞かせながらどうにか息をしているものの、終業の鐘が鳴ってしまったら分からない。仕事という言い訳も出来ない空間で二人で過ごす様子が想像できない千世は、すみません、と頭を下げた。

「すみません…先に予定が、入ってしまっていて…」
「…そうか、急で悪かった。また日を改めるよ」

 僅かに硬い表情で笑った彼を見て、胸に何とも言い得ぬ苦さが広がった。違う、違う。そんな顔をさせたいが為、断ったわけではないというのに。唇を触れ合わせたあの光景が頭にこびりついて離れない今、二人で過ごす事が耐えられないように思えたのだ。
 もしかしてまた、とそう期待が過るのが嫌だ。今まで彼の視界に入るだけ、言葉を交わせるだけで幸福だったというのに、触れて欲しいだなんて、そう身勝手に傲慢に肥大化する思いが醜いと感じる。
 くるりと文机へ向いた彼の背に頭を下げ、雨乾堂を出る。渡り廊下を進みながら後ろ髪を引かれるような思いだった。おかしな話だ、あの二人きりの空間の息の詰まるような苦しさと、緊張に耐えられないと思いながらも、しかし姿が見えなくなれば恋しい。その矛盾を重ねる感情と思考に、病気か、とすら思う。
 執務室へと戻った千世は、襖を閉めるとようやく深く息を吐き出した。
 せめて何の用かと尋ねておけばよかっただろうか。恋人とはなったものの、二人でそれらしい時間を過ごしたことはあまり無い。何しろ誰かに見られる訳にはいかない、場所も時間も限られる。もしかしたならば、今日の誘いはそんな隙間を埋めるようなものだったのかも知れない。
 適当な嘘を吐いてしまった。特に予定など無く、帰ったらゆっくり風呂にでも浸かり早めに就寝しようかと思っていたくらい暇だったというのに。何をしているのだ、と己の咄嗟の言動を早くも後悔した。
 どれもこれも、自分の経験の浅さ故だ。今まで恋愛に対してあまりに無頓着になりすぎたのだ。確かに彼に対しての感情は恋であったが、叶う筈がないと分かっていた恋だ。つまりそれは恋愛経験などに数えられるはず無く、だが、かといって他の男性に興味が向くはずもなかった。
 しかし、彼と思いが通じて恋人となった今、実に後悔している。思いが通じ合った後、どうその仲を深めてゆけば良いのかも分からないし、煮詰まり過ぎた挙げ句、今は普通の会話すらまともに出来るか怪しい。
 まずい、と思わず千世は唸る。考えれば考えるほど、この状況が悪化しているように感じる。しかも勝手に、一人で。執務室の長椅子に腰を下ろし、落ち着きを取り戻すように急須の中の冷めた茶を湯呑へと注ぐ。
 湯呑の中身を口に含むと、濃く苦い緑茶のいがいがとした液体が流れ込み思わずむせた。それはそうだ、この急須は雨乾堂へ行く前に使用して、それから今まで放置していたのだ。ひとしきり咳を終えると、はあ、とまた深い息を吐く。
 湯呑の中の淀んだ深緑を眺めながら、少し似ていると思った。この急須の中でふやけきった茶葉から長い時間を掛けて滲み出て、濃ゆく濁った、飲めたものではない苦い茶だ。今自分の中に渦巻く感情も、この茶に似て飲み込めたものではない。
 湯呑を握りしめたまま、時計の針がかちりと角度を変えた音を聞いていた。

2021/10/26