留守

おはなし

 

 湯呑へ注いだ茶を差し出すと、ゆったり胡座をかいた男は悪いねえ、と笑った。
 今日は休日であったが、一日これと言った予定もない。部屋の掃除や庭の手入れでもして過ごそうと思っていたのだが、今朝になって浮竹から、込み入った話があり昼過ぎに来客で居間を使いたいのだと伝えられた。
 彼の自宅なのだから千世に許可を取る必要など無いというのに、尋ねられたからついどうぞ、と答えた。ならば今日は寮にでも帰ろうかと思っていたのだが、来客は京楽だからと彼は付け加え、つまりそれは、気にせず屋敷に居て良いという意味合いのようだった。
 しかしそう言われた所で、あら良いんですか、とはならない。いくら相手が旧友の京楽といっても、込み入った話と敢えて言うならば、それは恐らく千世が耳にするべきことでないのだろう。
 居間から離れた書斎にでも移動すれば少なくとも会話は聞こえ無いだろうが、家に第三者が居る事で気が散るのも申し訳ない。だから寮に帰りますと、そう他意もなく言ったのだが、何故か彼は納得がいかない様子で首を横に振った。
 浮竹のことだから、千世がわざわざ寮に帰るのは面倒だろうと、そう気を利かせてくれたのかも知れない。だが別に、此処から寮が特別遠いというわけでも無ければ何も面倒な事は無い。
 お邪魔になりますからと一度食い下がってみたものの、浮竹が眉を曲げて困ったようにするから、それ以上は千世も口を噤んで頷いた。結果的に、彼が帰るよりも前に京楽が尋ねてきてしまったから、千世が留守を預かっていたことは良かったのだが。
 だが、留守番が理由だったのならば、そうはっきりと言ってくれれば良かったというのに。

「予定より早く着いちゃったから、千世ちゃんが居てくれて助かったよ。…でも、何で死覇装なんだい…休日じゃあないの」
「京楽隊長がいらっしゃるので、一応と思って…」
「気なんて遣わなくて良いのに。なんだか隊舎と変わんないよ」

 京楽はそう言って呆れたように笑う。そう指摘されてみれば確かに、和室に茶に死覇装の副官、と、彼の言う通りあまり隊舎と大差ない光景ではあった。
 彼は寛いだ様子で部屋をぐるりと見回す。主にこの居間では食事を取るくらいで、二人で過ごすのは殆ど襖の向こうの寝室としている部屋だった。
 だから特に見回された所で不都合は無いのだが、いや、寝室であっても、別に見られて困るようなものはないのだが、どこか気恥ずかしく感じてしまうのは、いつも二人で過ごす時間を垣間見られるような気がするからだろうか。
 部屋を見回される中じっと黙っている事が気まずく、手持ち無沙汰にまだ少しも減っていない湯呑へと急須の茶を注ぐ。千世のそわそわとした様子に気付いた京楽はごめんごめんと笑い、湯呑に手を付けるとようやく口へ運んだ。

「浮竹、前は月に一度も此処に帰ってなかったんじゃない」
「そうだと思います…だから私も以前は、隊長は雨乾堂がご自宅なんだと長く思ってました」
「それが今は、雨乾堂で寝泊まりする方が珍しいってね。最近じゃあ、呑み会に顔出しても、直ぐ帰っちゃうし」

 言われてみれば、と千世は頷く。時々誰彼の呑み会に顔を出すとかと聞くことはあっても、帰りがやけに早い。気付いては居たのが、体調を見て早めに切り上げて来ているだけなのだろうと、別段不思議にも感じていなかった。しかし京楽の口ぶりでは、どうやらここ最近に限った話のようである。
 もともと酒は好きなようであったし、呑み会という場が苦手な性格には見えない。ならばどうしてそう毎度早めに切り上げ早々に帰宅するのかと、今更になって疑問が湧き始めるというものだ。
 だが考えてみれば、呑み会ばかりでは無かった。以前であれば、仕事を終えた後でも暫く雨乾堂や隊首執務室で過ごす事が多いはずだった。それこそ京楽の言う通り寝泊まりなど当たり前であって、浮竹自身も私邸にはまるで帰っていないのだと、まだ恋人となる前、そう笑って言っていた事を覚えている。
 しかし今はと言えば仕事を終えた後恐らく、直ぐこの屋敷へ戻る。直ぐといっても、大抵千世が残務処理を終えた後の時間だから、決して早いという訳ではないのだが。だが少なくとも、夜は必ず屋敷で過ごしていた。
 家が好きなのだろうか、などとぼんやり千世は思う。元は、二人が人の目を気にせず過ごす事の出来る場所としてこの屋敷で過ごし始めたのだが、やがて居心地の良さに気付いてしまったというのならば納得だ。
 千世もこの場所は気に入っていた。勿論人目を気にしなくて良い事もあるが、何より、この家の何処に居ようと感じる彼の気配が好きだった。こんな事、まさか彼に言えるはずはない。まだ中身の少し残る湯呑や、洗濯場に置かれた衣服、開きぱなしの書籍を見ては、言い得ぬ心地よさを感じるのだった。

千世ちゃんの居る家に、早く帰りたくてしょうがないんだろうけどね」

 えっ、と千世は京楽の言葉に息を止める。ぼんやり思いを巡らせていた中突然耳へ流れ込んだ衝撃に、彼の顔を目を丸くしてじっと見つめる。

「そういう事じゃないの。男が家に帰りたい理由なんて、それしか無いんだから」

 恐らく間抜けな顔をしているであろう千世に、京楽はまた呆れて言う。
 ああ、そうかと千世は、家が好きなんだろうなんてピンぼけした答えを導き出そうとした事が途端に恥ずかしく、そして同時に京楽の言葉に納得してしまった事が我ながら図々しく思え、耳の先まで血が巡る感覚に縮こまる。

「むしろどうして毎日早く帰ってくるもんだと思ってたの」
「それは、何というか…今まで特別、意識していなかったもので…」
「意識も何も無いと思うけどねえ」

 彼が当たり前のように毎日帰り、ただいまと笑うものだから、それを特別なことだと認識をしていなかった。いやきっと、確かに彼にとっても何ら特別な事でもなかったのだろう。
 もし京楽の言う通りであったというのならば、それは千世にだって同じことだった。彼の存在が、気配がこの場所にたゆたい、千世の過ごす時間と、呼吸と交じる。それをまるで護るように佇むこの場所を、まさか大切に思わない筈がない。
 自らにとってこの場所に居る意味、過ごす意味というものは、この部屋で過ごす時間が長くなるほどに何ら変哲のない日常として染み込んでいた。過去の自分と並べてみれば大きく変化している事に気付くが、しかしそれは移り変わる季節のように自然な時間の堆積であった。
 彼にとってもそれは同じで、特筆すべきことはない、穏やかで淀みない日常だった。

「でも今日は、千世ちゃんの事だからボクたちに気遣って此処に居ないもんだと思ってたよ」
「ああ……はい、それは…そのつもりだったんですが…」

 千世が尻すぼみにそう呟けば、察しの良い京楽のことだから、そうかい、とひとつ笑って頷いた。
 今朝の彼の不服そうな表情が何ら他意もなく、ただ帰らないでくれと、それはまるで子供の駄々こねと大差なかった。いやそれは流石に言いすぎかとも思うが、だが、まさかそれほどまでに何の混じり気もない感情だとは思わない。
 きっと間もなく帰る姿を浮かべながら、いつまでも安易に揺さぶられる感情を少しは恨めしく思った。

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おだいばこより
京楽さんが出てくる話でおまかせ

 

2021/10/13