安息日

おはなし

 

「隊長、なんだか生き生きしてませんか」

 そうかな、と目を丸くして答える浮竹に、千世は頷きながら膝においた盆の上で湯気を立てる溶き卵の掛かった粥を掬い、少し冷ました後に口に運んだ。鰹出汁がよく利いていて、良い香りが鼻に抜ける。柔らかくふやけた白米は、特に噛む必要もなく喉へ流れ込んだ。
 おいしい、と呟けば彼は嬉しそうに微笑んで、沢山食べなさいとまるで育ち盛りの子を持つ母親のように促した。
 折角の休日だというのに申し訳ないと思いながら、しかし千世としてはこの状況を回避しようとはしていたのだと、昨晩のことを熱を持つ頭の中、思い返していた。

 明らかな悪寒を感じたのは昨晩、風呂から出た後の事だった。熱い湯で芯まで温まったはずがどうにも冷えるように思えて仕方がなく、風呂上がりの肌はまだ熱を持っているというのに毛布を頭まで被りたいほどだった。
 間違いなくこれが風邪を引く前兆だというのは、長らくこの身体と付き合っていればよく分かる。この頃は天気の良い昼であっても、日陰は涼しいくらいに温度が落ちてきていたというのに、まだひざ掛けの一枚もかけず執務室で過ごしていた。冷えると感じながらも、押入れに仕舞っていたものを取り出すのが億劫でつい我慢してしまっていたのだが、今更になってその無精を後悔をする。
 だから、もう寝間着を着て布団に潜り込む直前だというのに寮への帰り支度をはじめていれば浮竹に止められた。もう遅いから、帰るなら明日の朝にしなさいと、そう引き止める彼に事情を説明するが、むしろ何故帰るのかと不思議そうにするのだった。
 そう彼が気にせずとも、千世としては大問題だ。万が一風邪をうつしでもしたら、元々病弱な彼のことだからまた丸一ヶ月隊舎に顔を出せないという事にもなりかねない。近頃は調子も良いようで長期療養に入ることは無くなったが、しかしこれがぶり返す切欠になりでもすれば切腹ものである。
 だから必死で帰ると、畳んでいた死覇装を広げながら言ったのだが、彼はその手を制して明日にしなさいと、もう一度同じように諭すように言うのだ。
 もしかしたら、明日の朝になればすっかり良くなっているかも知れないよと、果たしてそれが心配しているものなのか、まさか、今から一人になるのが寂しいのか、などと思考を巡らせたが、答えが出る前に彼に抱え上げられ布団へと連れ戻された。
 柔らかな毛布と布団を二枚重ねで身体の上へ掛けられ、おやすみと額にひやりと彼の掌を感じてから意識を落とすまで、そう時間は掛からなかった。
 次に目を覚ましたのは、もう日がすっかり昇った頃だった。隣の布団はもうとっくに片付けられており、鼻をくすぐるよい香りがこの屋敷に満ちている。起き上がろうとしたものの、関節という関節に激痛が走りその上身体も重く、何より身体が熱い。熱いというのに、寒い。やっぱり風邪を引いたじゃないかと、そうぐったりと千世は再び布団に倒れた。
 やはり昨晩のうちに帰るべきだった。今更もうこの身体を引きずって帰る気力はない。せめて浮竹には暫く屋敷の外で過ごして欲しいと、謎の良い香りを吸い込みながら天井をぼうっと見上げていた。
 それから間もなく、たすき掛けをした浮竹がやけに意気揚々とした様子で襖を開いて現れた。隊長、と掠れた声で呼ぶと、彼はにこやかに笑う。

「今、粥を作っているから待ってなさい」
「お粥ですか…?」
「風邪には消化の良いものが一番。何千回と風邪を引いている俺が言うんだから、違いない」

 そうこころなしか誇らしげに言う浮竹を、まあ確かに違いないなと思いながらぼうっと目線だけで見ていれば目が合い、あ、と何か気づいたように彼が傍に寄った。
 起き上がる元気もないままじっと待っていれば、千世の顔の横でぐったりしていた手ぬぐいを手に取り、傍らに置いてあった桶に浸けてぎゅうと絞る。絞ったそれを、千世の額に置いた。途端にひやっと冷たい感覚が実に心地よく、自然と目を瞑る。
 この心地よさは知っている。確かまだ明け方の薄暗い部屋の中で、体温の上昇を感じて目を覚ました時だ。同じように、こうして冷たい手ぬぐいを額に乗せられたのだ。彼が様子に気づいて、面倒を見てくれたのだろう。

「すみません…やっぱり昨日寮へ帰ればよかったです」
「何言ってるんだ、その逆だ。引き止めてよかったよ。今日は一日俺が看ているから、ゆっくり休みなさい」

 そう言う浮竹はどこか張り切ったような様子に見えるのだ。それがまるで、甲斐甲斐しく面倒を見る事を楽しんでいるかのようで、だから彼が運んできた粥を口にしながらつい、生き生きしてませんかと、そう尋ねてしまった。
 いや、まさか人が熱を出して苦しんでいる様子を楽しんでいる訳は無いのだ。だが、いつもは看病される側が珍しく面倒を見る側となって、まるで恩返しとばかりに張り切られてどこか照れくさいような、申し訳ないような気になる。
 しかし、食事の様子をじっと横で見つめられるというのはどうにも居心地が悪い。茶を口にしようとすれば、手伝おうかと言うし、はじめなんて匙を手にして粥を口に運ばれそうになった。
 子供じゃないですから、とそう咄嗟に断ったものの、今思えば貴重な体験を味わっておけば良かったかとも思った。

「一緒にいると、うつっちゃいますよ」
「俺がいつもそう言っても、千世はずっと傍に居てくれるだろう」
「それは、私の身体が丈夫だからですよ…隊長は、ほら、一度調子を崩されると…」
「大丈夫、その様子ならうつるような風邪じゃない。咳は無いし、食欲はある。水分を取って、後は沢山眠れば、今日の夜には熱も下がるよ」

 千世が弱っているだけで、うつるような風邪ではないという事なのだろう。根拠はよく分からないが、彼に言われると、不思議とその通りになるのだろうという気がしてしまう。空になった小さな土鍋の前で、ごちそうさまでしたと手を合わせれば、直ぐに膝の上から盆は取り払われた。
 再び倒れ込むように仰向けになると、彼によって甲斐甲斐しく布団を掛け直され、また額にはひやりと心地よい濡れた手ぬぐいが乗った。ありがとうございますと、そう呟きながら途端に襲った眠気を歓迎するように千世は目を瞑る。
 次にはっきりと目が覚めたのはもう日が落ちた頃だった。身体を起こせば昼間のことが嘘のように軽く、部屋の隅の文机で手元の灯りを頼りに筆を走らせる背が見えた。布の擦れる音に気付いた彼が振り返り、目線がかち合う。

「隊長、すごいですね。本当に熱が下がったみたいです」
「言った通りだろう。俺も、伊達に身体が弱いだけじゃない」
「ありがとうございます、本当にご迷惑を…」

 傍らにある桶の縁に掛けられた二枚の手ぬぐいと、きっと切らさないようにしてくれていた陶器の水差し、湯呑が盆の上に乗っている。
 筆を置いた彼は、灯りを手にして千世の傍へ腰を下ろすとその額へと手を伸ばした。もうすっかり下がった体温を感じて、彼は満足げにひとつ頷く。
 身体が丈夫な方ではあったが、偶に体調を崩した時は一人あの広いとは言えない部屋でぐったり過ごすばかりだ。具合が悪い中たった一人で過ごす自室というのは心細くてただ耐えるばかりだったが、今日は見守られる居心地の良さで泥のように眠ってしまった。
 彼の言う通り、引き止められて良かったのかも知れないと、それは彼が被ったであろう迷惑を棚に上げて思う。そう、きっと折角の休日を看病に充てられて迷惑だったに違いないと、そう思うのだが。

「それにしても、熱が下がるのが早いな…若さか」
「何で、少し残念そうなんですか」
「いや、残念という訳じゃないんだが…頼られた事が、その…少し嬉しくてね」

 千世はぽかんと彼を見ると、少し気まずそうにさっと視線をずらした。は、と思い返せば、泥のように眠りながらも時折ふと意識が浮上し、水がほしいとか、熱いとか、意識朦朧と呻いていた記憶が蘇った。その度に彼が現れ、水を注いだ湯呑を手渡してくれたり、手ぬぐいをまた冷たいものに替えてくれていたのだった。
 ああ、そういう事かと千世は彼の生き生きとした様子を思い出し、と同時に、今まで出来る限り彼の迷惑にならぬようにと過ごしてきた日々を思い返す。なにも、頼っていないというつもりではなかったのだが、こうして目に見える形で頼ることになったのはあまり無い事かもしれない。
 まさか出てくるとは思わなかった答えに、千世は何と返せば良いか分からず固まっていたが、少ししてぐうと鳴った腹の音にあっと声を上げる。昼間の粥を食べて以来、水以外口にしていなかったのだから腹が減るのも当たり前だ。
 浮竹にも勿論聞こえていたのか、その間抜けな音にふっと笑う。

「うどんが食べたいです、柔らかく煮た…」

 千世がそうぼそぼそと言えば、任せなさいと、その表情はやはり生き生きと輝いている。先程までは不思議で仕方がなかったが、その心情を知った今、途端に湧き出す生温い感情が胸を満たし、自然と笑みが溢れた。

 

 


おだいばこより
風邪を引いた主人公を看病する浮竹さん

 

2021/10/08