相知る

おはなし

 

 珍しく一杯どうかと彼女を誘った。風呂を出た後、夜風が心地よく暫く縁側に腰を掛けて髪を乾かしていたのだが、先日来客からの手土産で戴いた日本酒があったことを思い出したのだ。
 寝具の用意をはじめていた彼女を呼び止め誘えば少し考えたようにしているから、少し押してみれば、一杯だけなら、と頷いた。今日は雲も厚く月も無いが、しかし暗い分虫の音によく耳を澄ませることが出来る良い夜だった。
 行灯のぼんやりとした灯りに照らされながら、徳利を手にして互いの猪口に注ぐ。小さな器になみなみと注がれたその水面は、鈍く僅かな橙の灯りを反射させた。
 しかし彼女とこうして酒を楽しむというのは珍しい。この屋敷で過ごす事も増えたものの、晩酌の機会は実に少なかった。呑むとしても大体は浮竹が徳利一本分程を楽しむほどで、彼女は湯呑の茶を口にするだけで酒には手を付けない。
 理由はおおよそ想像がついた。彼女の酒癖はお世辞にも良いとは言えない。といっても、浮竹はその最中に居合わせた事は無く、何度か目にしたのは酔い潰れた後の眠る姿ばかりだ。呼び出されたり何だったりと、安全な場所へ運び出す事は何度か経験していたが、徐々に様子を変えてゆく彼女というものを目の当たりにしたことは無かった。
 これは憶測ではあるが、恐らく彼女自身もそれは自覚していて、だからこそ浮竹の前で酒を呑むことを敢えて避けていたのだろう。酒は好きだと言っていたが、呑むとしても一杯、酔わない程度の量で収めていた。
 自覚しているならどうして、親しい松本や日番谷の前では酔い潰れる程浴びるのかと思うが、だが、きっと彼女らは千世にとって気の許せる相手だということなのだろう。
 であれば、浮竹には気を許して居ないのかと言えば別にそういう事ではない。出会いや関係性が違えば見せる顔というものは変わる。なにも松本に見せるような顔を何も無理に見せろという訳ではないのだ。だが、それを少しだけ垣間見たいと思うのは、不思議な感情ではないだろう。
 他愛もない会話を交わしながら、その小さな猪口に注がれた酒を少しずつ口にし、ようやく空になった頃、徳利を近づけた。しかし千世は器を遠ざけ、もう大丈夫ですと逃げる。案外それが頑なだったから、そうか、と少し背を丸めればそれが何か引っかかったのか、じゃあもう一口だけと差し出した。
 それから、四、五杯ほど繰り返した。次に渋られればもう止めようと思っていたのだが、良い酒という事もあってこれは美味いと、つい彼女も手元が進んだようだった。元々酒は好きだと言うのだから、この味を知って進まないわけがない。
 徐々にその頬が染まって眠たそうに瞼が下がり、力が抜け呂律の甘くなった彼女は、あの、と間延びした声を上げる。

「隊長、私のこと…酔い潰そうとしてますよねえ?」
「…いや、そんな事は無い。折角の美味い酒だから、千世にもと…」
「いえ!分かるんです!…だって隊長…いつもとなんか様子が違うというか…雰囲気が変というか…私がいつも呑まないようにしてるの知ってるのに、お酒やけに勧めて来ますし……何が目的なんですかあ」
「も、目的…?」
「そうです、目的!目的があるんですよねえ?」

 その瞬間というものは、まるで糸が途切れたように突然訪れた。つい先程まではかろうじて正気を保っていた様子だった千世が突如、詰め寄るように浮竹の顔を覗き込み眉間に皺を刻んでむっとした顔で睨む。しかし覇気は無く、子猫が毛を逆立てているようなものだ。
 なにも、酔い潰そうとしているわけではない。酒が入り、徐々に様子を変えてゆく姿に興味が湧いただけで、無理に呑ませた訳でもない。しかし彼女の言う通りその目的意識があった事は事実で、様子が妙だと勘付かれても致し方なかったか。
 まさに手本通りとも言える酔い方に、いつか松本が「面倒くさい」と評していた事も納得であった。彼女の言葉をいなすように笑っていれば、それが不本意だったのか、隊長、と唸るように呼びまた一つ距離を寄せる。

「私のこと、酔い潰して…何しようとしてるんですかあ?」
「ち、違う…そんな、酔い潰す必要があるような関係でも無いだろう…」
「あ!!何ですかそれ、酔い潰す必要のある関係が、あるって事ですか…!?…隊長、私以外の女の人に、そういうの…そういう、破廉恥なことを、したことがあるって事ですか?!」
「ちっ違う、違う!そんな事はない!千世、悪かったから…少し声を押さえて…」
「だって、隊長が昔の女性の影をちらつかせるから…」
「女性の影……」

 突如捲し立てるような彼女の様子に、何を言い出すのかと絶句し白目を剥きそうであった。いくら私邸とはいえ、あまり大きな声を出されたのでは塀の向こうへ声が響きかねない。落ち着かせるように千世の背を擦ってやると、目線を暗い庭へと向けていた。
 目が据わり、何を考えているか分からない。平時の千世は比較的、感情の動きが分かりやすい方だが、酒が入った今は特別喜怒哀楽の浮き沈みが激しく、突拍子もない。先程まで憤慨していた事が嘘のように、今はすましていた。
 しかし今さっき彼女が言っていた女性云々というのは、普段から奥底に隠し持ってでも居た感情なのだろうか。今になって唐突に飛び出たものというわけでもあるまい。過去がどうだとか、彼女が今までに尋ねて来た事が無かったから特に気にもしていないのかと思っていたのだが、そういう訳でもなかったのか。
 だが、今この状況で追求する真似はできまい。また猪口を持ち上げようとした彼女の手を制すると、不満げに顔を上げた。

「折角良い酒だと思って、つい呑ませすぎたよ…千世、悪かったね」
「嘘ですよ、隊長…わざと私のこと、こんなにしたんですよ…私、自分でこうなるって分かってるから、いつも我慢……してるのに……」
「わ、悪かった、俺が呑ませすぎた…布団を敷くから、もう寝よう」
「寝ない!寝ないです」

 余計な琴線に触れぬよう言葉を選んだのだが、どこかに引っかかってしまったようで彼女の声は今にも泣き出しそうな様子で震えている。しかしこの状態でも鋭いというべきか、いや、浮竹の勧め方があからさますぎたのか。
 思っていた以上の豹変ぶりに、浮竹は薄っすらと後悔を感じていた。知りたいと思ってしまった己への後悔である。彼女が自覚していた酒癖の悪さを、敢えて避けていたそれをわざわざ掘り返すような真似をしてしまった。
 口をへの字に曲げてぐすぐすと目元を潤ませる千世の頭を撫で、まるで子供をあやしているかのようだ。暫くそうしていればやがて気が落ち着いたのか、その身体をゆっくりと倒し、浮竹の膝の上へと鈍い重みが乗った。

「醜態を晒すって分かってるから、隊長の前で呑みたくなかったんですよ…こうやって…お恥ずかしい姿を……」
「…松本君や日番谷隊長の前とは、違うのかい」
「だって、乱菊さんは私のことずうっと前から知ってますし…日番谷隊長はいつもなぜか偶々居るだけなんですけど」

 はあ、と千世は息を吐いた。今にも眠ってしまいそうな重い瞼に、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら抵抗をする様子を笑って見下ろす。その柔らかい髪にゆっくり指を通して梳いてやると、とうとう目を瞑ったまま、満足気に微笑んだ。

「隊長には、まだ知られたくなかったな…」
「…いつなら良かったんだい」

 彼女の呟くような言葉に、そう小さく尋ねてみたが、答えが返ってくることは無かった。
 膝の上で寝息を立て始めた彼女の顔を見下ろしながら、嵐の後のような気分でひとつ息を吐く。彼女の赤らんだ頬に手を触れれば人肌に温かい。
 興味とは価値有る衝動だが、しかし時に余計な感情と思うことも無いわけではない。この重みも熱も、余韻も含めて全てが彼女だというのに、どこか物足りなさを覚える、妙な夜だった。

 


おだいばこより

酔っためんどくさいヒロインに振り回される浮竹さん

 

2021/10/04