過日の皮

2021年8月31日
おはなし

 

過日の皮

 

 穏やかな時間が刻々と過ぎていた。これが夏休みなのかと聞かれると、夏ならではという事はないが、しかし夏休みだからと言って夏らしい事をしなければならない訳ではない。
 この茅葺屋根の家に着いたのは一昨日の夜の事だ。既に家の明かりは灯っていたのは、浮竹が一度先にこの家に訪れ多少の準備をしてくれていたからだと聞いた。道理で待ち合わせの宿場町に現れた時に身軽な様子だったのだ。
 昨日は一日ほぼ畳の上に転がって過ごしていた。遅く起きた後に朝飯を食べ、その後二度寝をするなど二人であまりに怠惰な時間を過ごした。辺りは山に囲まれ、どこを見回しても木々の緑と空の青さだけというのは瀞霊廷ではあまり味わえない。頬を撫でる風を柔らかく浴び、脳を通さないような中身のない会話を零していれば、気付けば日暮れであった。
 休暇明けに何をしていたのかと尋ねられても、恐らく何もしていないとしか答えられない。日記を付けていたとしても三行以上で綴れる自信がない。だが何もない休暇は千世にとって限りなく、望んでいたものに近いのだろうという事は確かであった。
 何もない休日を望んでいたのは、彼もきっとそうだった。二人で過ごす場所として真っ先に浮かんだのが此処だったのだと、そう耳を赤くし申し訳無く言う様子に何か身体の中が擽られるようなこそばゆさを覚えたものだ。
 千世はそう回想しながら、思わずふっと笑った。昨日の夜、僅かな時間で雨が降ったせいでこの森の中はじめじめと湿っている。いくら麓と比べ標高が高い山といっても夏の雨上がりは実に蒸した。
 一度この山に入りたいと思っていたのだ。瀞霊廷にもいくつか野草の生える場所は存在するが、此処まで広大な土地を目の前に散策しない訳にはいかない。夕食前に彼に山に入って良いかと聞けば、当たり前のように頷いてこの竹の籠を持たせてくれた。
 木の根本から覗くきのこの傘に、千世はあっと声を上げる。近寄り暫くぐるぐると見回してから、食用で問題のないものだと判断して手をのばす。脇に抱えた竹の籠には既に半分ほど野草と山菜などが埋まっていた。
 今日もまた昨日と変わらぬ時間に二人で目を覚まし、遅い朝食を済ませた。眠気はちらついたものの、しかし昨日の反省もあったのか昼寝とはならず、麓にある町へ多少の食料の買い出しに出た。
 休日に二人並んで町を歩く事は初めてのことで、並ぶ野菜を選ぶだけの事がこうも楽しいものかと彼の顔を見上げては思ったものだ。普段着に袖を通し行き来する流魂街の住人に紛れていれば、自分が死神であったことなど忘れてしまいそうな気さえした。
 いっそ、それも良いのではないかと一瞬そう考えかけ、慌てて振り払った。死神である事を忘れて、この茅葺屋根の穏やかな家で暮らしてゆく様子まで想像が及ぶ前に我に返る。
 ふと、松本が言っていた駆け落ちという言葉をやけに生々しく思い出してしまったのだ。あの時は馬鹿馬鹿しい冗談だと笑っていたというのに、今はどうにも笑える気にはなれなかった。
 もし千世が言い出したとして、浮竹は応じてくれるのだろうか。いや、何を考えている。護廷の為ならばと命を投げ打つ事すらきっと厭わない相手に対して考える事ではない。実に馬鹿馬鹿しく失礼だった。副隊長という立場で、考える事ではない。
 木の根元でしゃがみ込んだまま、ぼうっとしていた千世は眠気覚ましのように頬を軽く叩き立ち上がる。
 明日の夜には、もう瀞霊廷へと帰らなければならない。またあの日々に戻った後も、きっと此処で過ごした時間を何度も飽きるほど思い出すのだろう。

「…雨……」

 ふと頬に数滴落ちた水を手のひらで拭うと、やけにそれは生ぬるく粘性を帯びていた。雨じゃない、と指先でその粘液を薄く伸ばし眺める。それが一体何であるかと気づくまでに、そう時間は掛からなかった。
 咄嗟に上を見上げれば、高い針葉樹の上に異型のものがぶら下がり此方を見下ろしている。見慣れた仮面は耳元まで裂け、涎が伝い雨のように落ちていた。
 気配を今まで感じていなかったのか、若しくは気づいていなかっただけか。穏やかな数日を過ごすあまり、鈍っていたとしか思えない。猿のように長い尾で木の枝からぶら下がり続ける虚と睨み合いながら、腰元に手を伸ばしたが掴む柄は無い。
 斬魄刀はあの家に到着し早々に浮竹の斬魄刀と纏めて部屋の隅に置いていた。休暇中手にする事は無いと思っていた。馬鹿な事をしたと後悔する。いくら此処が人里離れた場所だとしても、自分が霊力を持つ者である事は変わらないというのに。
 相手が動き出す前に、鬼道を打ち込み距離を取る。森や雑木林での戦闘は今までに何度もあったが、丸腰では一度もない。ぶら下がっていた枝が折れたが、見事な着地を見せる。四足を着き品定めするような様子で近づくその姿は、千世の二倍ほどの体長で一般的な虚とそう変わらない。
 霊圧はどうということはない。ヘマをしなければ鬼道と白打で撃退は可能だろうと踏んだ。脇に未だ抱えていた籠をようやく地面に置き、戦闘態勢を取る。相手が踏み込んだ動きに咄嗟に近くの樹上に飛び移り、頭上からもう一度鬼道を放つ。湿った落ち葉や枝が舞い、一瞬ぐらりと揺れたように見えた巨体に向けて足蹴を食らわせた。
 動きにくい。腹に帯を巻いて苦しいし、裾はそのままでは自由が効かない為腿までたくし上げている。死覇装をこれほど恋しいと思ったことは無いかも知れない。
 足蹴の衝撃でその巨体は地に叩きつけられたものの、まだ勿論意識は有る。途端に飛び退いた虚は樹に登り、不快な甲高い鳴き声を発した。耳を塞ぎたくなるような声に顔を歪ませる。

「嘘でしょ……呼んでたの」

 言葉が通じる相手ではないというのに、そう叫んで絶句する。単なる咆哮だと思っていたが、招集の合図だとはまさか油断した。何処からともなく現れた巨体は計三つに増え、樹上から各々不気味な唸り声を漏らし千世を見下ろしている。三体ならば、まだ落ち着いて処理する事が出来る筈だ。落ちる袖を捲くりながらぶつぶつと詠唱を開始する。
 浮竹の姿が浮かばないわけではない。だが、虚三体如きで彼を呼ぶには気が引けた。詠唱を終え中央の一体に当てると、その衝撃に爆発が起き脇の二体を伴って吹き飛ぶ。木々の枝を折り激しく地に叩きつけられた様子を見届けたが、間もなく呻き声と共にその巨体を起こした。この様子では気が遠くなる。
 まだ土煙が残る中、地を蹴り群れへ飛び込み膝を入れる。昔から白打はあまり得意ではなく鬼道は人並みで、剣術にばかり重きを置いていた。そのツケが出たという訳でもないだろうが、多少焦りが生まれつつ有る。
 長期戦となるだろうが、落ち着けば平気だとそう心の中で呟く。だが、次の瞬間その僅かな余裕は消えた。頬を掠ったのは手のひら程度ある石だった。背後の木の幹に当たって砕けた欠片を見て目を見開く。投石とは聞いていない。
 投石を避ける事に意識を取られて距離を詰める事ができない。近接ならばまだしも、この距離での多勢に無勢にはただ苛立ちが募った。その苛立ちによって、気が緩んだには違いなかった。その一瞬の気の緩みが命取りであると、それは散々思い知らされていたいうのに、気付けば上空で咆哮が響く。見上げれば、一体の巨体が不気味な表情を向け、頭上から迫る様子がコマ送りのように目に映った。
 死を予感する瞬間は、過去にも少なからずあったから知っている。だがむしろそれは護廷の為ならば本望で、此処で死んだとしても仕方がない事だと、その度に思ったものだった。
 しかし今は明確に死にたくないと思う。この穏やかな場所で過ごした時間が咄嗟に過った。彼に最後何も言えないまま死ぬことに湧き上がるような後悔がそう思わせているのだろう。今死ねば、きっと自分は化けて出るに違いない。死にたくないと思いながら死ぬ瞬間は、こうも息苦しく悲しいものなのかと吐き気さえ感じた。
 奥歯が割れるほど噛み締め息を止めていたその時、ふと優しい風が髪を揺らす。

千世!」

 背後から聞こえた声に咄嗟に振り返れば、途端に降ってきた斬魄刀を抱え込むように受け取った。柄に手を掛け、上空から迫る巨体の影に向けて抜身を向けた。切っ先の上に降り立った巨体のその身体に、刃の深く沈み込む感覚をこの手に感じる。柄から伝って落ちる生ぬるさと、血生臭さが鼻をついた。
 空気の漏れるような呻き声をすぐ頭上で聞く。ぐったりと生気を失ったその身体が千世に重く伸し掛かり、その重みで圧死する前に蹴り飛ばし転がした。落ち葉の上にへたり込み大きく呼吸を繰り返しながら、横で仰向けに転がる巨体を茫然と見つめる。
 きっと、いや確実に彼が来ていなければ死んでいた。ふと隣に感じた気配に顔を上げれば、浮竹が丁度鞘へ戻そうとする時だった。その背後には巨体が二体既に伸しており、あれだけ手を焼いた相手がなんと呆気ない事かと力が抜けた。

「どうして早く呼んでくれなかった」
「大丈夫だと、思ってしまいました」
「普段ならば平気だったろうが、状況を考えなさい」

 すみません、と頭を深く下げる。浮竹は巨体の腹に刺さったままだった千世の刀を抜くと差し出す。血に塗れた頭身を僅かに払い、柄に戻しながらまだ頭がぼうっとした。
 折角気に入っていた着物も帯も、血に濡れてしまった。情けなさと後悔で、繰り返し震えるようなため息が漏れる。腰が抜け中々立ち上がることも出来ずにいれば、とうとう浮竹はその横に腰を下ろし千世の顔を覗き込んだ。

「死んだと思いました」
「死なせないよ」
「…な…なんでそんな事、言えるんですか」

 まさか返ってくると思っていなかった言葉に動揺して思わず後ずさりをすれば、空いていた手を引かれ背に手が回る。抱え上げられるように起こされた千世は彼の言葉を待つように見上げたが、ひとつ微笑むだけだった。
 まだ僅かに震える足へ力を込め、地を踏みしめる。死んだも同然だった筈が今右の手には彼の体温を感じ、硬い土の上を踏みしめる感覚が実に生々しい。雨上がりの蒸した香りと血生臭さを吸い込みながら、生きているのだと思い知る。

「帰りたくないです」

 思わず口をついて出た千世の言葉に浮竹の答えは無かったが、握られていた手に強く力が籠もった。少し無言の時間を過ごした後、帰ろうかと、そう呟く浮竹は千世の歩幅と合わせるようにゆっくりと一歩進める。
 今此処で帰ってしまえば今日が終わり、明日になれば瀞霊廷へ帰らねばならない。明後日からはまた死神としての日々が始まる。まるで、あの家での何の変哲もない日々が一瞬でも永遠に続くように思えてしまった事を後悔しかけた。
 何も特別でない特筆すべきことのない日々があまりに平凡で、だからこそ手に入れたと錯覚してしまったのだろう。本来自分のいるべき場所は此方ではない。今はただ、細やかな夢を見ているだけなのだ。
 手を引かれぽつぽつと歩きながら、徐々に背筋が伸びてゆくのを感じていた。うつらうつらとしていた昼寝からはっと目が覚めた時の、あのやけに冴えた視界を思い出す。夢の心地の良さを身体に覚えていながらも、それは現実の色鮮やかさには決して敵わない。

「次散策に出る時は、俺も一緒に行くよ」
「…次と言っても、もう明日は帰らないと」
「いや、なに…来年のことさ」

 来年、と千世は繰り返すと、自然と笑みが溢れた。引かれる手を握れば同じように返る。当たり前に思える事が、今は吐く息が震えるほどに嬉しい。木々の隙間から夕焼けが覗く中、湿った土の上を進む二人の足跡は長く続いた。

 

(2021.08.31)