暇日の一粒

2021年8月29日
おはなし

 

暇日の一粒

 

 聞こえるものといえば、風の音と木々の葉が擦れる音、時折鳥の囀りぐらいだった。辺りは竹やぶと雑木林で囲まれ人の気配は無い。瀞霊廷にある屋敷とは同等程度の敷地であったが、塀に囲まれていない分広々と感じていた。
 幸いにも今日も朝から良い天気に恵まれた。適当に拵えた遅い朝食を済ませた後は二人してまた畳の上でついうつらうつらとしてしまった。
 目覚めた時には昼過ぎで、通常の休日ならば後悔に苛まれるのだろうが今日はまるでどうでも良い。いっそもう一眠りしてしまおうかと、隣で口を開けて眠る千世を見ながら怠惰に思ったものだ。
 この山の中の家屋は、古い友人が持つものだった。真央霊術院で共に死神を目指し学んでいた友であったが、彼は結果死神にはならず流魂街に待つ育ての親の元へと帰った。浮竹が死神となった後にも縁は残り、数年に一度程度は文のやり取りを続けていた。互いに取り留めもない近況を簡潔に綴っただけのものだ。
 浮竹が最後に彼へ文を送ったのは数十年前となる。その返事が届くことは無かった。

「ご友人は、亡くなられたのですか」
「ああ、病だったようでね。これといった身寄りもなく、看取った医者が俺の文を見つけて連絡をくれた」

 はじめは驚いたものだ。卒業以来顔を合わせる事は無かったとはいえ、長く文のやり取りを続けていた友が急逝したと知ったこと、そして彼が終の棲家としていた茅葺屋根の家屋を突如譲り受けることとなったこと。
 しかし彼の遺言があったわけでもなく、正しくは引き取り手のない空き家となった家屋の管理を任されたという訳だった。空き家となれば輩の拠点ともなりやすく、かといって取り壊すにも費用は掛かる。
 知らせを受けた後に折を見てこの家屋へと訪れたが、中々予定が合わず既に葬儀の執り行われたあとだった。瀞霊廷から多少距離があり、管理と言ってもそう安請け合いを出来るものではない。残念ではあったが状態によっては取り壊しも已む無いと考えていた。だが、実際訪れてみれば家屋も庭もよく手入れされていた。
 それ以来、この家屋については浮竹の管理となっていた。と言ってもあまり頻繁に足を運べる距離ではない。しかし人が住まねば家は傷む。連絡をくれた医者の伝を使い、定期的な手入れを依頼しこの状態を保っている。
 そうだったんですかと千世は興味深そうに頷く。話せば長くなるだろうと詳しく説明をするつもりは無かったのだが、二度寝から目覚めた彼女に転がったまま尋ねられた。確かに気になるだろう、瀞霊廷から三里ほど離れたこの流魂街に別邸があることなど一度も話したことがなかった。

「でもどうしてそのご友人は、死神にならなかったんでしょうか」
「彼は、死にたくないとよく言っていたよ」

 彼は小心者だと学級内では揶揄されていた。死神を目指すものたる者、命が惜しいとは笑止千万。浮竹や京楽が学院生の頃などは特にその思想が強く、教師陣からも口々にそう教えられて来た。そんな中、死ぬのが怖いと怯える彼が浮いていたというのは言うまでもない。
 何も粗末にせよと言っているのではない。尸魂界や護廷を揺がす脅威と対峙した時、如何に己の命を有用に賭けるかという事である。誰が為に死神と成るのかと、嫌というほど叩き込まれたものだった。
 彼から卒業後は育った流魂街へ戻ると聞いた時、どこか安心したことを憶えている。己が命の価値をどう思おうがそれは己で判断すべきで、死を恐れる事を揶揄される筋合いは誰も持たない。卒業の日、初めて浮竹が訳を聞けば、彼は母親を残して死ぬことが何より恐ろしいのだと言っていた。十分な理由であった。
 この場所で彼は得意であった回道を使い、住民の怪我の治療などに当たっていたと文で聞いていた。連絡をくれた若い医者は弱いながらにも霊力を持ち、彼に手ほどきを受けた者であった。彼が死神にならずに得たものと残したものを、この場所で強く感じたものだった。
 さて、と浮竹は身体を起こす。硬い畳の上で横になり続けていたせいか、少し伸びをしただけであちこちがぱきりと音を立てた。

「今日は何しようか」
「うーん…何といっても、周りは山ですからね」

 そう言って笑った千世に、違いないと浮竹は腕組み唸る。
 夏休みと聞いた時、真っ先に浮かんだのがこの場所だった。恋人との休暇となれば本当ならば、有名温泉地やいっそ現世にでも連れて行ってやるべきなのだろう。だが隊長ともなれば尸魂界の大抵の有名旅館に顔は知れているし、穿界門の通行記録に二人の名を残すのも避けたい。
 誰にも知れず、二人だけで過ごせる場所として浮かんだのはこの場所だけだった。急なことであったから慌てて管理を依頼していた医者に連絡を取り、寝具の日干しだけを取り敢えずと依頼した。最後に浮竹が訪れたのは数年前で、比べて特に変わったことは無い。強いて言うならば庭の桜の枝葉の伸びが著しいくらいだろうか。
 この場所に着いた時、千世はぽかんとした様子だった。それはそうだ、何の変哲もない茅葺屋根の家屋が暗い森の中にぽつんと佇んでいたのだから。だがこれほど休暇に最適な場所はないと自信はあったのだ。人里離れたのどやかな此処ならば、何より穏やかな時が過ごせると思ったのだが、独りよがりだったか。
 その無言の横顔を見て失敗したかと冷や汗が滲んだが、次の瞬間にはいつもの調子に戻っていた。今朝も早くにふと目を覚ました時に目に入った、何とも幸せそうな寝顔に微笑んだものだった。とはいえ、やはり未だあのぼうっと家を見上げる様子を思い出し気にはしていた。

「虫取りにでも行こうか。これだけ広い雑木林なら、相当立派なカブトやクワガタが居るんじゃないか」
「虫取りはあまり…」
「…なら蹴鞠でもしようか。確か押し入れに鞠があったんだよ」
「蹴鞠も私は別に……」

 少し黙った後、やりたいんですか、と千世に尋ねられ慌てて首を振った。別に蹴鞠が好きという訳ではない。何か特別なことをせねばと気が急いた。このままでは通常の休日とまるで変わらない時間を過ごしたまま終わってしまう。
 かといって虫取りだの蹴鞠だのと、子供相手かと思うような案しか浮かばないというのも恥ずかしい。彼女の言った通り此処は山だ。周りにあるものと言えば雑木林と竹林、麓まで降りれば町があるが時間がかかるし、大した規模ではない。

「…退屈じゃないかい」
「隊長と過ごしていて退屈に思ったことなんて一度も無いですよ」

 千世は畳の上で仰向けになっていた身体を転がし、うつ伏せになって大きく伸びる。それが世辞でない事はその口ぶりから分かった。それならば良いのだが、しかしあのはじめのぽかんとした表情がどうにも忘れられない。
 何かしてやらねばと、そう思う程に何も浮かばない。これでは屋敷から出る事も出来ない瀞霊廷での休日と変わらない。二人で一日畳と庭を見て過ごす、あの刺激がないながらもただ穏やかで細やかな時間だ。

「…だがこれだと、屋敷で過ごす事と変わらんだろう」
「でも、変わらないような休暇を隊長は過ごされたかったんじゃないですか」

 千世の見上げる視線を見返し、そうかも知れないなと、そう答え微笑んだ。かも知れないなんて誤魔化したが、そうに違いなかった。彼女と過ごす何もない休日が浮竹にとって何よりも失いたくない時間となっていたのは、言うまでもない。
 ふと彼女の頭の上に手を置き、その髪に指を通した。柔らかく豊かなその髪を梳くように毛先まで移動させる。はらはらと指先から落とすと、微かに吹く風が僅かに攫った。

「此処に居ると、死神でなくなったような気がしませんか」
「それは…どういう意味なんだい」
「ああ、いえ…そんな深い意味はないですよ。瀞霊廷に居る限りは、隊長は隊長で、私は副隊長で……つまり、此処に居ると、隊長と副隊長という事を少し忘れてしまうようで。…隊長って、呼んでしまっていますけどね」

 千世はそう言って、照れたように笑う。彼女の言葉を頭で反芻しながら、分からなくは無い感覚だと、思ってしまった。
 死神で無かった事など、この長い人生で比べてしまえばほんの僅かな若い頃だけだ。常に命を剥き出しにする日々を数百年と過ごしている。死神でない自分など如何に頭を悩ませた所で想像も及ばなかったというのに、しかしどうしてか、この場所ではふと浮かぶように思えた。
 この家主であった彼をふと思い出す。死神の素養を持ちながらもそうはならなかった。彼の意思を尊重しながらも、当時の自分にとってその選択肢は無く別世界のように思えたものだ。

「…隊長?」
「…ん?」
「お昼ごはんですよ。どうしましょうか。でも…今食べたら夕飯が遅くなっちゃいますね」

 彼女の言葉に、暈けていた焦点を戻す。あさげの後に二度寝をしてしまったお陰で、まだ腹は減らないのは彼女も同じだろう。この様子ならば、中途半端な夕方前に腹が減り、夕飯の時間を考えると何とも悩ましい状況である。
 そうだなあとぼんやりとしながら、縁側の向こうに見えるのどかな景色を眺める。畳の上の千世がちゃんと考えてますかと膝をつつき、だが彼女も答えを出したいとそこまで強い思いはないようで、そのうち飽きたのかぐったり転がっていた。

「はじめ、驚いていただろう。此処に着いた時」
「いえ、驚いてはいないですよ。…ただ、隊長が過ごしたいと思う休日が、きっと何時もと変わらないものなんだろうと思ったら、ついぼうっとしてしまって」

 そういう事かと、浮竹は笑った。だがその時点で見透かされていたとは思わなかった。言わずとも伝わる仲であるというのならばまだ良いが、言わずとも分かるほどあからさまな様子であったというのならば恥ずかしい。
 だが彼女もまたこの場所での暮らしというのは、満更でもないように見えた。心地よさそうに目を瞑る様子に、じわりと広がる感情は言葉にし難い生ぬるさを持っている。
 無為に時間が過ぎてゆく。何もせず考えず、ただ風に流される空の雲のようにぼんやりと過ごすだけだ。これを休暇と言って良いのか分からない。京楽に話せば、もっと楽しい所に連れて行ってあげればいいのにと、また呆れられるだろうか。
 また仰向けに転がった千世があ、と口を開く。その顔を見れば、天井を見つめたまま、やもり、と一言呟いた。つられて浮竹も同じように見上げれば、確かに天井にやもりが一匹張り付いている。

「ああ、本当だ…珍しいな。縁起が良い」
「彼が居たから、この家は虫が少ないんでしょうか」
「さあ…どうだろうか…」

 二人で呆けたような表情で天井を見上げながら、何とも中身のない会話を零す。昼飯の事など、すっかり忘れていた。

 

(2021.08.29)