佳日の切れ端

おはなし

 

佳日の切れ端

 

 日が陰ってきたとはいえ、未だ蒸すような暑さは続いていた。しかし先週の猛暑に比べれば幾分落ち着いてきたようにも思う。木々に囲まれたこの道中であれば、日が完全に落ちた頃には涼しい風を感じることも出来そうだ。
 瀞霊廷を出て暫く経った。走るか瞬歩を使えばなんという事のない距離だったが、時間にも余裕があるからと徒歩で向かっていた。脚絆を巻き笠をかぶった旅姿なんて慣れない格好をしてみたものの、確かに長時間の徒歩移動には最適だが浮かれてるようで今更恥ずかしい。
 この先で間もなく宿場町に突き当たるはずだったが、未だその気配は無い。立ち止まり、懐に仕舞っていた地図を確認するが確かに間違いないはずだ。千世は一つ唸り、悩んだ挙げ句地図通りと思われる道を選んで進む。此処で妙な気を起こして違う道を選ぶからいつも無駄に迷うのだ。
 浮竹の計らい通り、昨日から夏季休暇に入っていた。そう告げられたのはつい五日ほど前の話で、突然のことで驚いたものだ。しかし更に驚いたのは、彼もまた同じ時期に休暇を取ると聞かされた事だった。
 今まで長期休暇を被らせた事は一度としてない。というより、長期休暇自体が珍しい話だった。彼の提案を聞いた時、はじめは通常の休日通り彼の屋敷で過ごすものだとばかり思っていたが、まさか行き先まで決められていたとは思わず三度驚いた。
 休暇に入る前日、彼から地図を渡された。今千世が握りしめているそれだ。地図は瀞霊廷の朱洼門から三里程の狭域を描かれたもので、ある地点に朱色で印が記されていた。ぽかんと地図を見つめていれば、その朱色の場所で待つようにと、そういう事なのだという。約束では、日が落ちた頃には着くとそう彼は言っていた。
 手間のかかる外出許可は一昨日に業務の合間を見て取った。里帰りと適当な理由をつけたが、勿論そういう訳ではない。四日の外出ともなれば帯刀も義務付けられたから素直に腰にぶら下げているものの、女性の旅姿に斬魄刀というのは何とも不格好に思えた。
 あ、と千世はようやく先に見えた人の気配に思わず声を上げる。変な気を起こしてあの道を左に曲がらず正解だった。この先の宿場町にある茶屋で日没頃まで待っていてほしいと彼からは伝えられており、千世は一先ず宿場町まで辿り着けたことに一息つく。
 木戸を抜け町に入ると、旅籠や商店が立ち並ぶ。浮竹の言う茶屋の看板は、町の中ほどに見つけた。一先ずは乾いた喉を潤したいのと、甘い何かを口に入れたいが為に縁台へ腰掛け茶とわらび餅を一つ頼んだ。

「あれ、千世じゃない」

 突然背後から聞こえた声に、千世は素っ頓狂な声を上げて飛び上がる。完全に油断をしていた。隣に腰を掛けていた初老の男性が迷惑そうな顔をして移動すると、千世の名を呼んだ人物は意気揚々と空いた場所へ勢いよく腰をおろした。
 珍しいじゃない、と目を輝かす彼女は目立つ金色の髪を優雅に背へ流し、千世の姿をまじまじと眺める。

「乱菊さん…どうしてこんな所に…」
「それあたしの台詞。なあに、旅姿なんて珍しいわね…家出?」

 ちがうちがう、と千世は顔の前で手をぶんぶんと振る。やはり旅姿なんてするものじゃなかったと、準備に勤しんでいた午前中の自分の姿を思い出して恥ずかしい。
 丁度届けられた茶を喉に流し込むと、大きく息を吐き出した。それにしてもまさか彼に指定されたこの場所で知り合いに会うとは。それもまさか、松本と出会うとは思いもしなかった。

「乱菊さんは、任務?」
「見ての通りよ。この付近、この前の大量発生の一部がまだ残ってたみたいで、巡回の隊士から救援要請出されちゃって」
「そうだったんだ…殲滅って聞いてたけど」

 そうなのよ、と松本はさも迷惑そうにため息を吐いた。偶々他の隊士が出払っており、松本が駆り出されたのだという。
 彼女が言うのは、先日盆の時期に大量発生した虚集団の事だった。現世、流魂街を合わせ六、七程の地域で集中して発生し、十三番隊からも十名以上は派遣を行った。
 毎年盆の時期になると必ず発生するもはや行事にも近いもので、いずれも雑魚同然の個体のため事前に備えが有れば被害は無い。今年も例年通り虚の発生は同時多発的に起きたが、事前の派遣もあり数時間で殲滅報告が出揃っていた。
 だが、残党が居たというのは珍しい。入隊して以来毎年この時期に立ち会ってきたが、一週間以上残留していたという話は聞いたことがない。松本も同じような感想を漏らし、手元のみつ豆をひとすくい口へ運んだ。
 それを咀嚼し飲み込んだかと思えば、じゃなくて、と松本は声を上げる。運ばれたばかりのわらび餅が乗った皿を持ったまま、千世はびくりと身体をこわばらせた。

「それで、千世がどうしてこんな所に居るのよ」
「この後少し予定があって…」
「予定があるのは当たり前でしょ。中身を聞いてんの」

 仰る通りだと千世は笑う。松本は浮竹との関係は良く知っており、伝えた所で何ら問題は無いのだがどうにも気恥ずかしく思え無意識にはぐらかそうとしていた。浮かれている理由を自ら明らかにすることに、耐えられないような気がしたのだ。

「浮竹隊長とデート?」
「…デート……?」
「あぁもう相変わらず疎いわね、恋人同士のお出かけって事」
「ああ、…うん、お出かけ…というか、泊りの予定で」
「えっ、お泊り!?二人で休暇合わせたってこと?」

 千世が頷けば、松本は目をこれでもかと見開いた。彼との休日は何処に行くでもなくその屋敷でのんべんだらり過ごしているだけなのだと彼女には話していたから、唐突に思えたことだろう。
 へえ、と感心したように声を漏らす松本の横で、千世は黒文字をわらび餅に通し口に運んだ。きな粉に包まれた甘く柔らかい餅が口の中で溶ける。

「それなりに誤魔化してるんでしょうけど、案外大胆ねえ」
「やっぱり流石にバレるかな…」
「大丈夫じゃないの?あんた、まだ修兵と付き合ってる噂消えてないみたいだし」
「あ、そ…そうなんだ…」

 人の噂も七十五日というが、一度出回り根付くと中々消えないものだ。檜佐木とは同期という事もあって何かと会話する機会も多かったから、一部で妙な解釈をされてしまっていたというのは知っている。そのうち消えるだろうと様子を見ていたのだが、時既に遅かったという事だ。
 彼がその噂を認識しているかどうかは知らないが、出回り始めた時期を考えれば流石にその耳に入っているだろうとは思う。
 檜佐木とは最近も何度か顔を合わせているものの、その話題になった事は無いから敢えて避けているか特に気にしていないかのどちらかだろう。どちらにしても、意図せぬ相手と噂になってしまった檜佐木には申し訳ない。しかし今はその噂が少しだけ有り難いと思ってしまう事に、何とも言えぬ心持ちだった。

「どこ行くの?」
「それが未だ教えてもらってなくて、日没後に此処で待ち合わせの予定なんだけど…」
「へえ…なんだか面白いわね、あっちが色々考えてくれてるんだ」

 ふうん、と目を細める松本に千世は何と反応すれば良いか分からず黙って茶を啜った。
 考えてくれている、のだろう。二人で休暇を取るというとんでもない話を聞かされた時のあの優しい目を思い出すと、自然と胸が高鳴る。
 松本が面白いと言っているのは、浮竹が主体的に休暇の予定を決める姿を想像しての事なのだろう。その気持は千世も多少分かる。ああ見えて案外色恋には無頓着で、抜けていると思う事も無くはない。だから、もとから決めているのだと聞いた時は驚きと同時にひどく嬉しかったものだ。
 刻一刻と近づく日没が、こんなにも待ち遠しかった事は無い。きっといつもと変わらず風のように現れて微笑むのだろう。

「じゃ、あたしそろそろ帰るわ。アンタもちゃんと帰ってきなさいよ」
「勿論帰るよ、どうして」
「二人に駆け落ちでもされたら困るじゃない」

 大真面目といった風に言う松本に、何バカな事を言ってるのかと千世は笑って返す。ただ二日三日程度の小旅行で大袈裟すぎる。
 そうねと笑う松本は小銭を取り出し盆の上へ置いた。僅かに色づき始めた空を背景に立ち上がった彼女は、軽く手を振ると次の瞬間には姿を消す。途端にあまり見慣れぬ場所に置いてけぼりにされたような気になって、寂しさが流れ込む。
 だから余計に気が逸った。まるで正月を指折り数える子供のように、見上げた空が徐々に明度を落としてゆく様子を眺める。町の明かりが徐々に灯りはじめると、空は千世の期待通り藍色へと染まり夜の静けさを連れてくるようだった。
 残り少ないわらび餅を口に運んだ時、肩を軽く叩かれ咄嗟に振り返る。思っていた通りの姿に息を止めた後、自然と表情が緩んだ。

「珍しい姿じゃないか?少し探したよ」
「何といいますか…少し、はしゃぎすぎたかもしれません」
「そんな事無い。活発な町娘みたいで、良いんじゃないか」

 褒められているのかどうか良く分からず眉間に皺を寄せていたが、行こうかと促され慌てて残りのわらび餅を口に含んだ。財布から適当に取り出した小銭で会計を済ませ、着流し姿の実に身軽な服装の彼の背を追う。
 千世から一日遅れ、今日から彼も予定上では休暇となっていた。だからはじめは午前中からみっちり外出を楽しむこともあり得るのだろうかと思っていたのだが、まさかそういう訳にはならなかった。
 浮竹に聞けば、午前は隊舎で多少業務の整理をしていたのだという。同じ頃、服装をあれでもないこれでもないと鏡の前で悩み部屋を散らかしていた自分の姿を思い出し、その浮ついた様子に縮こまりたくなる。
 普段と特に変わらない様子の彼の横顔を見上げながら、やはり自分ばかりが浮かれているようだった。瀞霊廷の外で過ごす初めての連休が待ち遠しくて仕方なかったのは、自分だけなのだろうかと、そう思うと少しばかり砂利を踏みしめる音が遠くなった。
 思えば彼と過ごす時間というのは、何もかも初めての事ばかりだった。それは愛しく思うことだったり、会えない時間もまた同じであるということであった。自分の身以上に大切に思う相手が出来るということは、不思議であると同時に至って自然なことなのだとも知った。
 その背を追いながら、彼にとって自分とはどのようなものなのだろうかと思う。千世が今初めての経験に胸を高鳴らせる中、彼にとっては何度目かの事かも知れない。人を愛しく思うことについても、そしてもしかしたならばと、そう今までも何度か考えかけては振り払った。
 もともと分かっていたはずだった。長く生きる彼にとって、自分が何番目になるのかなど考えた所で意味のないことだ。考えられる彼にとっても迷惑だろう。過去がどうであれ今は自分の手を取ってくれているのだからと、そう思うことで気を休めていた。
 だが、今になってどうしてかぶり返した。初めての事にはしゃいでいたのは自分ばかりではないか。はじめは追いかけていた歩幅も、今は追いつかず少しずつその背が離れていく。やがてまばらな人影に紛れてしまいそうだった。
 待ち遠しくて仕方がなかったこの時間のはずが、自分の姿をやけに情けなく思いはじめ胸にはどんよりと靄がかかる。いつもは影を潜めているはずの感情だと言うのに、どうしてこんな時にと内心嘆いた。

「悪い、つい気が逸った」

 ふと傍に気配を感じ、気づくと横に居た浮竹を驚いたように見上げれば困ったように笑う。一寸前には随分前を歩いていたはずだというのに、まるで気付かなかった。自由にさせていた右の手を掴まれ、軽く握られる。
 咄嗟に辺りを見回したものの、まばらな人影は誰も二人の事など知らないし興味もない。

「早く連れて行きたくてね」
「…ずっと気になっていたんですが、何処に向かっているんでしょうか」
「何処と言われると説明が難しいんだが…あまり、普段と変わらないかも知れないな」

 彼の言葉に、千世は口を開けて小さく頷く。その間抜けな表情には、どんよりと厚く覆い始めていた靄がいとも単純に取り除かれた衝撃と、その花の綻ぶような微笑みへの動揺が混じっていた。
 一瞬漂った汚い感情はそっとその影を潜め、やがて千世も釣られたように口元を緩ませた。
 行こうかと、彼に手を引かれ千世はぱたぱたと再び歩きはじめる。結局行き先は分からないが、その口ぶりから、前もって準備してくれていたものなのだろう。
 今ばかりは自分だけがこの場所を独り占めしているに事に違いない。時折それを忘れかけ、悋気を覗かせるなど思えば随分贅沢なものだ。今たった自分のみへ向けられる柔らかな視線を見返せば、過ぎ去ったことにまで手を伸ばしているような暇など無いと分かる。
 指先が絡み、ぬるい体温を受け取り合う。藍色の空に響くもの寂しいひぐらしの声を聞きながら、二人分の足音は砂利を踏みしめた。

 

(2021.08.27)