夏日の断面

2021年8月23日
おはなし

 

夏日の断面

 

「夏休み、ですか」

 そう、と眼の前の男はにこやかに頷く。書類を手渡しにこの執務室へ訪れていた。一通り説明を終えた後、去り際に呼び止められ何を言われるのかと思えば、予想にもしていなかった事に目をぱちぱちと瞬いた。
 夏休みとはなんと懐かしい響きだろうか。まだ入隊してから毎年、夏か冬にに少し長めの休みを取っていた。
 席官に上がってからは三日以上の休みを取った記憶があまり無い。諸先輩方から休みを取るように言われても、今度取りますとのらりくらり交わして結局気付けば数十年経っていた。
 仕事が好きという訳ではないのだが、何もしない連休よりは仕事をしていたほうがましだという事だ。松本に知られれば正気かと唖然とされそうなものだが、伊勢ならば少しは分かってもらえるだろうか。

「とは言っても五日ほどだが…この所虚の出現も落ち着いているようだから、良いんじゃないかと思ってね」
「それは…本当によろしいんでしょうか」
「勿論。他の子達も定期的に取っているんだから、副隊長の千世が取っても何ら文句無いだろう」

 浮竹の言葉に、千世は何度か頷く。彼の言う通り文句を言うような隊士が居るとは思わないが、だが三日以上の連休を取るというのは久しぶりで、急に言われたところであまり心の準備が出来ていない。
 突然連休と言われても、直ぐに旅行の予定を立てられる訳でもない。のんびりと過ごすのも良いが、しかし寮や彼の屋敷でだらだらと時間を食い潰すかのように無為に過ごすのも勿体ないと思う。
 折角の連休だから何かしなくてはと、そう思いながらそわそわと過ごす事になりそうなものだ。だからやはり、こうして仕事をしていた方がましだと思ってしまう。そんな事を浮竹に言えば、それはだめだと深刻な顔で叱られそうなものだ。
 これと言った趣味が無いのは昔からだった。読書は好きだが、趣味と言える程読むわけでもない。剣術も趣味とは言えないし、絵は描けないし彼のように小説を書ける訳でもない。強いて言うならば山に入って薬草を採取する事は時間を忘れるほど好きだったが、流石に連休中毎日山に入るという訳にもいかない。
 そう考えるうちに顔が自然と険しくなっていたのか、浮竹は驚いたように千世を見た。どうした、と尋ねる彼に何でも有りませんと慌てて答える。折角連休をと考えてくれていた彼に、まさかすることが無いのだと明かすことは出来まい。

「来週の、この辺りでどうだろう」
「はい、その辺りであれば問題無いと思います」
「よし。決まりだな」

 浮竹は壁の七曜表を指差し、千世はそれに頷く。彼の言う通り、虚の出現はこの所落ち着いており五日程度の休みならば報告書が溜まっていたとしてもたかが知れている。さて何をしようかと相変わらず思案をしながら、浮竹がその七曜表に筆で印をつける様子を眺めていた。
 自分の連休でもないというのに、もし此処へ訪れた隊士に指摘されたらどうするのだろう。そう細かい事を気にする者は少ないだろうが、千世の休みのために引っ張られた直線を見ながら僅かにざわめいた。

「俺も、夏休みを取ろうかと思ってね」
「ああ!そうなんですか…それは良かったです。隊長、あまりお休み取られないので安心しました…いつですか?」
「来週のこの辺りだよ」
「…え?」

 つい先程線を引っ張ったその場所を筆の持ち手で軽く指す浮竹に、千世は疑問符を浮かべた。それじゃ私と同じじゃないですか。突拍子もない冗談でも言っているのかと思い、取り敢えずと笑った。まさか隊長と副隊長の連続休暇が同時期になるというのはあり得ない。いや正しくは、聞いたことがない。
 敢えて休みを被せる意味もないというのが通常の隊で、大体長期休暇などはずらして取っていると檜佐木からは聞いたことが有る。万が一にも何か想定もしないような出来事が起きた際、上官二名が不在というのは褒められた事ではない。
 そういったリスクを回避する意味でも、同じ期間に休暇を取るような選択をまさか浮竹がする筈がないと思っていたのだが。

「まさか本気で仰ってるんですか」
「勿論。ただ、まるで同じ期間では流石に不自然だろうから、千世とは一日ずらすつもりだよ」

 彼の表情を見るに、確かに冗談で言っているわけではないのだろう。だがしかし。
 彼との交際が始まってからというもの、専ら二人で過ごすのは彼の屋敷と限定されていた。公には出来ない関係上、人の目に触れることは避けるのだから致し方ない。休日に何処かへ出かける事など出来る訳も無い。旅行など以ての外だ。
 そうして仕方がない事だと分かっていたから、特に不満があるわけでは無かった。彼と他愛無い休日を過ごすことはささやかながら幸せであった。だが、二人で休日を合わせ外出するような日を夢を見ていなかったかといえば、それは嘘になる。

「でも隊長…」
「隊長と副隊長が同じ時期に休みを取ってはならないという決まりは、確か無いだろう」
「それは確かに…そうかもしれませんが」
「仙太郎も清音も居る。何か有れば地獄蝶か伝令神機で連絡を貰えばいい」

 彼の言う事は至極ご尤もであるが、しかし素直に頷けない。魅力的な提案である事は間違い無かったがそれ以上に上官二人が不在になる事への不安や、何より同時期に休暇を取る事であらぬ疑いを掛けられた場合それは彼への迷惑になる。
 一日ずらすなど小細工をすることによって、勘の良いものだったら余計に疑いそうなものだ。隊を放って二人で休暇などと知られれば、彼が今まで実績と人柄を持って積み上げてきたものが崩れはしないだろうか。いや、放るという訳ではないのだが、そう捉えられる可能性も無い訳ではない。
 彼のことだからまさか思いつきで言い出した事でないとは思うが、しかしあまりに唐突だ。嬉しい思いよりも今は困惑のほうが勝っている。千世のその様子を想定はしていたのか、浮竹は困ったように笑った。不安かい、と問いかけられひとつ頷く。

「実のところ、俺も不安では有るんだが。隊を空ける間は京楽が気に掛けてくれると言うし、…偶には、言葉に甘えてみようかと…」
「京楽隊長がですか…?」
「ああ…実は先日の隊首会で顔合わせた時に、京楽と休暇の話になってね」

 思いもしない名前の登場に、千世は首をかしげる。
 二人でふと夏季休暇の話題になり、千世とは何処かへ出かけることは無いのかと尋ねられたようだ。いくら公に出来ない関係であっても、まるで無い訳ではないと京楽は思っていたようだが、一度として無い事を伝えれば呆れられたのだという。
 盆を過ぎた今の時期ならば虚の出現も落ち着いて居るから、休暇を合わせて取ったらどうかと彼に背を押されたようだ。そういう事かと千世は頷く。

「今まで時機を窺ってはいたんだが、中々そうも行かなかっただろう。…京楽に背を押されてというのも恥ずかしい話だが、どうかと思ってね」

 彼はそう言って、控えめに笑む。不安をあれこれと思い浮かべながらも、嬉しいことには変わりないのか胸のあたりがじわりと暖かくむず痒い。

「隊は、京楽隊長が見て下さるとしても…やはり怪しくはないでしょうか。流石に一日ずらしただけでは…」
「もし、もともと疑っている者が居るならば、怪しいと思うだろうな」
「…つまりそれは、問題ないということですか」

 疑っている者は居ないという前提での話ならば、確かにそうだろう。人前での態度には十分気を遣っているつもりで、今まで迂闊な真似をした覚えはない。だが万が一ということもあるだろうと、しかしその可能性を考えればきりがない。
 彼自身が問題ないと判断をしているのならば、そしてその上で千世と休暇を合わせたいと考えてくれているのだから、これ以上はただの強情だろう。本心を言えば庭を駆け回りたいほどに嬉しい。
 二人で過ごす夏休みなど、何をしようかと考えるだけで胸が躍る。一人で過ごす連休を思った時は憂鬱にすら近い感覚だったというのに、今はその真逆だ。まるで子供のように素直な純粋さが多少恥ずかしいとすら感じる。
 それならば、とようやく頷いた千世に、彼はほっとしたような表情を見せた。

千世の説得が一番の難所だと思ってた」
「それは…何と言いますか、すみません……」

 本当ならば二つ返事で答えたい所だったのだが。自分の性格を隅々まで把握されていることが少し気まずく、しかし何処か嬉しいとも感じてしまう。
 ああそうだ、と千世は顔を上げ口を開いた。

「休暇中に何をするか、考えないとですね」
「ああ、それならもう考えてる」
「あ、……そ……そうなんですか…?」

 千世のはっとした顔に、浮竹は微笑む。微笑むだけで、何を考えているかというのは今は未だ教えてくれないようだった。図らずもまた胸が躍る。休みを合わせて予定を立てるなど今まで経験したことが無い千世は、世の恋人たちはこんなにも楽しい気分を味わっていたのかとまるで夢うつつだった。
 綿菓子を延々と口の中で溶かし続けるような甘い感覚が、じわりと広がり自然と口元が緩む。畳の上に置いていた書類を再び手にし、浮ついた足取りのまま頭を深く下げる。彼の執務室からふらりと廊下へ出れば、いつもと同じ筈のつまらない板張りがどうしてか新鮮に見えた。

(2021.08.23)