夕立

おはなし

 

 今日は終日晴れだと聞いていたのだが、夕立というのは予報外なのだろうか。
 終業時刻を迎え、珍しく予定通りに仕事のキリがついた千世は定時で執務室を出た。夏の日長は彼の屋敷へ向かう道中、非常に厄介であった。比較的人通りの少ない道は熟知していたが、人が全く通らないという訳ではない。
 精神を研ぎ澄まし、少しでも霊圧を感じるようなことがあれば近隣の屋根の上や茂みに姿を隠すか、場合によっては瞬歩で引き返すか大きく追い越すくらいしか方法がなかった。日が落ちた夜であれば多少誤魔化しが効くのだが、この明るさではそうも行かない。
 幸いにも今まで鉢合わせたことは無いのだが、もしもの事を考える事は危機管理として重要であった。何をしているのかと聞かれでもすれば、上手く誤魔化せる自信が無い。
 しかし今日は突然の夕立に遭い、更にはあろう事か顔見知りの姿を道の向こうに見つけ迂回をする事になってしまった。こんな時に限って。隊舎を出た時は晴れ渡っていたから、まさか傘など持っている筈もない。轟くような雷の後、明るい空から降り注ぐ雨を浴びながら大きく道を廻る。不本意ながら、塀を乗り越え庭から帰宅することとなった。
 屋敷に近づくにつれて雷を伴っていた雨脚は急激に弱まり、庭に降り立つ頃には先程の強雨など嘘のように空は晴れ渡っていた。予感はしていたが、こう見事に光が差すと頭の先から爪先までずぶ濡れの自分が滑稽に感じる。まるで着衣のまま湯船に沈んだかのような濡れようだ。
 縁側で本を片手に碁盤へ向かっている姿は、突然庭に現れた千世に特に驚く事もない。ずるずると引きずるように彼の元へ近づけば、おかえり、と手にしていた本を床に置いた。

「…夕立にやられました。人に会いそうにもなって、廻り道を…」
「色々と、運が悪かったようだな」

 そう笑うと、待っていなさいと一言残して立ち上がる。べったりと身体に張り付く肌着と死覇装が、西日に蒸されてゆく感覚が不快だ。すぐにでも脱ぎ去りたいのだが、流石に庭で脱衣というのは気が引けるし、まさかこの状態で部屋に入れば足元に水溜りを作ってしまう。
 残された碁盤を眺め彼の帰りを待つが、盤面で何が起こっているのかというのは千世にはまるで分からなかった。
 少しして、手ぬぐいを何枚か持って現れた浮竹は縁側に腰を掛け手招きをした。素直にその傍へ近づくと、一枚を手渡された。拭えということらしい。
 仰る通りに手ぬぐいを死覇装に押し付けていれば、突然広げた手ぬぐいを千世の頭へと被せた。何かと思えばわしわしと掴むような、擦るように撫でつけられ千世は俯きながらぐらぐらと頭を揺らす。濡れた髪の水分が、その強引な手つきで徐々に拭われてゆく。
 そう揺さぶられながら衣服の水分を拭っていたものの手ぬぐい一枚では到底足りず、軽く絞るように握る。早くも乾き始めていた、水はけの良い土の上を濡らした。

「昔、隊に時折遊びに来ていた黒猫を思い出した」
「猫…どうしてですか?」
「それが人懐こくてな、雨の日はよく雨乾堂へ雨宿りに来てくれてたんだよ。濡れた毛をよく拭ってやってた」

 浮竹の言葉に、千世は顔を上げる。濡れた猫を拭う感覚と同じだったということか。どこか満足そうに見える彼の表情に千世は何と返せば良いか分からず、二度ほど小さく頷いた。
 今でも時折何処からともなく現れる野良猫に構っている様子を何度か見かけていた。目線を合わせるように屈み、背を丸くし優しくその額を撫でて目を細める様子を思い出すと、そう悪い気分ではない。
 空気を通すようにごしごし擦る彼に、なされるがまま頭を揺らす。そういえば、とふと口を開いた浮竹に、俯いていた顔を上げた。

「昔は神立なんて言っていたか」
「かんだち…?何をですか」
「夕立の事だよ。もともと雷は、神が天から降り立った時に轟くものと思われていたようでね、それを神立と言ったんだ。そのうち、一瞬の雷雨の事をそう呼ぶようになったみたいだな」

 その神立が、また時が経つにつれ夕立と呼ばれるようになったのだという。初めて聞く言葉に、へえと千世は小さく声を漏らす。晴れ渡った空に突然暗雲が立ち込め、激しい雨が地に打ち付け雷鳴が轟く様子は確かに神の気まぐれかとも思える。
 夕立とは実際は気温や湿度の関係で、今ならば科学的に説明のできる事象なのだろうが、あまりに唐突で一時的などしゃぶりに昔は神の仕業だと思ったのかも知れない。
 手ぬぐいで包まれていた毛先が開放され、軽く首元を拭われる。ずぶ濡れだった身体は、幾分か水分が飛びはじめほどの不快感は薄れていた。

「さ、風邪引くだろう。風呂を沸かしてきているから入ろうか」
「ありがとうございます、少し冷えてきた所だったんです」

 手ぬぐいを取るついでに湯船を溜めてくれていたようだった。蒸し暑さがぶり返し始めたものの、身体に張り付く水分は蒸発とともに体温をじわりと奪う。熱い湯船に浸かる事が出来るのは有り難かった。
 しかし、頭を下げた後にふと彼の言葉を思い出し、はっと顔を上げる。袖を捲くりながら立ち上がる浮竹は、特に気にすることなど無いように千世を促した。

「入ろうって、隊長も入るんですか」
「拭いたついでに洗ってやろうかと思ってね」
「…それって、猫のことまだ思い出してませんか」

 千世の言葉に浮竹は笑うと、部屋の半ばまで歩を進め早くおいでと手招きする。あまりに唐突な展開で心の準備が出来ていなかったが、そう笑顔で呼ばれれば自然と足が動く。
 まだ水分を含んで重い身体を引きずりその背をひたひたと追いかけながら、彼の唐突な気まぐれに僅か口を緩めた。

2021/08/19