ほつれ

おはなし

 

 慣れない事をしている自覚はあったが、こればかりは仕方ない。指先で摘んだ縫い針の小さな穴に必死で糸を通そうと試みるが、そのあまりの細かさに目を何度も瞬く。ここだ、と糸を進ませてもしかしその羽虫も通れぬような穴を拒むようにぐにゃりと曲がる。
 手元の焦点が合いにくくなって来たのはここ最近のことで、所謂これが老眼というものかと多少落ち込んでいた。あまり認めたくない事実だったから、眼鏡に頼らず騙し騙し過ごしてきたのだが流石に針仕事では誤魔化しが効かなかった。
 というのも、盆栽の剪定中枝に引っ掛け、隊長羽織の袖口を一部ほつれさせてしまったのだ。あまりにひどい損傷であれば一番隊に掛け合い交換という事にもなろうが、この程度は自分で処置しなければならない。もともと丈夫な作りだから普通に過ごしていれば特に汚すことなども無いのだが。
 どうして庭仕事の前に脱いでおかなかったのかと後悔するが、まあ特に何も考えていなかった。帰宅後気まぐれに庭に出たらふと松の枝が気になり、そのまま剪定を始めてしまったのだ。
 とはいえ長い隊長生活でほつれ程度は何度も経験しており、申し訳ないと思いつつ恥を忍びながら針仕事が得意な隊士へ頼んでいた。だが、今日は自宅での出来事でそういう訳にも行かない。

「帰られてたんですね」
「ああ、少し前に…千世は、買い出しに行ってくれてたのかい」
「はい。夕飯の食材が足りなかったので」

 何されてるんですか、と千世は浮竹の手元に気づき荷物を下ろすとその傍らへ腰を下ろした。

「ほつれてしまったんですか」
「ついさっき、此処を松の枝に引っ掛けてしまってね…だが、まず針に糸が通らないんだよ」

 浮竹がそう困ったように伝えれば、少し笑って手を差し出した。貸してくれという事らしい。心苦しいと思いながらも正直なところ、少し期待してしまった。千世もそれは感じていたのだろう、しょうがないとでも言うような様子で針と糸を受け取る。
 器用なもので、針の小さな穴に難なく糸を通すとあっという間に玉結びを作り糸切り鋏で糸を断つ。差し出した片手に羽織を載せてやれば、ほつれた袖口の部分をいとも簡単に縫い上げてゆく。手早いがしかしそれは丁寧なもので、思わず感心する。
 何という事のない動作で玉留めを済まし、余った糸をぱちりと切った。軽く引っ張りその部分を確かめるように裏表を見返し、何も問題がなかったのか満足そうに頷いて浮竹へとその羽織を戻した。
 ものの数分の出来事に、糸通しで数十分を費やした挙げ句通すことすら叶わなかった自分が情けない。出来ない事を諦めて他人に頼るというのはあまり褒められたことではないが、針仕事ばかりは仕方がないのだと内心、誰宛かも分からない言い訳をする。
 助かった。そう心からの礼を伝えれば、千世は満足そうに笑う。

「私、実はいつかほつれ直しを頼まれないかなって待ってたんです」
「…待ってた?」
「たまに、隊長の羽織や死覇装を他の子が直してるのを見て…なんだか、その…良いなと思って…」

 どうして、と思わず尋ねる。他人のほつれを直すなど、きっと面倒な作業に違いないと思っていたからだ。他人が勝手にほつれさせたものを、わざわざ自分の時間を割いて直してやるのだからそんな面倒なことは無いだろう。
 だから針仕事を頼む時は心苦しいやら申し訳ないやらだったのだが。

「それは、何と言いますか…」
「ああ…悪い、答えにくい事だったか」
「いえ、そういう事ではなくて、言葉にしようとすると…気恥ずかしいと言うか…」

 彼女がもごもごと目を伏せたから、つい興味で尋ねてしまった事で悪い気にさせたかと思った。しかし、そういう訳では無いらしい。

「つまり、私の直した部分が、つまり隊長の…ずっと傍に居られるなら、その…嬉しいなと思って…」

 徐々に尻すぼみになる千世はぐったりと俯いている。余程口に出すのが気恥ずかしかったのか、そのまま石のように固まった様子を見て浮竹は笑った。なんと細やかな愛らしい願いなのかと、思いもよらぬ場所へ向けられていた彼女の羨望に、口元を緩めずには居られなかった。

「これからは、千世に頼んで良いのかい」
「それは!勿論です」

 千世は勢いよく顔を上げると、ぎゅっと眉間に皺を寄せ当たり前だとでも言うように頷く。今日はもうこれからこの家で過ごすだけなのだから、隊長羽織を身につける意味もないというのに、浮竹は膝に置いていた羽織を広げ袖を通した。
 先程松の枝先で引っ掛けほつれた袖口は、綺麗に閉じられている。上手いもんだと再び感心して呟けば、彼女は照れたようにまた目線を下げた。
 いわば彼女がその貴重な人生の時間を僅かでも割き糸を通してくれた場所は、この羽織を身につける限り、その時間と共に過ごすという事になるのだろう。彼女の言葉を反芻しながら、袖口を見つめる。
 その時、あの、と彼女の微かな声が耳に入りふと顔を上げた。少し口をとがらせ、落ち着かない様子にその次の言葉を待つ。

「…これからは、私だけに頼んで下さい」

 ようやく彼女の口から零れた言葉に、浮竹は思わず息を潜める。僅かに覗いた彼女の素直な嫉妬心は、恐らく恋人となる前から細く続いていたものだったのだろう。他の者が針を通す姿を見る度、燻るものを抱え、密かに募らせていたのだろうか。
 頼むよと、そうようやく答えると彼女は安心したようにふうと息を吐きぎこちなく笑う。きっと彼女が奥底に募らせていたものは今手放す事が出来たのだろう。しかしそれと引き換えかのように、袖口に通された糸は、浮竹の中に潜むいい得も知れぬ感情に細く結びついたようだった。

2021/08/15