線香花火

2021年8月10日
おはなし

 

 人の感情を持つ者とは愚かなもので、欲の際限を知らない。都度都度、満足する水準というのは存在するが、超えた時その先を求めようとする。恐らく、身体の奥に備わる本能であって無意識の欲なのだろう。
 それを恐ろしいと感じるようになったのは、ある歳を超えた頃だった。それまでは大して意識をしたことはなかった。むしろ、欲を感じる事は美徳であると思った。知識欲、力を求め日夜鍛錬に明け暮れたものだった。若いうちはそうして無限に広がる明日を目の前にして、ただひたすらにその歩みを進めていた。
 自分の前に続く未来が、後ろに伸びた軌跡よりも短くなったと気付いた頃、それが老いなのだと知った。死が身近である職業柄、死に対しての恐怖というものはたかが知れていた。だが何より恐ろしいと感じたのは、さだめを知りながらも、しかし欲というのは湧き、あろうことか新芽のように伸び続ける有様をまざまざと目の前にしてからだった。

「…隊長、大丈夫ですか」

 顔を覗き込まれ、思わずびくりと身体が跳ねた。途端に、ぽたりと火玉が土の上へ落ちる。落ちた火の玉は、暫く土の上で火花を散らした後黒く固まった。
 思わずああ、と声が漏れる。指先が震えぬようしっかりと腕を固定していたのだが、そのか細い火花を見つめているうちについ考え込み意識が遠くへ向いてしまった。

 大丈夫ですか、ともう一度心配そうに尋ねる千世に、浮竹は軽く笑う。大丈夫だよと、そう返せば、彼女はほっとしたように柔らかく笑んだ。すぐ近くに立てている蝋燭の淡い明かりが、その顔を照らす。
 良いものを手に入れたと、数時間前に意気揚々と帰ってきた千世の手には線香花火が握られていた。懐かしい。ここ数十年、空に上る花火は眺めることがあっても手元の花火を楽しむことはとんと無かった。
 部屋の行灯を消し蝋燭の明かりをつけ、二人で庭へ出た。広い庭だというのに、二人で一箇所に固まり、しゃがみこんで線香花火を眺める。先に溜まった火薬へ蝋燭の炎が燃え移り、やがて赤い玉を作る。ぱちぱちと可愛らしい火花が夜の闇の中幻想的に散る様子に、思わず目を細めた。
 やがてその可愛らしい火花は激しさを増し、火玉を中心にしてあちこちへと飛び散る。その愛らしさに目を細めていれば、火玉を揺らしながら残り少ない火薬をちりちりと焦がした。小さな火花を最後に散らし、その終わりは実に物悲しい。

千世は上手いな」
「隊長がへたっぴなんですよ」
「下手と言われてもな…どうしても途中で火玉が揺れて落ちる」

 そう呟けば、千世はおかしそうに笑う。線香花火はコツが有るのか何なのか知らないが、得意な者というのは必ず居る。千世はそちら側のようで、今日はじめてからまだ一度として失敗していない。
 悔しいという訳でもないが、千世が最後まで線香花火の命を全うさせた様子が少しばかり羨ましい。もう一度と、浮竹は線香花火を手に取った。

「一緒にやりましょうか」
「…一緒に?」

 千世の言葉にふっと顔を上げれば、千世は笑って浮竹が線香花火を摘む指先を支えるように指を重ねた。一緒にとはそういうことかと、その重なった指先を見て笑う。蝋燭の炎はちりちりと和紙を燃やし、火薬へと移った。
 ぱちぱちと、独特のかすかな重みをこの指先に感じる。千世も共に感じているのだろう。何時もならば此処で落ちてしまう火玉も、彼女の支えのお陰もあってか実に落ち着いて見える。大きく花開く火花と、耳をくすぐるような可愛らしく弾ける音は実に鮮やかだ。
 その盛り上がりを見せる中ふと顔を上げ、彼女の顔を見た。瞳には手元で弾ける火花がきらきらと映り、穏やかに優しく笑んでいる。折角手元でその形を保ち美しく散っている様子を眺めずに、気付けば彼女の事を見つめていた。
 あ、と悲しげに眉を上げた千世の表情に、手元の命が終わりを告げた事を知る。

「もう一度、一緒に頼めるか」
「勿論ですが…でも、最後の一本ですよ。良いんですか?」

 浮竹はひとつ頷くと、線香花火を摘んだ指をまた差し出す。その上へまた同じように重なった指先の熱が心地よい。
 再び炎が燃え移るのを見届けると、また飽きもせず線香花火を見つめる彼女へと目を遣る。何を思って居るのだろう。他の誰より彼女を知りその傍に居たとしても、それでもなお満ち足りることはない。
 彼女が知り感じたことを、同じように知り感じたいと思う。だが知ったところで、感じたところでどうする訳でもなくただそれは、無限に伸びる彼女への欲をささやかに満たすだけだ。
 手に入れてもなお、腕の中に収めておきたいと思うほどの際限のない欲を覚える度に恐ろしい。有限の時間の中その欲だけは果ての無いように思え、そのちぐはぐとした感覚を理解し飲み下す術を知らなかった。
 彼女と出会わなければ、その愚かしい感情を知ることも無かったのだろう。だが彼女と出会わなければ、この庭の青臭さも生ぬるい夜風も、線香花火の命の長さも知ることは無かった。思い返せば取るに足らない事ばかりだ。しかしその取るに足らない事ばかりがどうしてか鮮やかに色づき脳裏に焼き付く。
 願わくば彼女もまた同じであれば良いと、そう思うくらいは良いだろう。これは欲ではなく単なる願いだ。彼女にとってもこの他愛のない瞬間が色鮮やかに焼付き、その記憶が僅かでも彩られるようにと。そう願うくらいであれば、きっと罰は当たらないだろう。

2021/8/10