膝枕

おはなし

 

 重い、と千世は膝を見下ろし小さく呟く。成人男性の頭とは思っていたよりも軽いものだとはじめは微笑んでいたのだが、こう長い間ぐっすり眠られてしまうと流石に足が痺れ始めるというものだ。
 今夜が綺麗な満月だと気づいたのは隊舎からの帰り道だった。空に浮かぶ月が普段よりもずっと距離が近くあまりに見事なものだったから、この屋敷に帰ってからも部屋の灯りすら点けずに縁側へ腰を掛け眺めていた。
 やがて帰宅した浮竹も同じように月を追って帰ってきていたのか、部屋へ入るなり迷わず千世の横へと腰を下ろした。それから互いにぽつぽつと、何ということのない会話を交わす。隊でこんな話を聞いたとか、処理した書類がどうったたとか。敢えて話す必要も無いような、実にどうでも良い事ばかりだ。
 まだ挨拶しか出来なかった頃が懐かしい。いや、挨拶すらままならない事もあったか。床に伏しがちの浮竹の姿を隊舎で見かけることはあまり無く、珍しく見かけたとしても大抵他の隊士に声を掛けられ足を止めている姿ばかりだった。
 必死に何か少しでも会話を交わそうと、浮竹と隊舎ですれ違った場合の為の話題のいくつかを頭の中に溜めていた程だった。だが結局そう思い描いた通りには行かないもので、折角隊舎で姿を見ても背筋を伸ばし、せめてその目を見て挨拶をする事が当時の限界であった事が懐かしい。
 時の流れとは時折不可解だと思う。当時の自分からすれば、挨拶をする事でさえ息が詰まるほどの緊張をしていた相手が今こうして膝の上に頭を載せすうすうと寝息を立てている事など、到底想像が及ぶはずもない。
 膝から縁側の板張りへ垂れる長い髪にそっと触れ、起こさぬよう柔らかく手櫛を通す。月明かりを浴び、浮かび上がるような色味を持つその白髪を指に絡ませ見つめた。いつも風呂上がりに手ぬぐいで水気を取りながら、手入れが面倒だから次は短くしてしまおうと口癖のように言うが、結局はその長さを保っている。
 千世が初めて浮竹と出会った時、既にその髪は肩よりも長かったと憶えている。格子窓から差し込む光を柔らかく反射するその長い白髪に思わず見惚れたものだった。懐かしい記憶を思い返しながら、指先に絡ませたその髪をそっと口元へ近づける。
 とその時、千世、とその薄く開いた唇から呼び掛けられた。ぎくりと固まり、千世は息を止める。と恐る恐る彼を見下ろせば変わらずすうすうと寝息を立てている。

「…寝言…?」

 あまりの間合いの良さに、髪へ口づけようとしていた事への牽制かと思った。寝言だったのだろうか。それにしては、やけにはっきりと名前を呼ばれたのだが。
 寝ている相手に対してあまり妙なことはするものではないと、僅かに速度を上げた心拍を落ち着けるよう大きく息を吐く。手に絡ませていた絹糸のような髪は、ばらばらと落ち板の間に散らばった。
 それにしても、重い。起こさないよう僅かに体勢を変えて血の巡りを良くしようと思うが、あまり変化が無く諦める。
 もともと、珍しいと思っていたのだ。二人で空を見上げていると、特に断りも無く空いていた膝の上へ頭を乗せるように寝転んだ。膝枕など今までせがまれたことは無い。突然のことにどきどきと見下ろし、どうしたんですかとしどろもどろに尋ねてみれば彼は笑み、答えを貰えないまま目を瞑ってしまった。
 しかしこう長い時間占領される事になるとは思っていなかった。彼を膝に載せたまま暫くは月を見上げていたのだが、気づけば寝息を立て始めていた。何度か小さく呼びかけはしたのだが起きる気配は無い。
 心地よさそうに眠る様子は、無理に揺り起こすというのも憚られ結局、満月どころではなくその寝顔を見つめていた。こうして何の後ろめたさもなく眺めることが出来るのは、膝枕の特権だと思う。だが困るのは、ついその姿が自分だけのものと錯覚して触れたくなるという事だろう。
 髪くらいならば、神経も通っていないから起こす心配もなく触れても良いかと思った。正しくは、我慢ができなかったという事だ。しかし欲を言うのならやはりその肌に触れたいと思う。頬や額に触れ、あわよくばその唇に触れたい。
 熱を帯びた視線で見下ろしている事に気づき、ふと我に返り目をぱちぱちと瞬く。

「…駄目だ、何してんだろう」

 触れたらきっと起こしてしまう。折角心地よさそうに眠っているというのに、己の身勝手な欲求で妨げる事は出来ない。悶々とする思いから逃げ出すように、千世は天を仰ぎ息を吐き出した。その時、膝の上で何やらふふと息の漏れるような音が聞こえ再びぎくりと固まる。
 恐る恐る見下ろせば、ぱっちりと目を見開いた浮竹と目が合う。どうしたんですか、と尋ねる事も出来ずにその目を見返した。

「待っていたんだが、まだ掛かりそうだったからな」
「…そ、それはずっと起きてたって事ですか」
「いや、少しは眠っていたよ」

 そうにこりと微笑み、一つ伸びをする。彼の髪に口づけようとしていたあの瞬間はどうだったのかと確かめたいが、墓穴を掘る事が目に見えている。狸寝入り相手にあれこれ悶々としていた事を思い出し、込み上げる羞恥を飲み込んだ。

「…何を、待ってたんですか」

 千世が小さく尋ねれば、何だと思う、と膝の上で彼は笑う。その身体をゆっくりと起こしまた一つ伸びをすると、千世へと身体を向けその距離を縮めるように寄せた。心臓がばくばくと鳴りつづけている。
 質問に質問で返すのは狡いと、そう思っては居ても言葉が出ない。乱れた心の内など見透かしているような眼差しを向けられ、すぐ鼻先の彼は微笑む。纏うその穏やかな空気はまるで千世のそれとは真逆で、再び燻りだす悶々とした思いは熱を帯びていた。
 僅かな月明かりがその虹彩を鮮やかに輝かせる。絡むような視線を返しながら、背伸びをし少し腰を浮かせると、その三日月のように緩やかに弧を描く唇へ寄せる。軽くなった膝の上には、まだ甘い痺れが残っていた。

2021.08.05