瀞霊廷外れにて

2021年8月1日
おはなし

 

瀞霊廷外れにて

 

 瀞霊廷も中心地から多少離れると草木の豊かな場所が存在する。特に何が在るという訳ではなく、敢えて足を踏み入れるような者はよっぽどの物好きだろう。
 あまり隊舎へ顔を出す事に気乗りしないような日は、こっそりと昼間から開いている居酒屋に顔を出したり目立たない背の高い建物の上で過ごす事が多い。と言っても、気乗りしない日が殆どなのだが。
 勿論その状況を副官である七緒がまさか許してくれる筈は無く、大体は居場所を特定され連れ戻される。彼女は口癖のように好きで連れ戻している訳ではないのだと言うが、それは仰る通り分かっている。
 だが致し方のないことで、そう強制されるほどにやる気というのは減退してしまうものだ。だからこちらも逃げたくて逃げている訳ではない。そう一度彼女に軽口を叩き、かつて無い怒りを買ってしまった事は記憶に新しい。
 しかし頼まれている仕事は期限までには必ず済ませるようにしていた。伊達に隊長職に長い間就いている訳ではない。期限遅れで七緒が一番隊から叱られる状況にだけはならぬよう、その辺りの塩梅は分かっている。だが勤勉な彼女の事だから、崖際を歩き続けるような状況が耐えられないのだろう。
 さて、と腰に引っ掛けていた瓢箪徳利を手にして腰を下ろす。丁度この辺りは丈の短い草原で、開けた高台だから風の通りも良く実に心地の良い場所だった。眼下には豊かな緑と、その先には隊舎の屋根が見える。
 この場所を知ったのは数えれば気が遠くなる程昔、まだ学院に通って居た頃だ。護廷隊の訓練場を使用しての模擬戦闘訓練の最中、あまりの退屈さに浮竹へ抜け出さないかと持ちかけた。護廷隊の隊舎に入り込める事など滅多に無いことで、好奇心を抑えきれなかったのは若さ故だ。
 生真面目な浮竹は勿論渋ったものだ。先生に見つかれば大目玉だと、いや大目玉どころでは済まないぞと顔を顰める。しかし模擬訓練といっても、今は未だつらつらと御託を並べているばかりで中々始まりそうにない。この調子では実際に刀を握るまでにもう二時間は掛かるだろう。
 そうこそこそと説得を試みていれば、やがて腑に落ちてしまったのかそれならばと浮竹は頷いた。半ば諦めかけていた程頑なだったのだが、惹かれる何かがあったのだろうか。幸いにも二人は最後列に腰を下ろしていた為、退屈な授業から抜け出すことは容易だった。
 細かいことは流石に忘れてしまったが、隊士に見つからないよう身を隠しながら隊舎を回ったものだ。道場や稽古場、食堂や庭などを自由に闊歩する死覇装姿の死神を覗き見思いを馳せたものだった。
 懐かしさに目を細め景色を見下ろしていたその時、何やら背後から声が聞こえ京楽は軽く振り返る。聞き覚えのあるような声音に思え、その姿が木陰から現れるのを待った。

「京楽…お前も此処に来てたのか」
「おや、珍しいねえ」

 目を丸くした浮竹と千世が現れ、そのぽかんとした様子に京楽は笑う。二人で連れ立っている様子を見るのは久方ぶりのように思う。隊長と副隊長が行動を共にする事は珍しくないというのに、彼らは意識して避けているのだろう。
 それが逆に怪しいと言えば怪しいが、敢えて疑うようなひねくれ者と今の所出会った事は無い。まるで我が物顔でおいでよと手で招くと、二人は短い草を踏みしめながら京楽の横へと腰を下ろした。

「京楽隊長はサボりですか」
「人聞きが悪いよ千世ちゃん。仕事の合間に息抜き中」
「酒を片手に良く言うよ」

 呆れたようにため息をつく浮竹に、京楽はじっとりとした目線を返す。

「そっちだってサボりじゃないの?菓子折りと封書持って」
「まあ…つまり、休憩だよ」
「ほらボクと一緒じゃない」

 話を聞けば七番隊の狛村に用があり、二人で立ち寄った帰りなのだという。どうりでかしこまった様子だった。
 しかしまあ珍しい事だ。浮竹から時折聞く話では、二人きりで過ごすのは専ら彼の私邸ばかりで遠出の機会など人目が有るから皆無だという。いっそ関係を公にしてしまえば楽なのだろうが、現実はそう簡単な話では無い。
 折角だから何処か二人で休もうかと思いついたのがこの場所だったのだろう。この場所ならば誰かが来るという事はほぼ無い。人目を避ける二人に最適の場所だったのだろうが、偶然にも居合わせてしまった。限られた時間だったろうに、申し訳無かっただろうかとその横顔を見て思う。

「懐かしいな。お前と此処へ逃げてきた事を思い出すよ」
「何百年前の話だっけね」

 京楽の言葉に、浮竹は腕を組みひとつ唸る。気の遠くなるような月日を思い浮かべれば、そう渋い表情をしたくなる気も分かる。
 二人だけの会話が気になったのだろう、浮竹の横で千世が何か聞きたげにそわそわとする様子にふと笑った。あまり自ら昔話をするような性分でもあるまい。教えてあげなよと呟くと、浮竹ははっと意識を戻し彼女の様子に気づいたのか微笑み頷く。
 授業を抜け出し瀞霊廷を見て回る学院生に手練れの死神達が気付かない筈もなく、気づけば追われる身になっていた。後々、早い時点で諦めていれば良かったとは思うのだが、物々しい雰囲気の中追い回されている時の判断力というのは著しく下がる。
 浮竹と二人、命からがら逃げ込んだのがこの場所だったというわけだ。木々が鬱蒼と生い茂る小道に入り込み、そのまま緩やかな傾斜を登り切るとこの高台へと出る。息を切らしながら見下ろした瀞霊廷の景色は、不思議なことに今でもやけに憶えている。

「それでお二人、どうされたんですか」
「警鐘を鳴らされて、脱走だの何だのと事があまりにも大きくなっていてね…大目玉覚悟でとうとう自首したよ」
「山じいからあれほど怒られたことは無かったね。まあボク達が悪かったんだけど」
「なんだかお二人のその様子、不思議と思い浮かびます」
「ええ?それどういう意味?」

 千世は答えずに笑うと、正面へと顔を向け目を細めた。
 だが、不思議なものだ。女性に対しては常に奥手だった浮竹が最後に選んだのが彼女のような子になるとは。しかし浮竹が何の葛藤もなしに彼女の手を取った訳では無いと、勿論良く知っている。
 もともと互いの女性関係を語り合うような仲ではないし、彼の遍歴なども良く存じ上げなかった。だからこそ、千世の存在というのは明らかに異質だったと、京楽は彼との長い付き合いの中で感じていたものだ。
 京楽が知る限り、当初千世はただ浮竹を慕う者の一人だったようだ。それがどういう訳でこうなったのか、紆余曲折を知っては居ても常々不思議な思いを抱く。その気がまるで無いように見えた浮竹が惹かれるほどの彼女は一体何者かと、まだ良く知る前は興味津々であった。
 姿と名前が一致したのは彼女が席官へ上がった頃だ。しかし会話をする機会もなく、見た目の印象としては至って真面目な女性隊士。これといって際立った個性はその外見からは感じられず、ただしゃんと伸びた背筋とその濁りのない眼差しだけは印象的であった。
 席位が上がるにつれて事務仕事も増えた彼女が、書類を八番隊舎まで届けに来た事があった。まともに会話を交わしたのはそれが初めてだったと記憶している。当時既に浮竹の口からは彼女の名が挙がることが増えつつあり、彼の興味を引く女性とは如何程のものかと声を掛けたものだ。

「時の流れは不思議なもんだね」
「何だ急に……感傷に浸りたくなるような事でもあったのか」
「いやさ、そういう訳じゃないんだけど。キミたちがそういう間柄になってるのが、いつも不思議でね」

 そう言って二人を見れば、何とも言えぬ表情で首を縦にも横にも振らず、ううんと少し考えるように唸った。思い当たる節があるのだろう。千世からしてみればはじめは強い憧れを抱く相手であり、浮竹からしてみれば彼女はいち隊士だった。互いに惚れた腫れたの対象外であった筈が、不思議な縁が二人を結んだ。
 だがきっと、成るべくして成った事だったのだろう。二人が同じように眉を曲げている様子を見ながら思う。

「もしかしてですが…京楽隊長、寂しいとか」
「え?」
「あれっ、いえ…違いましたか」

 急に何を言い出すのかと思えば、突然の名推理を受けて笑う。珍しく昔のことを思い出し、その流れで二人の馴れ初めを思い返していただけだ。自分の脳内では順序立っていた事でも、しかし彼女からしたら唐突に思えただろう。それはそうだ。
 確かに以前と比べ浮竹と呑んだり何だのという機会は減っていたが、流石にこの歳を迎えて寂しいとは思わない。だが、まだ若い頃なら有り得た感情かも知れない。
 名推理が見事に外れ、すみませんと千世は身体を萎めて恥ずかしそうに小さく頭を下げる。はっと思い当たり咄嗟に口にしてみたのだろう。その様子を見ながら、浮竹はまあ飽きない日々を送っているのだろうと思う。彼女の事を深く知る訳ではないが、しかしそれは彼女の素直さや聡明さであったり、行動力であったり、何より浮竹が彼女へ向ける眼差しが物語っていた。
 年の離れた関係というのはどうしても一方ばかりが寄り掛かり易く、そしてもう一方は無条件にそれを許し易い。生きた時間の差が無意識にそうさせてしまうのだろうが、その前提の上に成り立つ関係というのは脆く潰れ易い。
 彼女は経験を積み実力も相応と言っても、何より比べて未だ若い。根気強く積み上げていたものが、関係が進むことにより形を変えてしまうのではないのかと、勝手ながら頭の隅で薄っすらと憂慮していた。だが、結局それは余計な世話であったと今は思う。
 一度浮竹に、彼女をどうするつもりなのかと尋ねたことがあった。それは二人で歩むであろう近い未来の話と、そしてその先にある彼女だけの未来を含んでいた。真剣に向き合うのならば、浮竹自身について何れ伝えねばならない。彼もそれは十分に承知していたが、だが今ばかりはまだ辛気臭い話をしたくはないのだと眉を曲げ笑んだ。
 何の他意もなく、ただ大切にしたいのだろう。恐らく彼女が思うよりずっと深いものを、あの場で感じたものだった。

「そうだ、狛村隊長に戴いた菓子折りでも分けようか」
「お、いいのかい。酒のつまみになるようなものだと嬉しいんだけど」
「どら焼きと仰ってた気がしますよ」

 どら焼きかあ、と呟きながら彼女の膝の上で開かれる箱に目を遣れば、確かに質の良さそうなどら焼きが綺麗に並んでいる。そのうちひとつを千世から手渡され、そのまま口に運べば柔らかい触感が歯に食い込む。しっとりとした皮の中には粒餡が潜んでおり、甘さがじわりと広がった。
 酒のつまみには程遠いが、口寂しさを埋めるには最適なように思える。折角持ってきていた瓢箪徳利の中身は、この調子ならば今日は出番が無さそうだ。
 もぐもぐと咀嚼を続けながら横の二人を見遣れば、仲睦まじげに同じ仕草で頬張っている。好き合う同士はどうしてか似てくると言うが、そう長い間連れ添った訳でも無いというのに妙なものだ。随分とまあ平和なことだと、その力の抜けるような光景に微笑む。
 あまり運命だの何だのと不確かな精神論を説く事は得手でない。だが、めぐり合わせというものはきっとこの世に存在するのだろうと、二人の横顔を眺めれば不思議と素直にそう思うのだ。

(2021.08.01)