梅雨明け

おはなし

 

「あっつ……」

 暑いという言葉しか口から出てこない。庭からは蝉の声が聞こえるし日差しが乾いた土へ突き刺さるようなカンカン照りだ。梅雨はいつ終わったのか、束の間の晴れ間だろうか。
 畳の上で仰向けにひっくり返りながら、裾と袖を限界まで捲りあげ、限界まで肌を晒して力なく団扇で仰ぐ。温く弱々しい風が滲んだ汗を僅かに冷やすが気休めだ。
 買い出しに行ってくると浮竹か出掛けてからどの程度経ったのだろう。この暑さの中だというのに彼は朝から涼しげで、意気揚々と出ていった。時計を見るために起き上がるのも憚られる。
 昨日の夜までは涼しかったはずなのだが。今朝から突如として堪えられない暑さを迎えた。夏はいつも突然訪れる。桜が散り青い葉が出て、紫陽花が鮮やかになり始めた頃に梅雨が始まり、長雨が続く憂鬱さの束の間の休息かと思いきやこの有様だ。
 あつい、とまた一言遺言のように呟き千世は目を閉じる。もういっそ眠ってしまえばこの現実から離れられるのでは無いかと思った。だがそう簡単に意識を手放せる訳がない。
 去年はどう過ごしていただろうかと思い出すが、また同じようにこうして畳の上で溶けていたような気もする。その時、一瞬風が吹き込み汗の滲む肌を撫ぜた。風が吹けば少しは良いのだ。しかし僅か数秒後に天国から突き落とされる。
 そうだ風呂でも入ろうかと、熱の籠もった頭で考える。水でも浴びれば多少はマシだろうか。ジィジィと蝉の声が環境音となり始めていたその時、玄関の方から戸を引く音がした。途端に千世は捲くりあげていた裾を素早く戻す。

「お、おかえりなさい」
「まだそこで伸されていたのかい」
「丁度水風呂でも浴びようかと思っていたところで……あ」

 荷物を下ろす浮竹の手にあったそれが目に入り、千世は目を輝かせて勢いよく起き上がる。現金なものだとでも言いたげに浮竹は苦笑いをするが、すぐにその紙の容器に山盛りになったかき氷を差し出した。
 自分の身体が溶けて無くなるのではないかと思うほどの暑さの中、どうにか生き延びた千世にとってそれはまるで天から差し込んだ光に照らされたように輝いて見える。

「帰り道で移動販売しているのを見つけたんだよ。本当は二人分買いたかったんだが」

 二人分を買う口実が見つから無かったのだという。それはそうだろう、いくら好きだからと言い訳してもかき氷を二山一人で平らげる者はそう居ない。
 受け取った容器はひんやりと冷たく、細かく削られた氷の山からは冷気が漂う。黄色のシロップが掛かったその冷たい山には細い匙が突き刺さっていた。食べていいですか、と千世が聞けば浮竹はどうぞと穏やかに笑い答える。
 匙を取り、ひと掬い口に運ぶ。冷たい塊が口の中の温度を奪いすぐに溶けて消える。ほのかな檸檬の風味と、その冷たい心地よさに沸騰寸前かと思われた体温は緩やかに下降しつつあった。
 美味しい、というよりも気持ちが良い。昔からかき氷に美味しさはあまり求めていない。氷をただ細かく削り繊細さのないただ甘いシロップを上から掛けただけの、この単純な味が喉を落ちる瞬間が堪らなく気持ち良い。
 正座をしてかき氷を口に運んでいれば、浮竹がその正面へと腰を下ろした。

「隊長も早く食べてください」
「俺は良いよ。千世が食べなさい」

 匙に乗せて差し出した氷を目の前に、浮竹は首を横に振る。嫌いな訳でも無いだろうが、そう言うのならと千世はその匙を自分の口の中へと運んだ。何度か食べないのかと聞くがその度同じように首を振り、千世が食べなさいと笑う。
 千世がそうしてかき氷を口に運ぶ様子を、浮竹はにこにことやけに嬉しそうに眺める。食べる様子を眺められるのはあまり得意では無かったが、しかし早く食べなければ溶けて薄めた檸檬シロップになってしまうから仕方無しに視線を浴びつつ匙を口へ運ぶ。
 正面に陣取られている状況で、避けるように身体の向きを変えるわけにも行かない。物欲しそうな訳ではないが、どこか満足そうなその目と時折視線を交わらせてはそわそわと逸した。

「…本当に食べないんですか」
「俺の事は気にしないで良い。…ほら、早くしないと最後の欠片がもう溶けるよ」

 指をさされ、千世ははっとして最後の氷の欠片を掬い上げた。舌の上で一瞬で溶けてゆく氷の纏ったほのかな檸檬の風味が喉にへと落ちてゆく。紙の器には、黄色がかった水分が薄く溜まっていた。

「私だけで食べ終わっちゃいましたよ…隊長、かき氷嫌いじゃないですよね」
「勿論。今日のような暑い日は特にな」
「じゃあどうして…私、もう一つ買ってきましょうか」

 千世の言葉に浮竹は笑って首を振るから、悩んだように眉を曲げてひとつ唸った。好きなものを目の前にして、他人に全て与えてしまうなど千世には考えられない。が、浮竹が相手ならば差し出してしまうかも知れないとふと自分に置き換えた時に思った。
 大好きな蜜柑が一つだけ二人の間にあったとして、もし彼が物欲しげに見ていたならばきっと千世は喜んで差し出すだろう。その蜜柑を美味しそうに頬張る様子を見て満足するに違いない。それはもしかしたら、自分で食べるよりも価値のある蜜柑だと思うのかも知れない。
 そういう事なのだろうかと、優しく微笑む彼を見ながら思う。だが直ぐになんと図々しい事を考えているのかと、その夢想を吹き飛ばすように脇に置いていた団扇で仰いだ。一人で勝手に想像を膨らませて恥ずかしい。折角涼しくなりつつあったというのに、不用意に体温を上げてしまった。

「ありがとうございました、かき氷」
「どういたしまして。美味かったか」

 それはもう勿論、とそう大きく頷いて見せれば浮竹はそれは良かったと頷いた。その様子がやけに嬉しそうで満足気に見え、先程の妄想に近い解釈がちらつく。都合良く解釈しようとする思考回路は、この夏の暑さのせいなのだと蝉の声を耳の奥で反響させながら決めつけた。

2021.07.18