マニキュア

おはなし

 

 器用なものだな、と浮竹は感心したように呟く。独特のツンとした香りにはじめは顔をしかめていたものだが、その鮮やかに色づいていく様子に興味が湧いたようでやがて千世の正面に腰を下ろしていた。
 机上に置いた手のひらの指先に、小さな刷毛を滑らせる。肌の延長だったその部分が鮮やかな紅色に変わる。爪からはみ出ないように丁寧に紅色を重ねてゆく様子の何が面白いのかは知らないが、ちらりと浮竹の表情を見れば興味津々といった様子で見つめていた。
 このマニキュアという爪化粧は先日、現世の土産品として松本から貰ったものだった。尸魂界でも現世品を取り扱う店では少し前から販売を始めていたようで、その存在は千世も知っていた。
 指先を飾る事など今まで考えたこともない。しかし流行に敏感な女性隊士たちが綺麗に色づかせる爪を実際に見てみれば、それは不思議と心揺らすものだった。
 そんな折に、松本から土産として渡されたマニキュアをその場で彼女が綺麗に施してくれたのだった。紅色が爪を彩る様を見た時の、言い得ぬ高揚感を今でも忘れられない。
 真っ先に見せたいと思い浮かんだのは勿論恋人の姿だった。だが、しかし翌朝どうしてか恥ずかしくなって出勤前に松本から一緒に渡されていた除光液を使って落としてしまった。浮かれている自分に気づいたからなのだろう。それから暫く、マニキュアは自室の化粧台の上でひっそりと佇んでいた。

「俺にも塗らせてくれないか」
「え!?ええ、はい…でも、珍しいですね」

 興味があるのだと、浮竹はそう素直に口にする。それは左の指を塗り終えたと同時だったから、そわそわと待っていたのだろう。小瓶に刷毛を仕舞い、わくわくとした様子を隠しきれない彼へどぎまぎとしながらそっと寄せた。
 まさか自分に塗らせてくれと言い出すなど思っても居なかった。休日が丁度ぶつかるような日、彼の屋敷で過ごすことは暗黙の了解となっている。それを分かって、昨日の朝は寮からマニキュアを荷物に忍ばせ出勤し、そのままこの屋敷へと帰った。
 あの鮮やかな色を彼に見せたいと、何故か急に思い立ったのは自分の伸びた爪を切り落としながら味気ないように思えたからだろう。松本が色づけてくれた時の高揚感が蘇り、悶々としながら支度を進めていたが結局部屋を出る直前に化粧台の上の小瓶を掴んだ。

「隊長、細かいこと得意でしたっけ」
「正直得意ではないな」

 その大きな手と小さな刷毛が不釣り合いで思わず尋ねてみれば、真剣な表情でそう答えるからふふと息を漏らすように笑った。
 昼食を終えた後、大体は互いの事をして過ごす。庭の草木に水をやったり、本を読んだり仕事をしたりと日によって様々だが、今日ふと千世は思い立って荷物の中からマニキュアを取り出した。
 文机を縁側へと拝借し、日当たりの良い場所で刷毛を取り出し塗り始めると興味を持ったらしい浮竹が近づき覗いた。その独特の香りに驚いた表情をしていたが、やがてその紅色を気に入ったようだった。
 机上に広げて置いた手のひらを浮竹は掴み持ち上げると、指先を目線に近い高さへと持って行かれた。机についていた肘が宙に浮く。揺れないようにとぎっちり握られ固定されたまま、彼が刷毛を持った手をそっと近づけ爪に触れる。
 薄い感覚がひやりと伝わる。爪に神経は通っていないはずなのに、爪の下の皮膚が刷毛の柔らかく触れる感覚を伝える。ぞわぞわと背中に走るむず痒い感覚がどこか照れくさい。緊張と高揚感とが混ぜ合わさり、緩む口元に力を入れる事で必死だった。
 目の前で真剣な眼差しを向けて、その紅色が爪からずれないようにと最新の注意を払っているのだろう。そのあまりに真面目な様子に、自然と息を潜めてしまう。
 時折小瓶の中に刷毛を浸しながら、親指を塗り終え、人差し指から中指へと移動し、そして薬指までたどり着く。もうすぐ終わってしまう、と一抹の寂しさを覚えるのはこの無言の時間が堪らなく幸福な瞬間に思えたからなのだろう。

「どうして急に塗りたいなんて仰ったんですか?」
「…よく見える場所に、こうして色を付けてみたかっただけだよ」

 小指を塗り終えた彼は、乾かすようにふうと指先に息を吹きかける。千世は彼の答えに上手い返しが思いつかないまま、その爪の上に乗る色のように顔を紅くさせて俯くのみだった。

2021/07/05