雨乾堂にて

おはなし

雨乾堂にて

 

 出勤の日には毎朝この雨乾堂の畳の上を掃き掃除する事が日課だった。
 大抵その時間になれば浮竹は床を上げ寝間着のまま机に向かっているか、本に目線を落としている事が多い。悪いね、と微笑む横で箒を掃きながら、何ということのない会話を交わす事が毎朝の楽しみだった。
 だがここ最近、朝に雨乾堂を覗いてもその姿が在る事が極端に減った。はじめは早く起きて自身の執務室へ向かっているのかと思ったが、そういう訳では無いらしい。彼の姿が隊舎に無い事の方が珍しかったというのに、今ではその逆だ。
 聞いた話では、私邸へ帰る事が増えているらしい。何が理由かは誰も尋ねられていないが、もともと隊舎で寝食を済ませる事がおかしな話であって、本来の姿に戻ったとも言える。
 清音としても、彼の体調が良いのであればそれに越したことはない。この所は倒れただの救護棟へ運ばれただのと聞くことは減ったから安心ではあった。しかし、こうして毎朝雨乾堂を覗きその姿が無いというのは寂しい。
 今朝も箒と濡らした手ぬぐいを持って雨乾堂を覗いたものの、部屋は薄暗くやはり人の気配はなかった。軽く畳の上を掃きながら、昨日は珍しく早めに隊舎を去っていった事を思い出す。
 席官執務室で報告書の確認を行っていれば浮竹が襖を叩いて顔を出し、二言三言交わし、あまり遅くならないようにと優しく笑って去った。それが定時を少し過ぎた頃だったから、普段よりも大分早い帰宅だ。それとも、何か宴会の予定でもあったのだろうか。
 しかし、以前ならば宴会の後でも彼は此処へ結局帰り一晩を過ごすことが多かった。だから昨晩も私邸へと帰っていったのだろう。
 一度副隊長の千世に尋ねたことがあった。浮竹が最近私邸によく帰る理由を知っているかと聞いてみれば、彼女もまるで心当たりが無いようで悩んだ様子で腕を組み唸っていた。顔を合わす事がより多い彼女が知らないのでは、誰も分かるはずがない。
 暇つぶしに小椿に聞いた事もあった。彼もやはり清音と同じく気になってはいたようで、今まで以上に浮竹の行動を注視していたのだという。しかし理由は分からず、一度尾行をした事もあったが撒かれたらしい。だが、男が自宅に早く帰る理由といえば大抵女が理由なのだと、何か確信めいたような様子で頷いていた。
 女、と聞いたときに心臓が縮むような嫌な感覚だったが、しかし確固たる理由が無いのでは分からない。だがそう言われて見れば、確かに近頃の行動に合点が行くような気がしてしまう。
 歳を考えれば勿論おかしくはない話なのだが、そうは認めたくない気持ちのほうが勝り、まさか、とその時は小椿に硬い表情で返すので精一杯だった。
 箒を壁に立てかけると、手ぬぐいで軽く書見台と文机を拭き上げる。隅に避けてある硯と筆の穂先はすっかり乾いてしまっていた。
 柔らかい風が外から吹き込む。この雨乾堂を囲む池の水面が波立つ様子は実に穏やかだ。もう間もなく、蓮の葉の間から顔を出した蕾も色鮮やかに花開く頃だろう。

「毎朝悪いな」
「た、隊長!?ごめんなさい、勝手に…」
「いや、良いんだ。最近は留守にする事が増えているから、有り難いよ」

 ぼうっと外を眺めていれば、突然背後から現れた姿に清音は飛び跳ねる。浮竹は簾を手で避け室内に入ると、部屋の隅に積み上げていた本の前へと腰を下ろした。
 その口ぶりからするに、彼が留守の間にもこうして掃除に入っていた事には気付いていたのだろう。ありがとうと笑う彼に清音は恐縮して頭を下げる。好きでしている事だった。呼吸器のあまり強くない彼にとって黴や埃は大敵だ。長く過ごすこの場所を少しでも清潔に保ち、彼には出来る限り健康に過ごして欲しい。それは清音だけでなくこの隊に居る全ての者にとっても同じだろう。
 積み上がる二山の本の中から、目当てのものを探すように背を曲げて背表紙を指でなぞる。掃除のときに軽く見たが、過去確認された虚に関する資料やあまり興味が湧かない史書ばかりだった。

「何かお探しなんですか」
「今年入った子達の日誌をね。少し前に、清音と仙太郎が纏めてくれただろう」
「はい、確かその後隊長に回していた…」

 そう、と浮竹は頷きながら立ち上がると、書棚へと移動した。
 彼が言う日誌には覚えがある。今年入ったばかりの隊士数十名の研修中に書かせていた個人日誌の事だろう。研修まではまだ良いのだが、その個人日誌を研修後に確認し評価しなければならないのが最も手間であった。
 座学研修ならば解散後すぐに席官執務室へ移動して小椿と共にひたすら机に向かう事が出来るが、実戦研修の後ではそうはいかない。現地で日誌を書かせ回収し、隊士達を解散させた後に隊舎に戻り疲労困憊の中机仕事というのはただ辛いばかりだった。
 だがそれも今年が最後だった。来年からは副隊長である千世が研修に就くことになる。副隊長不在の間、小椿と共にそれなりに長く務めていた新人研修だが、いざ外れるとなると寂しい…とまでは思わなかった。やり甲斐よりも疲弊の思い出が現時点では上回っている。
 毎年日誌は研修終了後、纏めて簡単に綴じ浮竹へと回している。量が多い為三冊ほどに分けているから、すぐ目に付きそうなものだが見当たらないようだ。

「何かで必要なんですか?」
「ああ、今朝千世に貸して欲しいと言われてね…どこに仕舞ったかな」
「隊首執務室とか…」
「そっちはもう見てきたんだが…」

 無いな、と書棚の前で頭を掻く。清音も彼の横に立ち書棚を軽く眺めてみたが、それらしきものは見当たらない。この雨乾堂にはあとは小さな茶箪笥くらいしかないが、茶道具や湯呑が収まっているだけで日誌の姿は無い。

「ご自宅とか?」
「かも知れないな…一応朝探したんだが、帰ったらもう一度探してみるよ」
「私も、後で一応席官執務室を確認してみます。もしかしたら、お借りしてるかもしれませんし」

 さて、と浮竹は清音が開いていた茶箪笥に近づくとそのまま湯呑を二つ取り出す。茶でも淹れようかという浮竹に一瞬首を横に振りかけたが、その優しい表情を見て一つ頷いた。
 取り出した急須を持って部屋を出ようとする彼を呼び止めて、無理やり受け取る。まさか隊長に使いっぱしりのような真似をさせられる筈がない。ぱたぱたと台所まで走り、戸棚から隊長用と書かれた茶葉を取り出した。炉の上で湯気を出す土瓶を急須に注ぐと、途端に良い香りが漂う。
 湯がこぼれないよう急いで雨乾堂へ帰ると、まだ諦めきれていないのか書棚の本を取り出している浮竹の姿があった。文机に乗せられたふたつの湯呑に、清音は良い色をした緑茶を交互に注ぐ。
 ありがとうと笑う浮竹は座布団の上へと腰を下ろすと、湯呑を手にして口にした。清音も同じように、彼と少し離れた場所に腰を下ろし湯呑を口に運ぶ。甘みの強い味が口に広がり、良い香りが鼻へ抜ける。口にした後、思わずふうと息を吐きたくなる後味はこういう場面でしか味わうことが出来ない。

「隊長って、ご自宅で何されてるんですか?」

 今なら尋ねられるような気がして、何気なく口に出した。浮竹は一瞬その動きを止めたように見えたが、しかし次の瞬間には普段どおりの様子で少し考えたように目線を上げた。

「此処と変わらないよ。仕事をしたり、本を読んだり。後は、盆栽の手入れだな」
「そうなんですか。ご飯とかは、どうしてるんですか?」
「隊の夕飯を分けてもらったり、まあ下手なりに作ることもあるが…どうしたんだ、急にそんな事を聞くなんて」
「あ、いえ…近頃、よくお屋敷に帰られてるようなので、何か特別な事でもあるのかと小椿と話してたんです」

 そうかい、と彼は笑う。その様子を見ると、何か特別な事があっての事という訳では無さそうだ。いつもと変わらない笑みを見ると両手でそっと掬い上げられるような安心を覚える。
 もし、小椿の言う通り彼に女性が良い仲の現れたというならば、それは少し羨ましいと感じてしまう。それは、その場所に自分が収まりたいとかそういうのではなくて、その何もかもを包み込んでしまうような優しさを私的に向けられる事が、どんな気分なのかと気になるだけだ。
 そんな事を考えていれば、呆けた顔をしていたのか浮竹が不思議そうな顔を向けている。途端に恥ずかしくなり、顔を逸し手元の湯呑の中の茶を一息に飲み干した。

「では、私はそろそろ!」
「そうだな、そろそろ始業の時間か」

 思わず時間を忘れていたが、彼の言う通りもう始業の時間が迫っている。隊舎の方からは賑やかな声が聞こえはじめ、そろそろ出撃命令の指令書も届く頃だ。湯呑は洗って返しますと、清音は立ち上がる。

千世さんって執務室にいますかね」
「ああ、千世なら今日は休暇…だったはずだよ」
「え?そうなんですか?」

 浮竹の言葉に、清音は頭の上に疑問符を浮かべる。今日いくつか確認をしてもらいたい書類があったから、始業後すぐに執務室に顔を出そうと思っていたのだが。
 すっかり今日は出勤だとばかり思っていた。浮竹が此処へ日誌を探しに来たのも、今朝隊舎で千世と顔を合わせてのことだと思っていたのだが、そうでは無かったようだ。
 思い違いだったかと清音は少し考え、そうですか、と納得するように頷いた。最後に、壁に立て掛けていた箒と手ぬぐいを手にする。

「今日もよろしく頼むよ」

 去り際、背中に向けて掛けられた言葉に清音は振り向いて、はいと一つ元気に返す。一瞬過ぎった違和感はいつの間にか、何処かへ消えていた。

 

(2021.06.29)