魔法に罹る

おはなし

 

 昼前に少し外出すると宣言されて暫く経つが一向に戻る気配がない。いくつか浮竹に預けていた書類を手元に戻したかったのだが、果たして何処へ向かったかも知らないままではどうしようもない。
 預けていた書類には経理への提出分も入っているのだが、今日の所は諦めて揃っているものから提出する他無いだろう。目を通しながら封筒に書類を収め、封をする。
 まだ期限に余裕はあるから経理への提出については問題はないのだが、一番隊舎までの往復を繰り返すのはあまり気乗りしない。浮竹が戻ってくるのを待ってからでも良いが、提出書類が手元に残っているとどうもそわそわと落ち着かずこの後の仕事にも差し支える。経理への書類は明日に回し、他のものだけでも提出してしまいたい。
 複数ある封筒全てに署名をし終えると、千世はそれらを手にして執務室を出た。
 昼間の温度も下がり、過ごしやすい日々が続いている。夏というのはどうしてか終わりかける頃に名残惜しく感じる。あのうだる暑さにぐったりしている時は早く過ぎ去ることを心から願うというのに、不思議なものだ。特に朝の肌寒ささえ覚えるような涼しい風を浴びるとその気持ちは強くなる。このまま秋を迎え、雪深い冬が始まるのだろう。
 無事に書類を提出し、一番隊舎の門を出ると偶然檜佐木の姿を見かけた。封書を手にしている所を見ると、恐らく彼も千世と同じように提出に来たのだろう。
 千世が声をかけると、視線を向けた檜佐木は微かに表情を緩めた。

「今月の締めは終わり?」
「ああ、何とかな。日南田は提出帰りか」
「私は経理宛てだけまだなんだけど、他のは先に」

 隊長業務のほか瀞霊廷通信の編集作業も行っているというのに、月の締め業務まで余裕を持って終わらせているとは感服する。学生時代からその要領の良さには尊敬の念を抱いていたものだ。

「そういや、十三番隊って誰か異動すんのか」
「異動?」
「いや、違うなら良いんだ」

 檜佐木の急な言葉に千世は訝しげな表情をする。何の根拠も無しに発言したわけでも無いだろう。
 ここ最近の出来事をざっと思い返してみるものの、異動などという話が出たことは一度もない。まず藍染の一件以来異動は恐らくひとつも為されていないはずだ。どの隊も人員が不安定な中、下手に動かす事は混乱にも繋がるだろうとそう思っていたのだが。
 何で、と千世が檜佐木に尋ねると、少し考えたような表情で彼は答える。

「さっき浮竹隊長が人事のじいさんと歩いてるのを見たんだよ」
「ああ…そうだったんだ」

 昼前から出掛けていたのはそれが理由だったのだろう。大体何処に向かうかを彼は千世に伝えていつも外出をする事が多いのだが、行き先を告げないという事は大体察しが付く。追いかけられては困るような用事だったのだろう。
 人員配置の件であっても、過去席官の異動の際は事前に知らされていた。人事に呼ばれていると一言伝えてくれても良かったものだが、そう言わなかったのは互いのどちらかに関係する内容だったのだろう。しかし、現状を見る限り隊長の異動というのは考えにくい。四十六室の機能しない今であれば、隊長の異動となれば総隊長直々の呼び出しにでもなりそうなものだ。であれば、まさか自分のことだろうかと千世は考えを巡らせる。

「あの件から少し落ち着いて、ごっそり配置換えでも起きるのかと思ったんだ」
「確かに、隊長も空席のままだからね」
「ああ、急いじゃ居ないが誰か来てくれるってんなら有り難いんだけどな」

 溜息を吐いた彼の表情にはやや疲れが見える。通常の隊長、副隊長業務に加え、特に月末となればその疲労は察するに余りある。ああそうだ、と千世は懐に手を入れごそごそとまさぐる。慌てた様子の檜佐木に一つ、巾着に入れていた飴玉を渡した。

「飴玉?どうしたんだよ、急に」
「この前ネムさんに貰った塩飴なんだけど、気のせいか疲れが取れる気がするんだよね」
「技術開発局製か…平気か…?」
「平気だよ、私何個か舐めてるから」

 千世はもう一つ取り出した飴玉の包みを外してを口に含んで見せるが、檜佐木は後で食べる、と怪しむような反応をして掌で握った。確かに技術開発局製と聞くと多少身構えるものだが、何度か舐めても身体に異変は見られないから本当に単なる飴玉なんだろう。
 間もなく檜佐木とは別れ、隊舎への帰り道を歩いていた。飴を口の中で転がしながら、先程の会話を思い出す。恐らく浮竹が呼び出されているのは人事異動の件で間違いないだろう。空いた隊長の補充が真っ先に浮かぶが、まさか卍解を会得していない千世が隊長になる可能性は極めて低い。実力としても隊長には程遠い。
 となれば、他の隊の副隊長が昇格した分の穴埋めということも考えられる。いずれにしてもあまり考えたくない話だ。隊舎が近づくにつれてずっしりと胃の奥が重くなる。異動に関して、本人には基本的に拒否権はない。打診をされればただ受け入れる他ない。
 彼が千世の意思を尊重する姿勢である事は十分知っている。だが千世が拒否をしたところで人事の決定を覆す事は出来ないだろう。考えるほどに足取りが重くなる。舌の上で小さくなった飴玉を前歯で噛み飲み込み、隊舎の門をくぐった。
 檜佐木が見かけたのは恐らく彼の帰り際だったのだろう、浮竹の気配を雨乾堂から感じる。千世はそわそわとした心持ちの中執務室へと一旦は帰ったものの、すぐに立ち上がり部屋を出た。彼には預けたままの書類がある。それを引き取るついでに、その表情だけでも確認をしておきたい。
 部屋の前で声を掛け、返答の後すぐに襖を開く。頭を一つ下げると、筆を手にしたままいつもと変わらない様子で微笑んだ。

「…お帰りのようだったので」
「ああ、ついさっきな」

 預けていた書類の件を尋ねると、彼の執務室に置いているという。後で届けると答えられて千世は頷いた。その時点で用件は済んだのだが、やはり先程の外出の件が気にかかって仕方ない。
 暫く目線をうろうろとさせながら彼の背を眺めていたが、じっとしている様子を不思議に思ったのか浮竹は振り返り千世を見る。どうした、と一言優しく尋ねられて思わず背を伸ばした。

「その…先程は何処に出掛けられてたのかなと」
「大した用事じゃない。野暮用だよ」

 やはり誤魔化された。千世がじっとその目線を見返すと、同じように浮竹も視線を返した。まるで嘘を吐きそうにないその瞳の色を見つめながら千世は口を開く。

「野暮用にしては、お時間が随分長かったような…」
「そうか?ああ、昼飯もついでに済ませて来たからだろう。知り合いと偶然会って、つい話が弾ん…」
「異動のお話ですか」

 あ、と口を開いたまま浮竹は動きを止める。嘘を重ねてゆく様子に耐えきれずつい核心に触れてしまったが、すぐに後悔をする。彼が未だ何も言わない理由があるというのに、無理に聞き出すような真似をしてしまった。
 ゆっくり口を閉じ、眉を曲げて笑った浮竹に千世は思わず拍子抜けする。笑っているような状況だというのか。浮竹は筆を置き、とうとう身体を千世の方へくるりと向けた。

「参ったな、君にはお見通しか」

 そう浮竹は笑って頭を掻く。やけに緊張感のない様子に千世は焦る。千世の異動に関わる話だというのにどうしてそうも変わらない様子で笑っていられるのか。もし異動となればあの散らかった執務室を引き上げる準備もしなくてはならないだろう。

千世に五番隊へ異動の打診が来ていたんだ」
「ご……五番隊ですか…?」
「雛森副隊長がまだ万全では無いだろう。その上藍染が抱えていた隊長業務を席官で担うには限界のようでね」

 はあ、と千世は頷く。彼の言葉を何度も頭の中で再生してみるものの、うまく理解が出来ない。自分の事だと多少予感はしていたものの、やはりその口から聞かされるとなると中々に受け入れがたいものだった。
 十数度程頭の中で繰り返し、ようやく理解をし始めたその言葉に自然と身体の動きが固まる。

「残念ながらまだ千世を隊長へ上げるには早い。一時的に五番隊を副隊長二名体制にしたいという話だよ」

 十三番隊には副隊長業務経験の厚い三席を二名置いている為、千世に白羽の矢が立ったのだという。心臓がばくばくと鳴っている。来月から、ともしその言葉が続いたならばどうしようか。
 まだ彼の下で得たい事は数え切れないほどあった。まだ未熟な千世にとって、その傍に居るだけで得られるものがまだ多くあった。副隊長となって一年にも満たない。多少の私情が入る所感は否めないが、しかしあまりに急な話で感情がついて行かず、自分が五番隊で過ごす様子が全く思い描けない。
 千世は頭の中で糸が絡まったような感覚のままじっと畳の上を見つめる。突然のことで思考がうまく出来ず、まるで頭に冷たい空気が流れ込むような感覚に目をぱちぱちと瞬いた。

「だが断った」

 浮竹の言葉に思わず顔を上げてぽかんとその表情を見た。はあ、と呑気な音が口から漏れる。

「断れるんですか」
「少し難儀したがな」

 異動に関しては隊長であっても決定を覆すのは難しいと小耳に挟んだことがあったのだが、古参の隊長となれば別なのだろうか。果たして人事とどのようなやり取りをしたのかなど全く想像がつかない。難儀したとは言えまさか退けたという言葉が飛んでくるとは思わず、千世は暫く尚も追いつかない思考と感情を必死に整理していた。
 一先ずは変わらずこの隊で過ごせる事を喜べばよいのだろう。彼が隠した理由が今は分かる。拒否権のない異動の打診を知らぬ間に弾かれていたのだから、敢えて知る必要もない。知った所でこうして妙な感情に振り回される。

「どうした、異動が希望だったか?」
「…いえ、隊長がお決めになるのは珍しいと思って」

 千世がぽつりと言うと、浮竹はふっと笑った。安心に似た思いを感じながらも、五番隊を案じる気持ちも胸の隅に残る。五番隊は元々藍染の指導の賜物か優秀な席官が多いと聞いている。あの一件の事後処理を副隊長無しで済ませたのだから平気だろうと浮竹は言う。
 珍しい物言いだと千世は思った。確かに十三番隊は三席を二名置いており多少の余裕はある。千世が週に二度ほど霊術院への臨時講師へ出向いているものの慣れた為か初めに比べれば精神的にも時間的にも負担は減っていた。
 状況的には十分千世を五番隊へ渡しても問題は無いが、それを拒んだ理由となると都合の良い解釈しか浮かばない。もしかして、と口をついて出そうになった言葉を必死で飲み込む。

「この話は終わりだ。後で書類は届けるからもう戻りなさい」
「…ああ、はい。そうですね。ありがとうございます」

 はっと顔を上げ、千世は慌てたように立ち上がる。自ら語ろうとしない理由を、それ以上わざわざ尋ねるような真似は出来ない。まさか僅かでも私情が混ざっていたとしたならば、それを口にさせるような事を出来る訳がない。
 襖を閉じる直前、隙間から彼の横顔を見る。その時折見せる憂いた表情が何を思うのか、千世にはあずかり知らないところだ。乾いた音を立て閉じたまま暫く立ち止まり、その白茶けた切ないような襖紙の色合いを見つめる。
 いくら関係が深まろうと、決して踏み込めない場所というものは存在するのだろう。相手のすべてを把握しようなどというのは、傲慢以外の何物でもない。ようやく手足に充分に血が通ったような感覚で、板張りの廊下を俯いたまま進む。先程の会話はいっそ丸ごと忘れてしまおうと決意するように、口を固く結んだ。
 必ずしも興味や好奇心というものは良い方向に働くわけではない。元々知る筈では無かった話が、頭の中をまだごちゃごちゃとかき回すようだ。忘れてしまおうとするほど、彼の深意を都合良く理解しようと頭が働く。
 見えないもの、知らないものというのは人の興味を徒に引く。無理に見ようとして、知ろうとしてその中身に想像を及ばせては期待をしたり、逆に邪推して失望したりするのだから勝手なものだ。
 とっ散らかった思考の中、ただ一つ間違いなく言えるのはこの悩みが惚気に近いものだという事だ。誰にどう聞いた所で、その関係性と状況を前提に千世の異動を退けた理由など、十割私情に決まってると答えるだろう。だが、決定的な言葉がない限りそれは曖昧な事実になる。
 その曖昧な事実は、ただただ千世の喉元を真綿で締め上げてゆくような、優しい息苦しさを伴っていた。

 

魔法に罹る
2020/09/28
(台詞リクエスト「参ったな、君にはお見通しか」)