袖に涙のキスマーク

50音企画

袖に涙のキスマーク

 

 閉じた瞼がぴくりと動き、眉間に軽く皺が寄る。隊長、とその様子に一言呼びかけると薄っすらと目を開けた浮竹に、千世は安心したように大きく息を吐き出した。

「…隊長、心配しました」

 浮竹がこの執務室へ訪れたのはつい一時間ほど前の話だ。
 隊長印の必要な書類を事前に渡しており、その期限が近い事には千世も気付いていた。しかしながら浮竹は体調がこの頃あまり芳しくない様子が続き、そんな中早く書類へ目を通してくれとは流石に言いづらい。最終的には代理で印を押す事も考えていた所だった。
 書類を抱えながら現れた浮竹はいつも以上に白い顔をしており、ひと目で具合の悪そうな様子に思わず大丈夫ですかと声掛けた程だった。恐らくいつもの癖か千世の言葉に僅かに微笑んだ後、崩れ落ちるように床に膝をついた浮竹に驚き駆け寄る。そのままぐったりと意識を落とした浮竹の体重を千世一人で支えきる事が出来ず、畳の上へと転がし様子を見ていた。
 呼吸は規則正しく、恐らく寝不足なのだろうという事は察しがつく。何やら込み入った案件が有るようで、雨乾堂へ泊まり込む事がこの所は増えていた事を勿論千世は知っていた。仕事がいくら込み入ろうと、十分な睡眠と食事さえ取れていれば良いと思っていたのだが恐らくそうも行っていなかったのだろう。
 床で倒れる浮竹を放って仕事を進めることも出来ず、ひざ掛けを彼の身体に掛け傍でぼんやりとその穏やかな顔を眺めながら過ごしていた。特に何をするでもなくその姿を眺めながら過ごす事に我ながら気味の悪さを感じたものだが、どうにも他の事をする気にはなれなかった。
 時折どうにも埋めることの出来ない年齢の差をまざまざと感じる事がある。過去への嫉妬は多少克服したつもりだったが、目尻の皺や肌の質感、手の甲の薄い皮膚の下浮かび上がる血管など、ふと目に入った彼の一部に過ごした時間の差を強く認識させられる。
 それが不満な訳ではなく、ただ何れ訪れる別れを漠然と思い浮かべてしまう事が時折苦しく思えた。もしこのまま互いに戦いの中で命を落とすこと無く過ごすことが出来たとしても、生きた時間の長い者から順に別れは訪れる。現世であってもこの尸魂界であってもそれは変わることのない摂理だというのに、認めたくないと思うのは単なる我儘だと分かっている。
 何れ来る別れが分かっていながら過ごす日々に、時折そうして言い得ぬ不安と焦燥を感じては自然と視界が滲む事があった。
 身体を起こした浮竹は、一つ大きく伸びをする。よく寝た、と呑気に呟いた浮竹に千世は思わず口をへの字にした。

「よく寝た、じゃないですよ」
「悪い悪い。千世の傍だったからかな、久々によく寝れた気がするよ」

 そう言って笑った浮竹に、千世は何も言えず一つ鼻を鳴らす。心配をさせて置きながら、なんと呑気なことか。
 さて、ともう一度伸びを終えた浮竹は膝をぱきりと鳴らして立ち上がる。

「仕事も落ち着いたから、今日は屋敷へ帰ろうと思う」
「そうなんですか?」
千世も来なさい」
「…仕事が終われば、お邪魔します」
「絶対に、終わらせてくれよ」

 そう一言言い残し襖を開き、廊下へと消えた。絶対に仕事を終わらせろとは、随分勝手な物言いだ。言われなくともそのつもりだというのに、念を押すように言ったあの真剣な表情を思い出し口元が緩む。
 いくら未来を憂おうが、結局はそうして今過ごす時間が与える幸せを享受すべきなのだろう。さて、と千世もようやく立ち上がると、膝がぱきりと鳴った。