薬指の心得-3

おはなし

 

 思わず飛び出してしまったものの、特に行く宛もなく中庭に出た後に屋根の上へと飛び乗った。和瓦の上をよろめきながら少し進むと、稽古場の屋根が見えそのまま飛び移る。稽古場は他の建物に比べ天井が高く造られている。瀞霊廷が見下ろせる景色が千世は好きだった。
 眺めの良い場所で少し過ごせば、このぼんやりと靄がかった気分も多少は良くなるだろうか。具合の良い場所を探し、腰を下ろすとひやりと冷たい。流石にこの時期、日も落ちかけている時間にこの場所で過ごすのは普通であったら避ける。
 案の定びゅうと冷たい風が吹き、ひとつ身震いをした。馬鹿な事をしてしまった、と冷えはじめた頭で思う。何を期待してあのような事を聞いてしまったのだろうか。「どうしたら良いか」などと伺いを立てた所で、浮竹ならば君が思うようにと、そう答えるに決まっていた。

 今から遡ること二月ほど前、学院での授業後に偶然鉢合わせた教頭に声を掛けられた事からそれは始まった。
 教頭とは在学当時の顔見知りという事もあってか、良く目を掛けて貰っていた。授業で使用する器具の新規購入や図書室に希望の蔵書の購入など、そう何度か千世にとって都合の良い事が続いた。無理に講師として引っ張った事を、教頭なりに負い目に感じて居るのだろうかと思ったものだ。
 彼はさも思いついたかのように、一度食事会でもどうかと言った。他の教師陣との懇親会のようなものかと思った千世は二つ返事で了承した。しかしそれは早合点で、よくよく聞けば彼の息子を交え三人でのものだと言う。
 彼の息子といえば霊術院で史学の教授を務める同僚だったが、何度か会話を交わした程度で深い仲では無い。突然どういう風の吹き回しかと訝しんだ。
 それが結局、彼の息子と千世とを良い仲に仕立て上げたい目論見だと気付いたのは、その後実際に約束通り食事が開かれた時だった。千世をちやほやと褒めそやし、息子と似合いだ何だのと言われれば流石の千世も違和感を感じるものだ。
 だから縁談と言うには少し違うのだが、ほぼ同義だろう。年頃の息子にそろそろ身を固めて欲しいと思っていた所に、丁度良く千世が現れてしまったという訳だ。その食事会の切欠から恋仲に発展する事を恐らく期待されていた。別れ際に次の休日の予定を聞かれ、仕事が忙しいからと濁したが失敗だったと今は思う。
 その場でやんわりとでも断っていればこうして寒空の下複雑な気持ちでしかめっ面をする事も無かっただろう。恋人が居ると素直に答えられればどんなに楽だったか。
 だが勿論、いずれは何かしら理由をつけて断るつもりだった。頃合いを見て、失礼にならないようにと霊術院へ向かう度に時機を伺っていたのだが。
 浮竹に伝えていなかったのは、初めから断るつもりだったからという理由が一番だった。次いで、彼に知られればまた無用な悩みの種になり得ると思った。しかし何処で知ったか、誰から聞いたかなど今は最早どうでも良い。
 はあ、と溜息を吐く。感情が高ぶり声を荒げ、柄にもなく涙を見せてしまった事を後悔する。面倒くさい女だと思ったことだろう。どう言葉をかけようかと頭を悩ませている浮竹の姿が頭に浮かび、申し訳なく身体を萎める。
 何を期待していたのだろう。縁談を受けないでくれと、引き止める言葉かそれとも、今から俺が行って断って来ようと、強引な言葉だったのか。しかしそのどちらかのような対応を、彼に望んだことは一度もない。
 だが一瞬でも、似た言葉を期待してしまったのだろう。それは先日何気ない会話の中で彼に向けられた、この先を考えて欲しいという言葉が尾を引いていたからだった。恐らく、二人で過ごすこの先の話を指していたのだと思う。しかしそれ以上の言及は無かった為、千世からも改めて話題に出すことは無かった。
 太陽がその姿を隠そうとするにつれ、瀞霊廷のあちらこちらで明かりが灯り始める。この稽古場の屋根からは良く景色が見渡せ、繁華街の明るさは眩しいほどだった。

「こんな場所で、寒いんじゃないか」

 瓦がかたりと小さくぶつかり合う音が聞こえたかと思うと、そう背後から呼びかけられた。思ったより早く見つかってしまったかと、まるで怒られた後の子供のような気まずさで身体を小さくさせる。
 千世の横へと腰を下ろした浮竹の横顔を、千世は恐る恐る見る。相変わらず良い景色だと、そう目を細める浮竹は特に普段と何ら変わった様子はない。思わず見つめていればふと視線が合い、しかしそれはどこか遠くを見つめるようなものに感じた。
 吹く風に少し鼻を啜ると、その音にはっとして目を見開き、徐に脱ぎはじめた隊長羽織をそのまま手渡された。咄嗟に拒むように千世は頭を横に振った。

「羽織りなさい。冷えるだろう」
「いえ、隊長の方が冷えたら大変ですよ」

 いいから、と浮竹は強引に千世の肩へとその羽織りを掛けた。まだ体温の残る羽織に包まれる心地というものは、どうしてか胸が詰まりそうになる。あまり見慣れない死覇装姿の浮竹は、千世の様子を見て満足したように頷いた。
 この場所は不思議だと思う。周りの建物よりも頭ひとつ抜けて高いだけだというのに、静かで人の目が届かない。隊舎でも人通りの多い位置だが、がやがやと賑やかな声が微かに聞こえるだけだ。

「その縁談、断ってくれるか」

 呟くような言葉が耳に入り、途端に心拍が跳ね上がる。はい、と咄嗟に上ずった声で答えた。しかし執務室での自分の態度を思い出すと駄々をこねた子供のような気分で、罪悪感がじわりと滲む。

「…すみません、言わせたようで」
「違う。俺の本心だよ」

 そう笑って彼は手をのばすと、千世の頭を軽く一度撫ぜた。そう頷かれるだけで少しは軽くなってしまうのだから単純だと思う。
 ごめんなさい、と千世は呟く。浮竹に伝えなかったのは、自分の問題と思っていたからだ。だが結局こうして今は彼に心配を掛けているのだから、はじめから伝えていれば良かった。全てが裏目に出た今の状況と、自分の浅はかさと幼稚さに溜息が出る。
 千世、と彼の声が呼ぶ。自然としかめっ面をしていたのか、皺の寄った眉間を指で小突かれた。

「君はまだ若いし、人生の岐路なんてきっと毎日のように訪れる。その中でより良い道にもし突き当たったのなら、迷わず選んで欲しいと思っていた」

 千世は静かに頷く。ただ愛情を向けられるよりも深い重みを持つその言葉は、シンとした冬の夜にぽつりと落ちる。

千世の未来を慮っていたつもりで、それは独り善がりだったんだろうな」
「…そんな事は無いです。隊長が私を、その…思って下さる気持ちはよく感じていました…なのに、あのような言い方を…ごめんなさい」
「分かっては居たが君は…何というか、物分りが良すぎる」

 浮竹は多少呆れたような、困ったような様子で笑う。別に物分りを良くしている訳ではない。彼が伝えてくれた言葉を疑うまでもなく、その通りの思いを受け取っている自覚があったから執務室での態度を悔いていた。
 ごめんなさいと、ついまた一つ零すと、それ以上謝るのを止めなさいと釘を刺され口を噤んだ。その様子に浮竹は少し微笑み、それから正面に広がる街を見下ろすように視線を遠くへ向ける。
 暫く二人して言葉もかわさず、ただ景色を眺めていた。まだ僅かに残る空の明るさは、徐々に山の向こうへと失われてゆく。いつもこの時間は寂しいと言うのに、今日ばかりはそう思わない。時折の隊士の賑やかな声を微かに聞きながら、ささやかな幸福に自然と目を細めた。
 また、優しく名前を呼ぶ声が聞こえる。千世、とただ自分一人だけを呼ぶ柔らかな声音に顔を向ける。また他愛ない会話でも始まるのだろうかと思っていたが、やけに彼は改まった様子で千世の方へと身体を向けた。
 千世もそれにつられ、彼と向き合うように半身を向ける。何を改まって、と恐らく普段ならばそう笑ったのだろう。優しい声音とは真逆の、やけに険しい表情を千世は見つめるが中々視線が合わない。
 隊長、とその妙な様子にとうとう呼びかけると、一つ息を吐きようやく千世の目を見つめ口を開いた。

「この先も、変わらず傍に居て欲しい」
「…はい、それはこの隊の副隊長で居させていただける限りは勿論」

 何を今更。そう頷き彼を真っ直ぐに見返すと、固まったような彼の様子に千世は眉を曲げる。決意に近い言葉を律儀に伝えたつもりだったが、それが本意でなかったのだろうか。
 違うんだ、と浮竹は一つ呟き目線を下げる。何かを思案しているようだった。しかし言葉が追いつかないのか、ううんと低く唸り腕を組む。普段以上に彼が何を考えて居るのか分からない千世は、ただその様子を眺めて待つ他無かった。

「…違うんだ、つまり…一緒になってくれないかと、そう言いたかった」

 暫く、千世はその顔を見つめる。目線を逸し、気まずそうに口をへの字に曲げた浮竹は手持ち無沙汰に指で顎を擦る。彼の言う言葉の意味をゆっくりと頭の中に流し込みながら、それでもまだ分からずもう一度繰り返す。
 千世の聞き間違い、勘違いでなければその言葉は紛れもなく二人の未来を指してる。照れくさいのか、この無言の時間がもどかしいのか彼は落ち着かない様子で視線をうろうろとさせた。
 どう答えるかよりも、今はただ彼の言葉を飲み込む事で精一杯であった千世は上がる心拍を落ち着かせるよう静かに呼吸を繰り返す。

「時を重ねるうちに、自然と君と過ごす未来を考えるようになっていた。年寄りが烏滸がましい事だと、はじめは思っていたんだがね」
「…そんな事は」
「俺はきっと君よりずっと早く居なくなる。やがて残される君を思うと、そう簡単には伝えられなかった」

 静かに紡がれる彼の言葉を、千世はひとつも取りこぼさないようにその表情を見つめた。優しい声音だと言うのに、喉元を掴まれるような息苦しさを持つ不思議な感覚だった。
 いつの間にか太陽は沈みきり、濃紺の帳が下りていた。今日に限って新月の夜、ただ雲はなく細やかに散らばった星が鮮やかに瞬いている。この場所に腰を下ろしたばかりの時はぽつぽつと灯り始めていた明かりが、今は街の至る所に広がっている。
 ずっとこの場所から見下ろしていたというのに、気づくのはどうしてこう広がった後なのだろうか。

「だがそれもまた、独り善がりなんじゃないかと思ってね。…もし千世も同じ思いを持ってくれているのなら、…正式に君を、伴侶として迎えたい」

  えっ、と思わず色気のない声が口から出ると浮竹は拍子抜けをしたのか表情を崩した。予感はしていたというのに、実際はっきりその言葉を聞かされればぐらりと視界が揺れた。血液の巡りが、きっといつもの倍は早くなっている。
 どくどくとこの音が聞こえはしないかと思うほど、激しく繰り返される鼓動がうるさい。膝の上で震える指先同士を絡ませ力を込めて誤魔化そうとするほどに手のひらには汗が滲んだ。
 顔が熱い。彼の言葉が頭の中をぐるぐると巡り、嬉しさに浮かれたい気持ちと、まさか夢ではないのかと自分の頬を叩きたい気持ちが混じり自然と奥歯を噛みしめる。
 無意識に息をひそめていたのか苦しい。呼吸を欲するように口を開き顔を上げると、先程とは打って変わって真剣な表情が千世を向いていた。

「……あぁ…ええっと…それは、つまり…」
「いや、何…勿論、今すぐという訳にはいかない…だからその、つまり。…まずは、答えを聞きたい」

 そう言い終えた浮竹は、硬い表情のまま千世を見る。今までどれほど愛情を感じたか分からないが、今ほど叩きつけられるような事は無かった。包み隠そうともしないその緊張した様子を見ているだけで、千世も勝手に口が渇いて仕方ない。
 答えなど一つしか無いというのに、中々言葉が浮かばず押し黙る。どう伝えれば、その与えられる思いに応えることが出来るのか分からない。一度しか無いこの生涯で、この先を共に歩むたった一人の相手として手を差し伸べられている。
 その手を取る事に勿論迷いはない。迷いがないからこそ言葉に詰まった。
 徐々に不安そうに彼の眉がハの字になってゆく。決して焦らしているわけでは無い。何か答えなくてはと、千世は口を開き小さく息を吸う。

「…よ、…喜んで」

 俯いたままそう口に出した後、その返答が合っているのか不安になって目線を上げる。彼はまた暫く固まっていたが、この状況を飲み込めたのかその口元をようやく緩めた。良かった、とまるで独り言のように彼は口から零す。

「…断られるかと思ったよ」
「そんな訳無いです」

 余程安堵した様子の浮竹に笑う。千世からしてみれば断る理由など一欠片も無いというのに、しかし相手からすれば知る由もない。
 春、見事な白藤の下で初めて思いを伝えた日の事を思い出した。あの時はまさか受け止められるとは思わず、自分の中で無為に広がってゆく思いへのけじめの為に伝えたのだった。今思えば、実に独り善がりな理由だった。
 膝に乗せていた左の手を、彼の手のひらが捉える。優しく握られたまま彼の元へと引き寄せられ、手の甲へと軽く唇が触れた。思っても居なかった行動に、ようやく落ち着き始めていた心臓がまたうるさく跳ねる。
 どぎまぎとした表情で彼を見れば、ゆっくりとまばたきをひとつ千世へ向ける。うるさく鳴る心拍の中、向けられた眼差しが他の誰でもない自分だけのものだと、この先も自分だけのものなのだと自覚し、瞳が揺れた。
 流れ込むような体温を感じながら、ただ見つめ返す。例え夢であってもこうして焼き付けておけば、目が覚めてしまった後もきっと、この幸福に永遠に包まれていられるだろうと思った。

 

薬指の心得
2021/06/18