薬指の心得-2

おはなし

 

 今朝の寝覚めは実に悪かった。昨夜千世は浮竹の屋敷には訪れず、恐らく自身の寮の部屋へ戻ったのだろう。それ自体珍しい事ではない。屋敷で過ごすことが増えたとはいえ、何も毎日のように訪れるわけではなかった。
 隊舎へ出勤してからというものの、落ち着かない時間を過ごしていた。昨日のうちに再び溜まった書類が執務室の机上へ重ねられ、一番上には千世の文字で押印を願う書き置きが残されている。何時も通りの事だというのに、彼女は果たしてどんな思いでこの書き置きを残したのかと、妙な方向へと思いを馳せる。
 今朝から彼女の姿はなく、浮竹の記憶が正しければ夕方頃まで霊術院で授業のはずだった。恐らくそれが今浮竹の中で最も気がかりで仕方ないのだろう。
 昨日卯ノ花から聞かされた千世の縁談の件は、恐らく事実で間違いない。持ちかけたとされる津島家は代々霊術院で史学の教授を務める上流貴族であり、京楽が言うには当主の隠居に伴う息子の伴侶探しに巻き込まれたのだろうとの見解だった。
 油断をしていた。彼女が公私とも傍に居る事が当たり前となり、覆されることは無いと無意識にでも思っていたのだろう。公にしない関係を結びながら、常に傍に置いているからと何の根拠もない安心を得ていた。それは半ば精神的な束縛に近かったのかと今思う。
 近頃は千世に恋人が出来たなど一部で噂になっていたようだが、誰とどう噂になっていようが事実は変わらないと特別気にすることは無かった。勿論多少不本意と感じることはあったものの、それをどうしようなどとはしなかった。
 妙な余裕があった事には違いない。入隊当時から彼女の憧れを超えた思いを受け続けていた為だろうか。何があろうとその眼差しの強さは変わること無く、この先もそれは同じなのだろうとどうしてか確信をしていた。
 隊長、とその時突然襖の外から声を掛けられ浮竹は暈けていた焦点を戻す。入るよう促すと、清音が襖から顔を覗かせていた。

「ありがとう、助かったよ」
「お遣いくらい、いくらでも言って下さい!あと…ついでに饅頭を買ってきたので、差し入れです」
「饅頭か…丁度小腹が空いた所だったんだ、ありがとう」

 清音が差し出した箱は瀞霊廷でも有名な店のもので、こし餡の饅頭が名物だった。今日は千世が霊術院に向かい、仙太郎も任務で外に出ていた為七番隊へ回す書類を清音に頼んでいた。少し帰りが遅いとは思っていたが、恐らく饅頭購入の為に多少並んだのだろう。
 受け取った饅頭を口に入れながら、朝から特に何も口にしていなかった事を思い出す。あまり食欲も湧かず、山積みになった書類へ淡々と目を通しては押印を繰り返していた。

「隊長、何かあったんですか?」
「…いや、何もないよ」
「そうですか…?私の気のせいかもしれませんが、元気がないように見えたので」

 不安そうに眉を曲げる清音に浮竹は苦く笑う。そんな事は無いよと誤魔化したものの、疑ったような様子でそうですかと彼女は頷いた。
 何とも情けない事だとは思う。寝耳に水だった千世の縁談の件が絶えず頭を巡り、昨日から上の空が続いている。さっさと昨日のうちに尋ねていれば良かったというのに、どういう事か尻込みしてしまった。その上今朝から千世は不在で、勝手に受けた傷口がじわじわと深さを増しているように感じていた。
 物事に関しては白黒つけたい方と自覚していたが、千世相手となると影を潜める事が多い。大小あれど分岐点に突き当たった時、どうして欲しいと伝えることが彼女へ思いを押し付ける事になりはしないかと、それによって彼女のこの先の選択に妙な影響を与えてしまうのではないかとそればかりを気にかける。
 恐らくその思考回路が染み付き、癖になってしまっているのだろう。彼女がこの先幸福に過ごす最良の選択肢を、彼女自身が取って欲しいと思う。その中で、自身とこの先を過ごすひとつがあるのならば幸甚だった。
 そう、あの時はそう、ふと思ってしまったのだった。彼女が朽木の前で浮竹の下の名前を呼ぶ失態を犯し顔面蒼白になっている姿を見ながら、もう良いのではないかと思った。いっそ公にして、その先の事を二人で考えても良いのではないかと考えた。それは公にしなければ彼女に妙な虫が付くとかそういう危機感からのものではなく、単に彼女との未来にふと想像が及んでしまったからだった。
 だが彼女が去った後に感じた多少の後悔は、恐らくあまりに押し付けがましかったように思い返したからだろう。だからそれ以降その話題は出していない。彼女からも未だ触れて来ないのは、答えが出ないからなのだろう。
 それはそうだ、この先を考えて欲しいと、そんな求婚にも満たないような曖昧な言葉にどう返せば良いというのだ。

「隊長、本当に大丈夫ですか?すごく険しい顔してますが…」
「なに、あんまりこの饅頭が美味かったからな」

 相変わらず疑るような表情のまま、清音は紙袋を手に立ち上がると頭を下げ部屋から去った。その背を見送った後に壁の時計を見上げれば、もう黄昏時も近い時刻を回っている。先程から彼女の執務室から感じる気配は、霊術院から戻った千世のものだろう。
 このまま書類に手を付けたところで抜けが出そうなもので、浮竹は暫く机上を見つめていたがやがてやおら立ち上がった。
 声を掛け執務室の襖を開くと、風呂敷を広げばらばらと散らばる紙をまとめる姿が顔を上げた。たった一日ぶりだというのに緊張に似た感覚を覚えるのは、彼女が何一つ変わらない様子で表情を緩めるからだろう。
 どうされたんですかと眉を上げる顔に、咄嗟に返す言葉が思いつかず口ごもる。適当な言葉も浮かばないほど彼女の顔を見て勝手に動揺をしているのか、視線を不自然に彼女の顔からその手元の紙へと落とした。

「どうかされたんですか」
「いや…」

 隊長、と顔を覗き込むように彼女が腰を屈める。隠していたつもりの事をまさか浮竹が知っているとは思ってもいないのだろう。彼女なりに何か思いがあるのだろうが、しかしこのまま知らぬふりをして過ごせるほど柔い思いを彼女に向けていたわけではない。
 下げていた視線を上げると、彼女も伴ってその姿勢を戻し浮竹を見上げる。呼吸を整えるように一つ小さく息を吐き出した。

「縁談の件を聞いた」

 浮竹の言葉に千世はあまり顔色を変えないままその目を見返していたが、すみませんと小さく呟きさっと目を伏せた。やはり卯ノ花から聞いた通りの事だったのだろう。

「お話を伺ったのは、二週間ほど前だったかと思います」
「誰から持ちかけられたんだ」
「お父様です。講師として招かれた際からよく目を掛けて下さっていて…気に入っていただけていたようで」

 ぽつぽつと話す彼女にあれこれと尋ねたい事は湧き出たが、しかし尋問をしたい訳ではない。彼女が言うには、話を父親から持ちかけられただけで正式なものではなく、その話を息子本人が知る所であるのかは分からないのだという。
 恐らくその口ぶりではまだ答えを伝えてはいないようだった。正式なものでないとはいえ有耶無耶にする気は無いようだが、断る時機を掴めていないのだろう。しかし、縁談に限らず答えを先延ばしにするのはあまり良いものではない。本人もそれは理解しているのだろうが、事が事だけに言い出しづらいというのは分かる。
 浮竹自身も長い間独り身を続けていれば見合いの話が無い訳では無かった。その気のない引き合いは、早めに断りを入れることが相手への誠意ともなる。

「どうして言ってくれなかった」
「隊長に無用な心配をお掛けしたくなかったからです」
「無用な訳が無いよ」

 千世はようやく気まずそうな顔を逸らす。責め立てているつもりは無いが、彼女が押し黙る姿を見下ろしているとまるで叱っているような気になり息苦しい。そういうつもりで尋ねたのではなかった。
 縁側から吹き込む風が涼しい。黄昏時を過ぎた今、空は濃紺に染まりつつあった。恐らく普段ならば部屋の明かりを灯す時間だろうが、この重苦しい空気の中そんな状況でもない。薄暗くなりゆく部屋の中で、俯く彼女のつむじをただ見つめていた。

「隊長はどうしたら良いと思われますか」
「…どうしたらというのは、どういう意味だ」

 突然ぽつりとそう呟いた彼女は顔を上げる。しかし浮竹の疑問に答えないまま、その視線だけが真っ直ぐと刺さるように向いた。どういう意味も何も、彼女はその縁談をどうするべきかと問うているのだろう。
 断って欲しいと、そう一言答えれば良いというのに喉元でつかえて飲み込む。彼女に珍しく試すような問いだった。彼女の目を見返しながらその求める言葉を思い見るが、どう考えを巡らせたところで専断的に思えた。

千世の思う通りにしなさい」

 そう口にした時点で彼女の顔色がさっと変わり、その言葉が適切でなかった事は火を見るより明らかだった。断って欲しいとそう一言伝える事になんら難しさなど無いというのに、だが難しく無いからこそ、そう簡単に口に出すことが憚られた。

「だから隊長には敢えて言わなかったんです。知られる前にお断りして終えるつもりでした」
「…千世
「私は隊長に伺っているのに、いつもそうして私に選ばせるじゃないですか。…責任を取られたくないからですか」
「それは違う。君に無責任な言葉を向けたことは一度として無いよ」

 静かにそう返すと、千世は未だじっと見上げるその目を次第に潤ませる。暗闇に近いこの部屋の中で互いの表情を照らすのは、時間になれば灯る縁側の釣燈籠とまだ濃紺に染まりきらない藍色の空だった。こんな筈では無かったと、内心頭を抱えたい程の後悔が滲む。
 無責任な言葉と捉えられても仕方がなかったと今思う。どうして欲しいかと問われ、彼女の思う通りの道を選んで欲しいというのは何より浮竹の本心である事に違いはない。その中で断る選択肢が有るのならば、それを彼女の意思によって選び取って欲しいと思う。
 そこへ口出しをしたくないというのは、彼女の意思を浮竹の言葉によって万が一にも曲げる結果になることが何より不本意であったからだった。彼女を思うがあまり委ねすぎてしまった事を今になって後悔している。
 彼女自身は断るつもりであった事には違い無く、浮竹もそれを望んでいたというのに何故今この状況に陥っているというのか。必要のない迂回を良かれと思ってした結果だろう。
 今にも零れそうな涙をその目の淵でせき止めながら、しずかに呼吸を繰り返す千世の次の言葉を待つことしか出来ない今の状況が不甲斐なく、しかし今言葉を重ね掛けたところでその重みなど一分にも満たない。

「すみません…言い過ぎました。外の空気を吸ってきます」
千世、待ってくれ」

 一瞬掴んだ腕は簡単に振り払われ、襖を勢い良く開き逃げるようにして走り去ったその背中を唖然として見つめていた。まさか逃げ出されるとまでは思っても居なかった浮竹は呆然とするのみだった。
 今や明かりの灯った廊下の方がこの執務室より明るく、開いた襖の前できょとんとした清音が顔を覗かせていた。その手には先程浮竹が受け取った饅頭屋の紙袋があり、恐らく千世への差し入れに来た所だったのだろう。
 一体千世とのやり取りをどこから聞いていたのかは知らないが、今は特に焦りの感情などは無い。ただ今は逃げ出した千世の背を思い返しながら、あまり働かない頭で最善を探し出そうとしている。

「珍しいですね、喧嘩なんて…」
「ああ…まあ、だが何も初めてじゃない」
「でも、千世さんが泣いてるのはあんまり見た事無いです」

 清音の言葉に、浮竹は口を噤む。そそくさと執務室へと清音は入り込み慣れたように部屋の明かりをつけると、煌々と照らされる照明に眩しく目を細めた。

「何が原因か分かりませんが、これどうぞ」
「これは…ありがたいが、さっき俺は貰ったよ」
「違いますよ、千世さんの分です。賞味期限今日までなので、よろしくお願いします」

 手渡された紙箱を開ければ、浮竹が先程受け取ったものとまるで同じように二つの饅頭が収まっている。清音の言葉を反芻しながら眺め、その箱を閉じた頃には彼女はいつの間にやら部屋から姿を消していた。
 一人になった執務室を見回すと、彼女がまだ手を付けている最中だったものが風呂敷の上に散乱している。一つを拾い上げて見れば、彼女の毛筆で細かに記されていた。内容からするに授業内容を纏めたもので、日々の仕事を熟しながら一体いつ手を付けていたのかと感心する。
 机上の明かりを灯し、夜な夜な筆を執る事が一度や二度では無い事を知っている。何事に対しても意思を曲げず、強情なまでに前を見続けるその直向きさに、今まで何度惹かれたか分からない。
 お世辞にも整理をされているとは言えない執務机に埋もれている彼女の姿を、今は空席のそこに思い浮かべ重ねる。心奥で湧く温い何かが、指先まで冷えていた身体にじわりと滲んだ。

2021/05/17