薬指の心得-1

2021年6月26日
おはなし

 

 庭の紅葉が鮮やかに色付き始めていた。朝晩の冷え込みが激しいほど、葉の色はより鮮やかに美しくなると聞いたことがある。それを知ると、庭で立派に枝を広げる紅葉が寒さに歯を食いしばり、命からがらあの見事な紅色を見せてくれているように思えてどこか申し訳ない。
 浮竹は縁側で大きく伸びをした後ひとつ身震いをし、手を袖へ仕舞いつつ寝室へと戻った。昨晩隣で眠ったはずの千世は朝目が覚めた時には既に姿は無く、丁寧に布団は畳まれていた。特に早めの出勤だとも言っていなかったのだが、取るに足らない都合でもあったのだろう。
 この所朝晩は寝間着一枚では足りず、茶羽織を羽織り布団も夏掛けから冬用の羽毛へと取り替えた。今一度布団に潜り込みたい衝動を抑えながら、敷布団を三つに畳み端へと退ける。時計に目を遣れば八時を回ろうとしており、慌てて帯に手を掛けた。
 今日は休日ではあったが、月に一度の健診の予定を入れていた。忙しさも相まって二ヶ月ほど休んでいたのだが、いい加減に来なさいと先日隊首会の際に卯ノ花からとうとう直々のお叱りを受けた。
 別に逃げていた訳ではない。三時間ほどは掛かる健診を何十年と毎月受けていれば、必要とはいえ面倒に思えてしまうもので、健診を先延ばす事は往々としてあった。自身の身体の事を思い叱って貰えるというのは実に有り難い事で、何も言われなくなった時はいよいよだろう。
 死覇装に腕を通しながら憂鬱を溜息に乗せる。健診をされる身でこうも鬱々となって、他人の健診をする側である卯ノ花の方がよっぽど面倒だろうとは分かっているのだが。
 休日に特に隊長羽織に腕を通す意味もないのだが、つい癖で死覇装へ着替えてしまったからには仕方ない。そのまま屋敷を出ると肌寒さに自然と身が震え、まだ冬に満たない時期だというのに既に春が恋しく思えた。
 通り掛かる隊士と軽く会釈を交わしながら、四番隊までの道を急ぐ。予定の時間には未だ余裕はあるが、早く終えてしまいたい気の表れだろう。

「珍しくお早いですね」
「ええ、まあ…すみません。暫く顔を出せず」
「いえ、私は別に良いのですよ。お身体を悪くされて辛い思いをされるのは浮竹隊長ですから」
「す、すみません…」

 一寸も崩さない笑顔のままの卯ノ花に、浮竹は仰る通りと頭を垂れる。健診の予定をだらだらと二度ほど先延ばしにした事に余程お怒りなのだろう。
 指示される前に帯へと手を掛ける。健診はほぼ半裸の状態のまま寝台の上で行われ、殆どは何か器具を取り付けられて放置されている。だからうつらうつらとしている間に済む話なのだが、時折状態を見に来る卯ノ花が吐く溜息が不安を煽る。
 寝台へ転がる準備をしていれば、そういえば、と卯ノ花は口を開いた。

日南田副隊長のお噂、伺いましたよ」
千世の話ですか?一体何の」
「縁談のお話ですよ。ご存じないのですか?」

 縁談、と浮竹は言葉を繰り返しぽかんと卯ノ花の顔を見返す。まるで身に覚えのない言葉で、頭上に疑問符を無数に浮かべた。

「何のお話ですか」
「私も詳しいことは存じませんが、日南田副隊長に良い縁談のお話が持ち上がったようで」

 実に間抜けな表情をしている事は自覚していた。だが、まるで卯ノ花の言う話に心当たりがなく、暫く時が止まったかのように呆然としていた。理解の出来ない事に突き当たるとこうも見事に思考が止まるものかと、空転する脳に呆れる。

「どういう事ですか、それは」
「私も先日偶然耳にしただけですので、詳しくは」

 卯ノ花はそう上品に笑う。まるで理解の出来ていない浮竹は、その鈍い思考でここ暫くの彼女の様子を思い出していた。しかし縁談などという言葉が一度たりとも出たことはない。もしもその脈絡のない話が真実だとして、何処でいつ、誰を経由して持ち上がった話なのか。
 副隊長の職位を持つ彼女への縁談となれば、どのような経緯であれ隊長に話が通るまでに時間は掛からないはずだ。卯ノ花の言うように「良い縁談」ならば相手にはそれなりの社会的地位が有るのだろうし、話の進み方によっては脱退や休隊という事にもなり得る。
 いやまず第一に、隊長である以前に彼女の恋人でもあった筈だ。どういった事情であれ、万が一そのような話が出れば真っ先に相談を受けるはずだろう。しかし、不審な様子も無ければ悩んだ様子も見ていない。昨日も変わった様子は無く床についた事を憶えている。
 あまりに唐突な話で、まるで現実味がない。卯ノ花には珍しく、そう嘘くさい噂を仕入れたものだ。まさか、と浮竹は乾いた笑いを漏らす。

「何かの間違いでは無いですか」
「さあ、どうでしょうか。本人に伺ってみたらどうですか」
「本人にですか?」
「ええ、ご自身の副官でいらっしゃりましたよね?」

 仰る通りだが、ただの噂をわざわざ彼女に尋ねるというのもどこか気が引ける。かと言って、このまま触れずに居るというのも喉の奥に引っかかる小骨のように気がかりだった。
 根も葉もない噂と、そう理解し収めようとしながらも、内心噂でなく事実だった場合にうっすら想像を及ばせて少なからず動揺をしている。彼女との関係を公にしていないとはいえ、縁談の話など舞い込めば浮竹へ全く相談をしない事など彼女の性格からすれば有り得ないだろう。
 あちらこちらと思考を行ったり来たりさせながら気が落ち着かず、かといって今この診察室から出ることは叶わない。呆然としていれば、寝台へ横になるよう促され慌てて手を掛けていた帯を解いた。
 しかし何故そんな話を卯ノ花は持ち出したというのだろうか。偶然聞いたと言っては居たが、彼女は千世との関係を知らない筈で特に浮竹へ伝える意味は分からない。
 指示された通り寝台の上へと上がったものの相変わらず上の空は続き、ぼうっとその無機質な天井を見上げる。ただの噂だろう。出来ることならばその噂の出処を突き止めたいものだったが、根掘り葉掘りすれば不審に思われそうなものだ。

「ひとつ、お相手は津島家のご長男と伺いましたよ」
「はい…?」
「縁談のお相手。日南田副隊長ともお歳が近かった筈です」

 にっこりと笑う彼女の見下ろす顔に何か他意があるように思えてならなかったが、どうにか飲み込んだ。津島という家名は聞き覚えがあったような気もしたが、あまりまともに頭が働かず、はあ、と情けない空気混じりで相槌を返す。

「浮竹隊長、お顔色が悪いようですが」
「…ああ、いや。平気です」

 そう答えたものの平気な訳がない。内心緊張に似たような感覚で胃が引っくり返りそうだった。はじめますよ、と鈴を転がすような声音が響き浮竹は目を閉じる。珍しく全く眠気は無く、ただ胸騒ぎと共に過ごす数時間を思うと鬱屈とした。

 健診は予定通り昼過ぎには終えた。いつもならばこの後は昼食を適当に済ませるものだが、あいにく食欲は無い。
 あれから卯ノ花との雑談は無く、事務的な会話を交わしたのみだ。まず彼女から雑談を振られる事自体が珍しかった。特に噂話など意味のない話題を持ちかける事はそうそうない筈だ。
 四番隊舎からの帰路を辿りながら、しかし屋敷へ帰る気は起きずにいた。卯ノ花との会話を思い返すと、さっと冷や汗が出る感覚で実に気分が悪い。信憑性に欠ける話だとそう収めようとしていたのだが、相手の家名を聞いてしまったのでは状況が変わった。
 しかし津島という家名に聞き覚えはあったが、具体的な人物を思い出す事ができない。靄がかったような感覚のまま浮竹はふと思い立ち、行く宛を決めていなかった足を旧友の元へと向けた。
 いつもどこかしらへふらふら出歩いているから隊舎に居ない可能性もある。居なければ居ないで探し出すような真似までするつもりは無いが、出来ることならば津島家の事だけでも明らかにしておきたい。

「珍しいじゃない、ウチまで来てくれるなんて」
「通りかかったからな、挨拶だよ」

 八番隊の隊首室の庭へ直接降り立てば、縁側で横になる京楽が眠そうな目を開けて手をひらひらとさせた。渡された書類の確認が終わるまで隊首室に監禁されているのだと、そうまるで緊張感のない様子で京楽は笑う。
 起き上がった彼の隣に浮竹は腰を下ろすと、そのまま庭の紅葉を眺めた。浮竹の屋敷にある紅葉よりも幹は太く、目一杯伸ばす枝葉と鮮やかな紅色が見事だった。此処は随分日当たりが良いから、余計見事に映るのだろう。

「それで、何の用」
「え?いや…」
「そんな深刻な顔して、まさか挨拶だけな訳ないでしょう」

 普段どおりを心がけていたはずだが、京楽相手にそれは通用しないようだった。
 浮竹は咄嗟に口ごもる。どう尋ねようかと顎を擦っていると軽く覗き込まれ、さっと視線を外した。津島家を知っているかと、そのまま口に出せば京楽は特に考える素振りもなく口を開く。

「津島家は、ほら代々霊術院で史学教授を務めてる名門じゃない」
「ああ…津島先生か。今思い出した」

 主にこの世界の成り立ちを学ぶ史学は、薬草学と並ぶ退屈さで有名だった。居眠りをしては叩き起こされた事を良く覚えている。ようやく繋がった記憶に浮竹は感心をしていたが、京楽は話の続きを促す。

「それで津島家がどうしたの」
「…いや、何でも無い」
「何でもない訳がないでしょう、わざわざ休日にボクの所まで来て」

 浮竹の態度が分かりやすいのか京楽の勘が良いのかは分からないが、疑問を解消して終わりという訳にはいかないようだった。今更京楽相手にこれ以上隠す事も無いかと、浮竹はその重い口を開く。

「縁談?千世ちゃんに、今?」
「いや、分からない。卯ノ花隊長からそういう噂があるとさっき聞いたんだが…」
「なあにやってんの、浮竹。何、そのお相手が津島家のご長男様って事かい」

 呆れたような様子に、浮竹は視線を落とす。何をやっているのか叱られた所で、彼女から何の相談も受けていない身としては釈然としない。相談を受けた上で縁談を受けているというのならばとんでもない話だが、生憎浮竹は欠片も知らない出来事だ。
 寝耳に水も良い所で、まるで寝耳に冷水を流し続けられているかのような状況だった。

「それ、噂じゃないかも知れないね」

 霊術院時代に浮竹達が世話になった津島先生は百年ほど前に逝去され、現在はその一人息子が当主となり霊術院の教頭を務めている。さらにその長男、つまり津島先生から見れば孫にあたる者が丁度千世と同年代なのだという。
 もし現当主が隠居を視野に入れているというのならば、まだ独り身だという長男に身を固めさせたいと思うのが至って通常だろう。現在その長男は霊術院で史学の教授を務めており、つまり千世の同僚にあたる。
 父親である教頭が目をつけたのか、はたまた長男本人が目をつけたのかは知らないがどちらにしろ気に入られ、気づけば縁談として正式に申し込まれてしまったのだろうと京楽は見当をつける。
 卯ノ花は回道の客員教授として霊術院には在籍をしているというから、その中で知ることになったのだろう。それならば彼女が千世の縁談を知っていた事に対しての納得はいく。余計な面倒ごとを避けるために噂という曖昧な表現を使ったのだろうが、恐らく事の仔細は存じていたはずだ。

「目、付けられちゃったんだねえ」
「…だが、俺は何も聞いてないんだよ。千世に妙な様子も見えなかった」
「どうしてだろうね。浮竹に何か言えない理由でもあったのか、若しくは端から断るつもりで敢えて浮竹に言わなかったか」
「どちらにしても、俺は知りたかったんだが」

 はあ、と吐いた溜息がやけに女々しい。京楽の言う通り、千世が浮竹へ何も伝えていない事に何かしらの訳が有るのだとは思う。だが理由に皆目見当がつかず、ただ暈けた不安だけが無為に募ってゆくばかりだった。

「でも、まさか受けてないんだろう」
「そこまでも分からん。…まあ、受けているはずは無い、と思いたいんだが」

 そう気まずく口を閉じた所で、突然部屋の襖を激しく叩く音にびくりと二人して背筋を伸ばした。隊長、と激しい剣幕で呼ぶ声は恐らく伊勢だろう。襖に何やら京楽が細工をしているのか外側から開けられないようで、伊勢の声には怒りが滲み出ている。
 まずいなあ、とのんびりした様子で京楽は襖を振り返った。

「サボってる間結界張ってたんだけど、もう破られちゃうね。浮竹、見つかる前に帰ったほうが良い」
「あ、ああ…悪かった、邪魔した」

 浮竹は立ち上がると、そのままさっさと隊舎を囲む塀の外へと退散した。間もなく、襖が勢いよく開く音と共に京楽を叱りつける声が響く。一瞬でも退散が遅ければ、浮竹も一緒になって叱られていたことだろう。
 ずっしりと何かのしかかるような重苦しさが拭えないまま自らの屋敷へと足を運びながら、しかし隊舎に顔を出す事は気が乗らなかった。話の全容をおおよそ理解した今、はっきりさせたいのならば彼女に聞けば良い話だというのに、この状況では千世と顔を合わせてもうまく尋ねられる気がしない。
 恋人相手に何を気後れしているというのか。初めて味わう苦い感覚に、浮竹はこの晴れ渡った秋空の下似つかわしくない陰鬱な吐息を漏らした。

2021/05/07