花笑みまどろむ

おはなし

 

 千世はぱたんと手元の雑誌を閉じる。現世任務中の松本からお土産だと人づてに渡されたもので、目を通してみれば恋愛に関する経験談や指南書のようなものだった。所々知らない横文字が並ぶが、大体の意味は分かる。
 初めはなんと下らない雑誌をと投げ出していたのだが、ふと休憩中に開いてみればやけに興味を惹かれた。現世の女性とは積極的なのかそれとも現世の男性が消極的なのか、随分と驚くような体験談が綴られていた。
 長椅子の上で食い入るように読み進めながら、時折過る浮竹の姿をかき消す事を繰り返す。

千世さん、居る?」
「びっ…びっくりした……」
「あ、ごめんごめん…休憩中?」

 襖を開いて現れた清音の姿に、思わず千世は雑誌を背中へと隠す。その様子が恐らくあまりにも不審だったのだろう、にやりとした清音は千世に飛びかかるとその背に隠された雑誌を引っ張り出した。
 取り上げようとする千世の手をひらりと交わし、椅子へと腰を下ろす。興味深そうにその表紙を眺める清音に、これ以上の悪あがきは無駄だと千世は諦めると顔を赤くして目を逸らした。恥ずかしい物を見られてしまった。

「”愛され女子のススメ”……」
「それは、違うの…乱菊さんが現世のお土産って送ってくれたもので…」
「いやいや、良いんじゃない?だって千世さん、最近彼氏出来たって聞いたし」
「は………え?」
「違った?」

 相変わらず意味ありげな様子で口元を緩めている清音に、千世は目線を泳がせる。ここで妙な事を言えば墓穴を掘りかねない。以前に伊勢から噂になっているという話を聞いたばかりで、確かその出処が勇音だった。彼女の妹である清音が知らないはずがない。
 あれから勇音に噂の訂正をしようと思っていたのだが、都合が合わず結局放置したままだ。少し時間も経っているからもしかすれば恐ろしい速度で広がっている可能性もある。
 だが、噂を消そうと下手に動くというのも逆効果だ。やはりこのまま放っておくしかないのだろうと、千世はひとつ溜息をつく。

「やっぱり彼氏出来たの本当なんだ!」
「本当というか…その、うーん…」
「でもなんとなーくそんな気してたんだよね、千世さん綺麗になったから」
「そ、そうかな…いや、そんな事は…」

 そう言われるとあまり悪い気はせず、口角が自然と上がるのが分かる。緩む口元にぎゅっと力を込めながら、あまり明確な否定をしなかった事に多少の後悔が募った。
 恋人が出来たのは紛れもない事実であって、その事実の部分を完全に否定をするのはやはり躊躇われた。伊勢に指摘された時も同じような反応をした事を思い返す。相手の部分でははっきりと否定したものの、恋人の部分は暗に認めるような反応を無意識にしていた。

「彼氏と休みの日はお出かけとかしてるの?」
「お出かけ……あー…うん…でも最近は忙しくて…」
「そっか、千世さん臨時講師の仕事も入ってるしね」

 嫌な予感がする。このまま話が進めばあれやこれやと聞かれることは間違いない。興味深そうに雑誌へ目を通す清音に千世は近づくと、ひょいと隙を見て取り上げた。
 不満そうに口を尖らせる清音を尻目に雑誌を縁側の方へ遠く放り投げる。

「あー!もっと読みたかったのに!」
「私もそろそろ仕事に戻らないといけないし」
「じゃあ最後に一つだけ聞いても良い?」
「うん、変なことじゃなければ…」

 牽制でそうは言うが、あまり意味は無いのだろう。清音は千世の顔を興味津々と言った様子で目を輝かせて見つめる。恋人が居る者はそう珍しい訳でもないというのに、ここまで食いつかれるのは今まで全く男っ気が無かったせいなのだろう。

「最近好きって言われた時の話教えて欲しいの」
「好き……?」
「そう!やっぱり恋人なら言ったり言われたりするよね?あたし今心の潤いが欲しくて、少しだけそういうの教えて欲しいの」

 あー、と千世は思い返す。好き、という言葉を果たして伝えたことがあっただろうか。その逆も然りだ。あまりはっきりと感情を言葉で伝えるという習慣がきっとお互いの中に無い。
 その表情や仕草や纏う空気で恐らくそう思っているのだろう、こう感じているのだろうと薄っすら思う事で満足をしている。それが果たして恋人同士として正しい付き合い方であるかは分からないが、少なくとも不満を感じた事は無かった。
 だから、今の今まで好きという言葉を伝えたことが無い事にすら気づいていなかったのだろう。
 千世の言葉を目を輝かせて待つ清音の額に一つ軽くデコピンを食らわせると、彼女は驚いたように額を押さえる。あまり千世らしくない行動に面食らったのか、暫く混乱した様子で目を丸くしていた。

「そんな事話せません」
「えー!?良いじゃんちょっとくらい分けてくれたって!」
「もう私仕事戻るから、また今度!」
「ちょっと千世さん!ケチ!」

 無理矢理背中を押して執務室から追い出すと、何やら抵抗しているがそのまま襖を閉めた。諦めたのか間もなく彼女の声は途絶えて、再び静かな空間へと戻る。
 椅子に腰を下ろしながら、清音の言葉を思い出す。好きなんて、確かに彼の口から聞いた事がない。きっとその言葉以上の愛情を日頃から感じているが、だが聞けるものならば聞いてみたい。
 清音の言う通り普通の男女というものは好きとか愛してるとか、そういう事を日頃から囁き合うものなのだろうか。考えるほどどうしてか羞恥がこみ上げ、赤くなった顔を机の上にぐったり伏せる。
 また妙な事に囚われてしまった。こうなると頭の中にずっとその言葉が残り、ぐるぐると回る事を良く分かっている。はあ、とまた一つ溜息を吐くと目の前に積み重なった書類の一番上に手を掛けた。

 書類の山が半分に減った頃、もう日はすっかり暮れていた。夏を過ぎ、夜を迎えるまであっという間のように感じる。庭からは虫の声も聞こえ、涼しい風が吹き込んだ。
 未だに先程の清音の言葉が頭を巡っている。手元に集中している間は一瞬でも忘れることが出来たが、こうしてふと集中が途切れるとすぐにそれで頭が満たされてしまう。
 大霊書回廊での捜査は一段落したようだったが、相変わらず浮竹は日々忙しなく一番隊と隊舎とを往復しているようだった。藍染やその目的について等大体の話についてはついこの前隊首会に同席をした際に聞かされている。
 あまりに規模の大きな話で現実味が無いものだった。しかし現世では既に破面との戦闘が発生している。ふと思い立って最近の休日は四番隊の伊江村三席に頭を下げ、回道の手ほどきを受けていた。決戦は冬と聞き、少しでも可能性を増やすべきだろうと思った。
 性に合っているようで浅い傷ならば僅かな時間での回復が可能なまでに成長している。学院時代あまり真面目に向き合わなかった事を、今更ながら後悔したものだ。
 よし、と千世は書類を纏めると立ち上がる。まだ処理中の報告書は半分ほど残ってはいるが、明日は霊術院での授業も入っているからあまり遅くまで残るような事をしたくはない。また明日隊舎へ戻った際に手を付ければ十分に間に合うだろう。
 行灯の明かりを消し廊下に出ると、襖をぱたんと閉める。暫くぼんやりと考えながらそのまま固まっていたが、思い立ったように千世は玄関とは真逆の方向へと廊下を進み始めた。
 しんとした池の中、雨乾堂には明かりが灯っている。その灯りが目に入っただけで途端にぐらりと心臓が揺れ、気が急いた。部屋の前で声をかけると、優しい声が返る。

「まだ残ってたのか」
「はい、少し書類を溜めてしまって」

 文机に向かっていた彼は筆を置き、千世の方へと身体を向ける。暫く入り口の辺りでそわそわとしていたが、おいでと手招きをされ、彼の近くまで膝を擦って近づいた。

「何かあったんだろう」
「…えっ!?」

 浮竹の言葉に思わず声が漏れ、口を押さえる。

「そんな顔をして此処へ来る時は、大体何かあった時だ」
「それは何というか…お恥ずかしい限りです」

 笑う浮竹に、千世は消え入りそうな声でそう呟く。見透かされるというのは何とも言い難い気恥ずかしさと、どこか情けなさがある。あまり表情の裏に感情を隠すことが得意でない事は自覚していたが、指摘をされると縮こまりたくなる。
 とはいっても、今此処へ来た理由を白状するというのは中々口が重い。考えるほど下らなく、彼の仕事の手を止めてまで話すような内容ではない。千世の言葉を待つ彼の表情がちらと目に入る度に更に千世の顔は険しくなる。
 一度冷静になればこの状況は避けられた筈だ。間違いなく今でなくとも良かった。

「すみません、私急用が…」
「下手な嘘は止めなさい、余計に気になるじゃないか」

 立ち上がりかけた手を引かれ、千世はまた同じ場所へと戻される。再び逃げ出さないようにかその手を握られたまま、また先ほどと同じような空気が流れる。
 目線を逸しながら、うーんと唸っていたが、向けられた視線が痛くてとうとう観念したように口を開く。

「…好きと、言って欲しいな…と」
「…ん?」
「す…すきと、言って欲しいなと!」

 千世の声が静かな部屋に響く。目を丸くしている浮竹の表情を見て、ますます消えたくなる。気になるというから、振り絞って言ったというのに。

「急に何かと思えば」
「す…すみません…下らない事だとは分かってるのですが…」
「いや…確かに、言った事は無かったかも知れない」

 浮竹は考えたように腕を組む。やはり言っていない覚えはあったというのか。それは千世も同じではあったが、交際してから暫く経つというのに肝心な言葉を交わしていないというのは一般的には良くある事なのだろうか。
 きっと好き合う男女の中で自然に出るべき言葉であって、敢えて言うようなものでないとは分かっている。しかしそれ以上に彼からその言葉を向けられたいという欲が勝っていた。
 意図せず期待したような視線で浮竹を上目で見ると、ふっと微笑まれる。

「俺の記憶が正しければ、千世に好きだと言われた覚えも無いな」
「…ええ、はい…そうなんです」
千世。言い出しっぺの法則というものがある」
「はい。…あ、私からという事ですか!?」

 言い出した方からというのは、納得できる言い分だ。少し迷ったように視線を移動させたが、背に腹は代えられない。

「…すきです」

 口に出すと、その溶け出すような甘さに胸焼けするようだ。彼の表情を見ることが出来ず、目を伏せてそのままじっと畳を見つめる。
 暫くそうしていたが、彼からの言葉は中々返って来ず千世は焦る。ちらとその顔を見上げたが、特にいつもと変わらない様子で口元には笑みを湛えていた。

「…隊長の番ですよ」
「ああ、分かってるよ」

 そう言うと手を引かれ、彼の身体へと引き寄せられた。体温が伝わる距離に、千世の胸は大きく脈打つ。包まれるような香りが心地よく目を瞑ると、耳元に寄せられた唇から微かに聞こえた言葉に閉じたばかりの目を丸く見開いた。
 みるみる耳まで赤く染まった顔を隠すように彼の胸元へ押し付ける。たった数文字の言葉が、耳の奥にこびりついてまだくすぐり続ける。息が詰まるような感覚に耐えきれず彼を呼ぶと、直ぐ傍で優しく喉の鳴る音で返された。

「…やっぱり、好きです」

 千世の言葉に応えるように、掌が髪を柔く撫でる。うるさく鳴り続ける心臓を落ち着かせる手立てはどうしても無いように思えた。
 精々後悔をしないように、何度も今聞いたばかりの言葉を反芻しながら手を握り返す。

 

花笑みまどろむ
2020/09/07