羅針盤の寿命

50音企画

羅針盤の寿命

 

 夜ふと目が覚めると隣の布団から彼の姿が消えていた。掛け布団が捲れ、触れると未だあたたかい。厠にでも向かったのかと思ったがしかしそのような気配でもない。ただ、縁側の襖が僅かに人一人が通れる程隙間が開いており、千世は誘われるように立ち上がった。
 今日は少しばかり温度が高いのか、寝間着の薄い生地でも夜風はあまり苦ではない。きょろきょろとあたりを見回すが、そこに浮竹の姿は無かった。しかし庭に出している下駄が一組消えている。もう一度ぐるりと庭を一通り見回すものの、しかし姿は見当たらない。
 あれ、と声を上げ千世は下駄をつっかけ庭へと出る。あの背丈の男が隠れる場所など見当たらないし、念の為松の木の陰も確認をしたが勿論姿はない。そうして庭をうろうろとしていれば、どこからか名前を呼ばれた。

「ここだよ、上だ」

 上、という声に瓦屋根の上を見上げると浮竹が腰を掛けている。まさか屋根の上だとは思うまい。おいでと手招きをされ千世は屋根の上へと飛び上がり、ふらふらと彼の横へと腰を下ろした。

「どうしたんですか、夜中に」
「どうも眠れなくてな。庭に出たら星が綺麗だったから暫く眺めてた」

 そう言われ千世は空を見上げる。今日は月がない夜だというのに、やけに空が明るく見えたのはそのせいか。確かに濃紺の空には雲ひとつ無く、星が一面に散らばっていた。特に輝きの強いものはきらきらと瞬く。

「星の灯りがこの場所へ届くまで、何年も何十年も掛かるらしい」
「そうなんですか?」
「星が発した灯りは途方も無い距離を経て、ようやく俺たちの目に映ると…まあ俺も、現世の本を齧っただけだから詳しくはないんだが」

 花火の音が遅れて聞こえるように、光というものも遠い場所で生まれたものであれば届くまでに時間がかかるのだと彼は言う。千世には理由も原理もよくわからなかったが、そういうものだと理解するしかないのだろう。
 あまり天体というものは詳しくない。現世ではあの光る星々へ近づく努力を続けていると聞いたことがあるが、尸魂界にはそれほど天体への熱意を持った者は居ない。まず第一に、この場所から見える星というのは果たして現世と同じものかも分からない。
 もしかすれば現世と同じ空を見上げているのかもしれないし、それとも現世によく似せたものを写しているだけなのかもしれない。しかし、現世で夜に見る星や月は、この尸魂界で見るものとまるで同じように見える。
 もしも同じ空だとして、あの星の灯りが彼の言うように何十年も、はたまた何百年も前の光だと言うのならば、まだ自分が現世で人間として生きていた頃に生まれた光が今頃この目に届いていたりするのだろうか。
 そう途方もないことを思うとどうしてか急に寂しくなり、隣の浮竹へと身体を寄せた。どうした、と不思議そうに囁かれ千世は小さく首を横に振る。それから間もなく、軽く肩を抱き寄せられた感覚に甘え、寄りかかり目を閉じた。
 体温を仄かに感じると、果てしなく広がる夜空の寂しさから少しは気が紛れるようだった。